北条氏康第五回

「ほら、金時(きんとき)、奈々に菓子をやるがよい」
 伊豆千代丸は、薄汚れた人形の腕に菓子を挟み、それを奈々に差し出す。
「まあ、金時は優しいのねえ」
 奈々がにっこり微笑みながら菓子を受け取る。
 金時は、伊豆千代丸が二歳のとき、乳母のお福があり合わせの布きれで作った人形である。その頃、伊豆千代丸は夜泣きがひどく、お福が添い寝してもむずかってばかりいるので、お福が一計を案じて拵(こしら)えたのだ。
「今夜からは金時が一緒でございますから若君も淋しくございませんね。泣いてばかりいると金時に笑われますよ」
「この子、金時というの?」
「足柄(あしがら)山から若君のところに遊びに来たそうでございます」
「ふうん、金時か......」
 伊豆千代丸はすっかり金時を気に入ってしまい、それ以来、いつも金時を懐に入れて持ち歩くようになった。夜泣きもしなくなった。九歳になった今も金時への愛情は少しも変わっていない。
 奈々は風間小太郎の妹で、伊豆千代丸と同い年の九歳である。小太郎は宗瑞によって見出された十八歳の若者で、今は下野(しもつけ)の足利学校で学んでいる。伊豆千代丸が独り立ちしたとき、軍配者として伊豆千代丸を支えるためである。
「うまい菓子だぞ、食べるがよい、と金時が言っている」
「ありがとうございます」
「双六でわしに勝った褒美じゃ。どうだ、もう一度、やるか? 今度は負けぬぞ」
「でも、そろそろ剣術のお稽古なのではありませんか?」
「ああ......」
 伊豆千代丸の表情が暗くなる。
「剣術は好かぬ」
「そんなことを言うと、御屋形さまに叱られますよ」
「学問も剣術も好かぬ。わしは奈々と遊ぶ方がいい。こっそり城から出て、森に行ってみるか?」
「今日はそれでもいいでしょうけれど、明日から見張りが厳しくなって、外に出してもらえなくなってしまいます。それに、きっと罰として学問や剣術の時間が長くなり、こうして遊ぶことも許されなくなりますよ」
「そうかな」
「はい」
「父上は怖い。どうして、いつも怖い顔ばかりしているのかのう」
 伊豆千代丸が小さな溜息をつく。
「国を治めていくのは大変だからですよ」
「おじいさまは怖くなかった。いつも優しかったぞ。どうして、父上とおじいさまは違うのだ?」
「そんなこと、奈々にはわかりません」
「外に出るのはやめておこう。剣術の稽古に呼ばれるまで、貝合わせでもするか」
「はい」
 奈々がにっこりと微笑む。
 そんな二人の様子を、氏綱と十兵衛が物陰から眺めている。
「困った奴よ」
 氏綱が溜息をつく。伊豆千代丸の溜息に比べて、よほど深刻で重苦しい溜息である。
「明日から、福島の倅と共に学ばせてみよう」
「勝千代を若君とですか?」
「伊豆千代丸と同い年だし、もう四書五経を終えて今は『孫子』を読んでいるという。ちょうどいいではないか。弟は年齢が離れているから、まだ一緒に学問させるのは無理であろう。剣術の稽古だけ一緒にさせよう」
「うまくいきますかなあ」
 十兵衛が小首を傾げる。
「また駄々をこねるというのか?」
「二度あることは三度ある、と言いますし」
 学問や剣術の稽古を一人でやるのはつまらないだろうから、同い年の少年を伊豆千代丸と共に学ばせようとしたことがある。家臣の子弟の中から氏綱と十兵衛が相談して選んだ。幼い頃から共に学び、共に稽古をすることで絆が深まれば、伊豆千代丸が大きくなったとき、伊豆千代丸を支える存在になってくれるであろうという期待もあった。
 氏綱は、常日頃から、伊豆千代丸がすぐに弱音をはいたり、すぐに涙を見せるという女々しさが気に入らなかった。いまだに金時を懐に入れ、奈々と遊んでばかりいるのも苦々しく思っている。
 だから、男友達を作ることで奈々と切り離そうと企んだのだ。
 しかし、この企ては、あっさり失敗した。
 伊豆千代丸が少年たちを嫌い、すっかりやる気をなくしてしまったのだ。それまでも学問や剣術稽古には熱心ではなかったが、その状態が更に悪化したのである。試しに少年たちを遠ざけると、渋々といった調子で、それ以前のように取り組むようになった。
 そんなことが二度あった。
 もし勝千代と机を並べて学問させるとすれば、三度目の挑戦ということになる。
「今のままでよいと思うか?」
 氏綱が十兵衛に鋭い視線を向ける。
「そうは思いませぬが......」
 十兵衛が言葉を濁す。九歳といえば、もはや幼児ではない。農家の子であれば、もう親と一緒に畑仕事をしている年齢なのである。そんな年齢になって、学問や剣術稽古を嫌い、同い年の少女と遊ぶことばかりを好むようでは先が思いやられる......そういう氏綱の気持ちもわからないではない。
「では、そのようにせよ」
「は」
 十兵衛が頭を垂れる。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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