北条氏康第十八回

十七

 小太郎、十兵衛、金石斎の三人は御前を辞した。
 廊下に出ると、小太郎は、足早に先を進む金石斎を追い、
「金石斎先生」
 と呼びかける。
「何かご用ですかな、風摩殿?」
 金石斎が小太郎に冷たい目を向ける。
「御屋形さまが先生に教えを請うようにとおっしゃいました。ご指導をよろしくお願いいたします」
 小太郎が丁寧に頭を下げる。
「御屋形さまのお指図には従いますが、足利学校の教授にならぬかと誘われるような優秀な御方にわたしが教えられることはないでしょう。易にしろ、陰陽道にしろ、その解釈や占いのやり方などは人によっても違いますし、どこで学んだかによっても違ってくるものです。わたしは足利学校で学んだわけではないので、わたしと風摩殿のやり方に違いがあるのは仕方のないことです。占いのやり方が違っていれば、おのずと吉凶にも違いが出る道理ですが、風摩殿は伊豆千代丸さまの軍配者になる御方ですから、伊豆千代丸さまが当主となられるまでは、わたしの占いを重んじていただきたい」
「差し出がましいことをするつもりはありません」
「それを聞いて安心しました」
「しかし、御屋形さまは、北条家の軍法やしきたりも身に付けるようにおっしゃいましたが......」
「そのようなことなら、わたしでなくても、そこにおられる伊奈殿も詳しくご承知のはずです。早雲庵さまや御屋形さまに従って戦に出たことのある御方であれば、誰でも承知していることですからな。教えるのが嫌だというのではありませんが、上杉との戦が近付いている今、わたしも屋敷を留守にすることが多いので、あまり風摩殿の相手をして差し上げられぬと存じます。それでは申し訳ありませんから、どうか、わたしに遠慮なさらず、誰にでも教えを請えばよろしいかと存じます」
 金石斎は軽く会釈すると、小太郎に背を向けてさっさと歩き出す。
「......」
 小太郎が呆然と佇む。金石斎の物言いは丁寧だったが、それは慇懃無礼に過ぎず、自分に向けられる強い敵意をひしひしと肌に感じた。なぜ、これほど露骨に拒絶されるのか、その理由がわからない。
「気にするな。心の狭い奴なのだ」
 十兵衛がそばに来て、小太郎の肩に手を載せる。
「いいのでしょうか。金石斎先生に教えを請うように御屋形さまから命じられたというのに」
「肝心なのは、おまえが北条家の軍法やしきたりを身に付けることだ。それくらいならば、わしが教えてやることもできる」
「はい」
 うなずきながらも、小太郎は金石斎の敵意に満ちた視線を忘れることができなかった。

十八

 翌朝、小太郎は勝千代の病室に足を運んだ。
 といっても、病室には医者以外は入ることができないので、その隣の控えの間を覗いたのである。
 大黒笑右衛門(しょうえもん)が姿勢を正して坐り込んでおり、その傍らで弁千代が眠り込んでいる。
「青渓と申します。昨日、足利学校から戻った者です」
 笑右衛門の前に腰を下ろし、丁寧に挨拶をする。
「おおっ、猪を矢で倒し、若君を救った御方ですな。わたしからもお礼を申します」
 笑右衛門が深々と頭を下げる。
「もう少し早ければ勝千代殿が怪我をするのを防ぐことができたかもしれません。残念です」
「いえいえ、家臣が主のために命を投げ出すのは当たり前のことです。万が一、伊豆千代丸さまの身に何かあって、勝千代が無事であったりすれば、御屋形さまに合わす顔がございませなんだ。この痩せ腹を切ってお詫びせねばならぬところでした」
「見事な心構えであると存じます」
「幼いとはいえ、勝千代とて武士の子。常に主のために命を投げ出す覚悟はできております。若君が無事であると知れば、さぞ喜ぶことでございましょう」
 笑右衛門がにこっと笑う。
「容態は、いかがですか?」
「正直に言えば、昨日の夜は、もう駄目だと諦めておりました。こっそり医者にも耳打ちされたのです。覚悟するように、と。しかし、真夜中を過ぎても、まだ息をしておりましてな。医者も驚いておりましたわい。夜明け前に医者が出てきて、まだ眠り続けているが、熱も下がってきたし、顔色もよくなってきた、もう心配ないだろう、と言ってくれました」
「それは、よかった。本当によかった」
「しぶとい子なのです。しぶとさが福島家の持ち味でしてな。伊豆千代丸さまにお仕えしたばかりであの世に逝ったのでは、父親や母親に叱られましょう。この先も長く伊豆千代丸さまに尽くしてもらわねばなりませぬ」
「勝千代殿が回復したことを、伊豆千代丸さまは、ご存じですか?」
「はい。お福殿に知らせました。勝千代が目を覚ましたら、見舞いに来て下さることになっています」
「では、わたしも、そういたしましょう」
 小太郎が腰を上げる。

 城の奥向きには勝手に立ち入ることができないので、
「妹の奈々に会いたい」
 と腰元に取り次ぎを頼んだ。
 しばらくすると、お福がやって来た。
「伊豆千代丸さまの乳母・福と申します。奈々なら、伊豆千代丸さまの部屋におりますよ。ご案内いたします」
 どうぞ、こちらへ、とお福が先になって案内する。
 歩きながら、
「昨日は、どうもありがとうございました」
 と、お福が礼を言う。
「たまたま居合わせただけです。伊豆千代丸さまが無事でよかった」
「おかげで伊豆千代丸さまだけでなく、奈々もわたしも倅の平四郎も助かりました。乳母のわたしが身を挺してお守りしなければならなかったのに、恐ろしくて震えてしまい、今にも腰が抜けそうな有様で......。いざというとき、役に立たぬようでは駄目ですね」
 お福が溜息をつく。
「人には、それぞれ役割があります。猪に立ち向かうのは、お福殿の役割ではありませぬよ」
「優しい言葉でございますね。ありがとう存じます」
 さあ、ここでございます、とお福が小太郎を伊豆千代丸の部屋に招じ入れる。
 小太郎の顔を見ると、
「兄ちゃん」
 と、奈々が飛びついてくる。
「こらこら、若君の前だぞ」
 小太郎がたしなめる。
「よいのだ、気にするな。ここでは堅苦しい礼儀などいらぬ。気楽にせよ」
 伊豆千代丸が言う。
「畏(おそ)れ入りまする」
 一礼して、小太郎が伊豆千代丸の前に坐る。
「わしの命を救ってくれたな。礼を申すぞ。この恩は決して忘れぬ」
「は」
「何か褒美をやろう。何なりと申すがよい。父上に頼んでやる」
「ひとつございます」
「何かな?」
「わたしを若君の家臣にして下さいませ」
「わしの家来になりたいのか?」
「はい」
「構わぬが四番目の家来だぞ。それでもよいか?」
「結構でございます。差し支えなければ、他のご家来衆について教えていただけませんか?」
「よいぞ。一の家来が奈々、二の家来が平四郎、三の家来が勝千代。だから、小太郎は四の家来ということになる」
「承知いたしました。では、四の家来にして下さいませ」
 小太郎がにこっと笑う。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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