北条氏康 巨星墜落篇第二十一回
十四
三月九日、長尾軍が臼井城への攻撃を開始した。
城兵の七倍以上の兵力で、守りの堅くない平城を攻めるのだから、景虎も細かい指図などしない。
「進め、進め」
と怒鳴るだけである。
城方の頼みの綱は城の周囲に巡らせた堀だけで、これがなくなれば裸城のようなものである。
長尾軍は、堀を埋め、堀を乗り越えて前進しようとする。
それに対して、城方からは矢を射る程度の反撃しかできない。
「籠城せよ、外に出て戦ってはならぬ」
という氏康の戒めを忠実に守ったわけである。
城に閉じ籠もって、決して外に出ないことを「貝のように蓋をして」という言い方をするが、そのやり方が通用するのは固い殻を持つ貝だけである。殻を持たないむき出しの貝は叩き潰されるだけであろう。それが臼井城なのである。
長尾軍の一方的な攻撃は、九日から二十日まで続いた。すでにほとんどの堀が埋められてしまい、さして広くも深くもない堀がわずかにひとつだけ残された。二十日には、本丸にまで肉薄された。
この間、浄三は何をしていたかと言えば、何もしていない。
正確に言えば、何もさせてもらうことができなかった。無名の悲しさである。
浄三は、原胤貞の家老・佐久間主水介(もんどのすけ)と古くからの知り合いで、旅の途中、たまたま臼井城に立ち寄ったときに、この戦に巻き込まれた。
家老の客として滞在しているから丁重にもてなされているが、軍師として招かれたわけではないから、軍議には出ていない。
主水介から話を聞いているし、暇があれば物見台に上がって敵軍の動きを眺めているから、戦の状況は把握している。
二十日の夜、主水介が疲れ切った顔で軍議から戻って来た。
浄三は主水介の部屋にある書物を好きなように読んで構わないという許可を得ているので、火鉢のそばで書物を読み耽っていた。
「お疲れのようですな」
浄三が書物を閉じる。
「うむ」
渋い顔で主水介が浄三の向かい側に腰を下ろす。
「今日は危うく本丸を落とされそうになった。最後に残った堀のおかげで、敵兵が殺到するのをかろうじて防ぐことができたものの、明日は、どうなるかわからぬ。まあ、明日は戦もないが」
「そうなのですか?」
「向こうから使者が来た。開城して、城を明け渡せば、城にいる者たちの命は助ける、好きなところに行って構わぬ、というのだ」
「ほう」
「他の者の言葉であれば、そう簡単に信じることはできぬが、長尾殿は嘘をつかぬ御方だ。約束を守るだろう」
「どうなさるのですか?」
「決まらぬ」
主水介が首を振る。
「小田原から来た松田殿は『鬼孫太郎』と呼ばれるほど剛勇で知られた御方だから、開城などすべきではない、援軍が来るまで籠城すべし、という考えだ。他の者は、ほとんどが開城やむなしという考えのようだな」
「主水介さまもですかな?」
「できることなら降伏などしたくない。松田殿と同じように、何としても城を守りたいが、この城は堅固ではない。最後の堀が埋められて、敵兵が押し寄せれば、守り抜くことはできぬ。大手門を破られれば、あっという間に戦が終わる。ただ......」
「何ですか?」
「長尾殿は、開城すれば城兵の命は助けるが、断れば、皆殺しにして城を焼き払うと伝えてきた。彼の人は、そうするだろう。そういう目に遭った城がいくつもあるからな」
「城主さまのお考えは、どうなのですか?」
「はっきりと口に出さぬが、できれば開城したくないというお考えのようだ。ここで城を捨てれば、また戻って来られるかどうかわからぬからのう。城主さまがご自分の考えを明らかになさらないので、何も決まらなかったのだ」
「なるほど」
浄三には主水介の言いたいことがわかる。
元々、臼井城は原胤貞の外孫・臼井久胤が城主だったが、第二次の国府台合戦の混乱に乗じて、胤貞が奪って城主の座に納まった。
ここで城を捨ててしまえば、先々、北条氏が臼井城を奪還したとき、すんなり城主として戻れるかどうかわからないのである。
臼井氏は滅びたとはいえ、どこかに臼井久胤の血を引く者がいるだろうから、臼井氏の旧臣が再興を図るかもしれないし、あるいは、臼井氏も原氏も放り出して、北条氏が城代を置いて直轄支配するかもしれない。いずれにしろ、胤貞にとって、いいことは何もない。
胤貞が若ければ、一旦、城を明け渡しても、その後、何としてでも城を取り返そうと画策するだろうが、すでに六十という高齢である。そんな気力も体力もない。できることなら籠城を続け、小田原からの援軍を待ちたいというのが本音なのである。
三月初め、まだ城が敵軍に完全に包囲されていないとき、小田原から使者がやって来て、氏政が大軍を率いて援軍に駆けつける準備をしている、と伝えた。臼井城の救援だけでなく、佐倉城など周辺の城を守るためである。
ただ、一万五千の長尾軍と戦うには一万くらいの軍勢では話にならないから、氏政は大軍を編成しなければならない。できれば三万くらいは率いて行きたいという考えだから、兵を集めるのに時間がかかっている。
氏政の援軍がいつ到着するかわからないことが、臼井城にいる者たちの不安を大きくしている。
「援軍が来るまで持ちこたえられればいいが、この城は、もう一日も持ちそうにないのだ」
「余裕がないわけですな」
「明日と明後日は休戦ということになっている。その間に、どうするか決めて返答せよ、という使者の口上でな」
「明日か明後日に援軍が到着すればいいわけですな?」
「それを期待して、降伏勧告を蹴るべきだろうか? 援軍が現れずに城が落ちれば、城兵が皆殺しにされるのだぞ。わしも殺される。御身も、旅の途中で寄っただけなのに巻き添えになる」
「それは困りましたな」
浄三が口許に笑みを浮かべる。その表情からは、さほどの切迫感を窺うことはできない。
「開城はしたくないが、このままでは城がもたぬ。降伏しなければ皆殺し......。となれば、道はひとつしかありますまい」
「ん? 何か道があるのか」
「ええ、あります」
「聞かせてくれ」
「戦うことです」
「......」
主水介が言葉を失い、瞬きもせずに浄三を見つめる。
十五
翌日は朝から軍議である。
これには浄三も出席した。この日の主役である。
まず主水介が口を開く。
「さて、敵方からの申し入れに、いかに返答するかということでござる。昨日は、降伏開城すべしという考えと、あくまでも籠城すべしという考えが拮抗して、皆がひとつにまとまることができませなんだ。降伏開城すれば、われらの命は助かる。しかるに、これを拒めば、皆殺しにして城を焼き払うという。見渡す限りの大軍に囲まれ、しかも、指揮を執るのは毘沙門天の化身と言われる長尾殿でござる。誰でも恐ろしくないはずがない。援軍の見込みがなければ、敵方の申し入れを受け入れるべきかもしれませぬ。しかしながら、小田原の御屋形さまが大軍を率いて、ここに向かっているのも間違いのないところ。降伏開城したはいいが、すぐ後に御屋形さまの軍勢が現れたら、われら一同、御屋形さまに顔向けができませぬ」
主水介が言葉を切り、一同を見回す。
「佐久間殿、おっしゃりたいことはわかりまする。しかしながら、昨日の軍議で、十分に話し合いをしたはず。どうしても皆の考えがひとつにならぬのであれば、城主さまにお決めいただくしかありますまい」
松田孫太郎が上座の原胤貞に顔を向ける。
胤貞は難しい顔で目を瞑り、黙り込んでいる。
「まあ、待たれよ。昨日の話し合いを繰り返そうというのではない。降伏開城か籠城か、ふたつにひとつと思い込んでいたが、実は、もうひとつの道があるのです」
「何ですと、どんな道ですか?」
松田孫太郎が首を捻る。
「敵と戦うという道です」
それまで黙っていた浄三が口を開く。
「あなたは......?」
「紹介が遅れましたが、これなるは、白井入道浄三殿です......」
主水介が浄三を紹介する。若い頃から兵学修行に励み、ここ数年は関西方面にいたので、関東ではあまり知られていないが、優れた軍師である、と。
「ほう、さようでしたか。で、いかなる策があるのでしょうか?」
松田孫太郎が訊く。
このときの浄三の言葉が『北条記』に残っている。
敵陣の上に立つ気、何れも殺気にして、囚老に消る。味方の陣中に立つ気、皆律気にして、王相に消る間、敵の敗軍疑なし。
すなわち、敵は自分たちが大軍であることを恃(たの)み、こんな小さな城は簡単に踏み潰せると侮っている。だから、城兵を皆殺しにしてやろうと敵陣には殺気が満ちているのである。
しかしながら、味方の方は、大軍を前にしても怯まず、何としても城を守り抜こうという気概に溢れているから溌剌とした気が満ちている。戦というのは気持ちの持ちようで大きく変わるもので、兵力の多寡で決まるものではない。双方の気持ちの持ちように大きな違いがあるから、敵の敗北は間違いない、と。
「なるほど、言いたいことは、よくわかります。で、策というのは?」
松田孫太郎が重ねて訊く。
「敵は傲っている。もう戦に勝ったつもりで油断している。それを利用するのです......」
浄三は敵を負かす策を説明する。
どこにもややこしいところのない、単純な策である。あまりにも単純なので、その場にいる者たちが呆気に取られたほどだ。
「それで勝てるのですかな?」
「はい。勝てます」
何の力みもなく、至極、あっさりと、浄三がうなずく。
「......」
皆が黙り込む。
「城主さま」
主水介が胤貞に顔を向ける。
ここで、ようやく胤貞は目を開け、
「わしは、よき策であると思う。命惜しさに、一戦も交えずに、おめおめと敵に城を明け渡すことなどできぬ。そんなことでは、主水介が言ったように御屋形さまに顔向けできぬ。しかし、籠城しようにも、最後の堀を埋められてしまえば、ここは裸城になる。長尾殿に焼き払われてしまうであろう。それくらいならば、白井殿の策に従って、わしは長尾殿に戦いを挑みたい」
「おおっ、それは、よい。わしは大賛成でござる」
松田孫太郎が膝を叩いて、大声で賛成する。
胤貞と松田孫太郎の言葉に心を動かされたのか、他の者たちも口々に賛成する。
「......」
主水介がちらりと横目で浄三を見遣る。
浄三は、いつもと変わらぬ表情で、口許に薄い笑みを浮かべている。
(本当に大丈夫だろうか)
浄三の策を皆に披露したのは主水介だが、一抹の不安を拭い去ることができない。敵は一万五千、指揮を執るのは名将・長尾景虎、対する味方は、わずかに二千、軍配を握るのは無名の軍師なのである。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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- 第二十一回2025.05.07