四神の旗第四回


        * * *

「安宿媛様、房前様、武智麻呂様がお見えでございます」
 安宿媛の部屋で昔話に興じていると、廊下から侍女の声が響いた。
「兄上が。お通しして」
 安宿媛が答えた。
「それが......」
 廊下の向こうで侍女が口ごもった。
「どうしたというのだ」
 房前は口を開いた。
「たいそうご立腹のご様子でして」
「武智麻呂兄上がなにかに腹を立てていると申すの。まあ、珍しい」
 安宿媛の顔に笑みが浮かんだ。房前は唇を噛んだ。武智麻呂が訪ねてきたのは安宿媛ではあるまい。武智麻呂が腹を立てるとしたら、相手は自分以外になかった。
「とにかく、お通しして」
「かしこまりました」
 侍女の気配が遠のき、ほどなくして荒々しい足音が近づいてきた。
「失礼する」
 戸が開き、武智麻呂が姿を現した。表情が強ばっているのは怒りのせいだろう。武智麻呂は房前を睨んで足を止めた。
「話がある、房前」
「安宿媛様がお出でです。失礼ではありませんか、兄上」
 房前は武智麻呂の視線を受け止めた。
「これは、無礼をおゆるしください、安宿媛様」
 武智麻呂が安宿媛に頭を下げた。
「かまいませんよ。武智麻呂兄上がこんなに立腹だなんて、どうしてそんなに怒っているのか、知りたくてたまりません。房前兄上に腹を立ててらっしゃるのですか」
「房前とふたりで話したいのですが」
「ここはわたしの邸です。話がしたいのなら、わたしの前でお願いします」
 武智麻呂の顔が歪んだ。安宿媛の言うとおり、武智麻呂がこれほどまでに感情をあらわにするのは珍しい。
「ではここで話しましょう。首様が親政を望んでおられると耳にした。そなたも知っていたそうだな」
 やはりそのことか――房前は唇を舐めた。
「首様から直接伺っております」
「なぜ、それをわたしに伝えなかった。すでに長屋王は舎人親王様、新田部親王(にいたべしんのう)様をはじめ、多くの議政官を取り込んでいる。首様の意思を知っていたら、わたしも早くに動けたものを」
「兄上がそうなさるだろうとわかっていたから伝えなかったのです」
 房前は言った。
「なんだと」
「わたしは内臣。氷高様と首様をお支えするのが役目にございます。首様のお望みをかなえるには、兄上にはなにも伝えない方がよかろうと考えた次第です」
「そなた――」
 武智麻呂が震えた。顔は朱に染まり、唇は色褪せていく。
「武智麻呂兄上、落ち着いて、深く息をお吸いになって」
 安宿媛が言った。たおやかな声が耳に届いたようで、武智麻呂が深く息を吸い込んだ。
「そなたは藤原不比等の次男だぞ、房前」
「承知しております」
「父上の意を継いで、我らが氏族が栄華を極めるために力を注ぐのがそなたの務めだ」
「わたしは不比等の次男である前に、天皇の臣下です。また、内臣である以上、氷高様と首様のために心を砕くのがわたしの務めです」
「我らに背を向けると申すのか」
 房前は首を振った。
「わたしの立場をわかってくださいと申しているのです」
「そなたの立場では、首様がそうしたいと望むのなら、長屋王に与することも厭わぬということだな」
「それは違います」
 房前は声を荒らげた。苛立ちが募る。武智麻呂はどうしてわかってくれないのか。できることなら武智麻呂に力を貸したい。不比等の望んだ世を作り上げるために兄弟で力を合わせたい。
 だが、内臣である以上、それはかなわぬことなのだ。
「父が生きておられたら、今のそなたを見てなんと申すだろうな」
「房前らしくて良い。そうおっしゃるでしょう」
 房前の言葉に、武智麻呂の眦(まなじり)が吊り上がった。
「房前兄上、少し外していただけますか」
 安宿媛が口を開いた。その顔に笑みはなく、どこか大人びた表情が宿っていた。
 まるで、聞き分けのない幼子に腹を立てる母親のようだ。
「しかし、安宿媛様」
「外してくださいとお願いしているのですよ」
「かしこまりました」
 房前は頭を下げ、部屋を出た。外では雪が舞っていた。
「いつから降っておる」
 戸口にいる侍女に聞いた。
「一刻ほど前からでしょうか」
 では、武智麻呂が来たときにはとうに降っていたことになる。降りしきる雪をものともせず、武智麻呂はやって来たのだ。
 怒りに燃えさかるその胸の内を思うと、房前は溜息を漏らした。
 武智麻呂の怒りはよくわかる。だが、だからといって己を曲げることもできぬ。
 胸が苦しかった。体が火照っている。
 房前は庭に下りた。
 降りしきる雪を一身に浴びたが、火照りは一向におさまる気配を見せなかった。

        * * *

「わたしも存じておりました」
 安宿媛は墨をすりながら言った。心を落ち着けるために写経をしないかと勧められたのだが、武智麻呂は断っていた。
「どういうことでしょう」
「首様が親政をお望みになっていること、それを房前兄上に告げたとき、わたしもそばにおりました」 
「さようですか」
「わたしも武智麻呂兄上には口をつぐんでおりました。房前兄上のようにお怒りになりますか」
 武智麻呂は首を横に振った。
「怒るはずがありません」
「わたしは首様の妻ですから」
 武智麻呂は口を閉じたまま、安宿媛の次の言葉を待った。
「房前兄上も同じではありませんか」
「同じとは」
「内臣のことです。房前兄上は、阿閇様に内臣を命じられたのです。好きでもない相手に無理に嫁がされた娘と同じです」
 安宿媛の言いたいことはよくわかった。だが、安宿媛は女で、房前は男だ。よその家に嫁いだわけではない。
「武智麻呂兄上や宇合兄上と違って、房前兄上は器用ではないのです。あれもこれもと上手にやることはできません。内臣に任じられたのなら、内臣としての使命を全うする。房前兄上にはそれしかできないのですよ」
「お言葉ながら――」武智麻呂は口を開いた。「わたしと房前は、安宿媛様より長い付き合いです。あの者のことはよく存じております」
「弟ですものね」
「あの者は選べる立場にあったのです。たとえ、意に反して内臣に任じられたとしても、藤原のために力を尽くそうと思えば、そちらを選ぶこともできた。しかし――」
 武智麻呂は言葉を切った。
「房前兄上は、氷高様や首様でもなく、まして藤原の家でもなく、ご自分をお選びになった。武智麻呂兄上はそうおっしゃりたいのね」
「さすが、安宿媛様です。まだ幼き頃、父上が申しておりました。安宿媛が男だったら傑物になったであろうと」
「わたしは藤原不比等と橘三千代の娘ですから」
 安宿媛は屈託のない笑みを浮かべた。
「それにしても頑固で困ります」
「わたしが、でございますか」
「武智麻呂兄上も、房前兄上もでございます。宇合兄上も頑固です。麻呂兄上はどうなんでしょう......いずれにせよ、だれの血を引いたのでしょうね」
「なんと申してよいのやら」
 武智麻呂は苦笑した。妹にたしなめられるのはこれが初めてではない。
「よいのです。わたしたちはきょうだいなのですから、それぞれを受け入れて生きていくしかありません」
 安宿媛の手が止まった。筆を置き、紙を取り替える。侍女にやらせればいいものを、すべてを自分の手でやらなければ気が済まないところは幼い頃と変わりない。
「それで、兄上。わたしに房前兄上を諫めろとでもおっしゃるのですか」
 武智麻呂は首を振った。
「滅相もございません。あれを諫めるのは長兄であるわたしの役目にございます」
「それでは何用でここへ来られたのです」
「心苦しいのですが、お願いがございます」
「なんでしょう」
 安宿媛が首をかしげた。幼い頃と同じ仕草だった。武智麻呂は胸が締めつけられるのを感じた。安宿媛や麻呂はまだ幼く、自分や房前たちはまだ若かった。
 不比等の加護のもと、心配事はなにひとつなく、新たな母となった三千代もよくしてくれた。きょうだいみな、仲睦まじく、邸に笑い声の絶えることはなかった。
 あの頃に戻れるのならば――そこまで考えて、武智麻呂は唇を噛んだ。流れた時を戻すことはできない。これが自分に与えられた運命ならば、精一杯前に進むだけではないか。
「兄上」
 安宿媛に促され、武智麻呂は頭に浮かんだらちもない思いを振り払った。
「首様と房前、それに長屋王がどのようなことを話しているのか、わたしに教えていただけるとありがたいのですが」
 安宿媛が溜息を漏らした。
「何度も申し上げているではありませんか。わたしは首様の妻ですよ、兄上」
「それを承知でお願いしているのです。藤原の家のために、なにとぞ」
 武智麻呂は深々と頭を下げた。
「麻呂兄上が女官を手なずけているではありませんか」
「女官の耳に入らないことも、安宿媛の耳には入りましょう」
「兄上とお目にかかるのではなかったわ」
 安宿媛がまた溜息を漏らした。
「わたしも心苦しいのです」
 武智麻呂は追い打ちをかけた。
「約束はできません。けれど、心にはとめておきます。それでよろしいですか」
「ありがたきお言葉」
 武智麻呂は再び頭を下げた。顔を上げると、安宿媛はまた筆を動かしていた。
「それでは、わたしはこれで失礼いたします」
 写経に没頭しているのか、安宿媛は返事をしなかった。武智麻呂は足音を殺して部屋を出た。
「頑固か」
 呟き、苦笑する。
「あなた様も相当頑固にございますぞ」
 武智麻呂は歩き出した。

        * * *

 正室である牟漏女王(むろのおおきみ)の邸には母の三千代がいた。三千代は次男の永手(ながて)に文字を教えていた。長男の鳥養(とりかい)は別宅で暮らしている。
「お食事はいかがいたしましょう」
 家人のひとりが訊ねてきた。
「ここで食べる」
「かしこまりました」
 家人が下がっていくと、三千代が房前に顔を向けて微笑んだ。
「お久しぶりですね、房前殿」
「ご無沙汰いたしております。牟漏女王は」
「どこかで病を得たらしく、伏せっております。それで、わたしが孫たちの面倒を見るためにこちらへ」
「そうでしたか。それでは、わたしはおいとましましょう」
「せっかくいらしたのです。夕餉(ゆうげ)一緒に摂りましょう。家人たちが支度をはじめております」
「もしかすると、鳥養も」
 房前は訊ねた。三千代がうなずいた。
「牟漏から移されたのでしょうか、鳥養も伏せっております」
 房前は顔をしかめた。鳥養は幼い頃から体が弱かった。
「父上、今宵はお泊まりになられるのですか」
 永手が口を開いた。
「久しぶりにそなたらの顔を見ようと訪れたのだ。泊まっていくぞ」
 永手の顔が輝いた。
「ならば、お伽噺(とぎばなし)をお聞かせください。わたしは父上のお伽噺が大好きです」
 房前も顔をほころばせた。
「夕餉が終わった後で話してやろう」
「ありがとうございます」
 永手は立ち上がると、部屋を出て行った。
「賢い子でございます」
 三千代は永手の背中を見つめながら言った。
「鳥養はいかがでしょうか」
「あの子は伏せってばかり。胸が痛みます」
「他の子供たちはみな、たいそう元気がいいのに」
「なに、長じれば体も健やかになっていきましょう。心配しすぎぬことです」
 房前はうなずき、三千代の向かいに腰を下ろした。
「宮中が恋しくはありませんか」
 三千代は長い間、宮に仕えてきた。不比等の妻となった後も、それは変わらない。代々の天皇に寵愛され、宮では絶大な力をふるっていたのだ。
「未練はなにひとつありません。わたしもいい年です。残された時間は、阿閇様と不比等殿の菩提(ぼだい)を弔いながら過ごしてまいります」
 房前はうなずき、口を結んだ。
「なにか、わたしに訊きたいことでもあるのですか」
 三千代が言った。
「阿閇様がわたしを内臣に任じたのは、三千代殿が口をきいたからでしょうか」
 三千代が首を振った。
「さようなことはありません」
「しかし、阿閇様おひとりでは――」
「阿閇様は首様の行く末を案じておられたのです。長屋王様と房前殿に首様を託せば、安らかに逝けると思われたのでしょう」
 房前は溜息を漏らした。
「不満ですか」
「そうではありません。しかし、武智麻呂兄上はわたしが内臣に任じられたことを好ましく思ってはおりません」
「そうでしょうね」
「それに、阿閇様はわたしと長屋王様に首様を託されたのです。けれど、長屋王様は政にしか目を向けられません。すでに、舎人様や新田部様を味方にし、朝堂は長屋王様の手の中にあります。武智麻呂兄上には為す術もありません」
「内臣ではなく、参議のままであれば武智麻呂殿に力を貸し、長屋王様の独断を阻止できるとお考えですか」
 三千代の顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。不比等が存命中には滅多に見せなかった笑顔だ。
「わたしひとりの力などたかがしれております。しかし、もどかしいのです」
 房前は膝の上で拳を握った。
「内臣になったからには、内臣としての任を全うしなければならない。けれど、兄の苦労をただ見ているのもしのびない。房前殿らしい」
「三千代殿がわたしならば、いかがいたしますか」
「なにもいたしません」
 三千代はすぐに答えた。
「なにもせぬと」
「はい。確かに、今、政の中心におられるのは長屋王様でございましょう。あのお方は血筋も高貴ですし、学問にも通じておられます。けれど、あのお方は天皇ではないし、あのお方の子が天皇になることもありません」
 三千代の顔から笑みが消えた。
「されど、藤原の家には安宿媛がおりましょう。安宿媛が男の子を産めば、その子が首様の次の天皇になられるのです。藤原の家は安泰です。ですから、泰然と構えていればよろしいのです」
「しかし、安宿媛が男子を産まなければどうなります。あるいは、首様が正室を娶るかもしれない。安宿媛の子が天皇になるとは限りません」
「だから、武智麻呂殿も焦っておられるのでしょう。まずは、首様が即位なされた後に、安宿媛を立后することです」
 房前は顔をしかめた。
「安宿媛は三千代殿と父上の娘ではありませんか。皇室の血を引かぬ者は皇后にはなれません」
「不比等殿が今の言葉を耳にしたら嘆息されるでしょうね」
 房前は言葉に詰まった。三千代の言うとおり、不比等は古からのしきたりを次々に打ち破っていったのだ。
「皇室の血を引かぬ初めての皇后に安宿媛がなればよいのです。それがかなえば、皇后になるのは藤原の娘という新しいしきたりができましょう。武智麻呂殿もそうお考えのはずです」
「兄上が――しかし、長屋王様たちは反対されるはずです。武智麻呂兄上ひとりではあらがえない」
「そこをなんとかするのが不比等殿の息子たる武智麻呂殿の務めでしょう」
 三千代の顔に、また笑みが戻った。房前は腕を組んだ。
 三千代は簡単に言うが、ことは容易ではない。安宿媛が皇后になれば、その後は藤原の娘が皇后になるという新たなしきたりができる。長屋王をはじめとする者たちも、そのことは重々承知しているだろう。だからこそ、手に手を携えて反対するはずだ。
「武智麻呂殿を信じ、房前殿は己の務めを果たしていればよいのです」
 三千代は手を叩いて家人を呼んだ。
「房前殿に酒肴を。なにをぐずぐずしているのです」
 房前は三千代の顔を盗み見た。昔から、なにを考えているのかが読めない女人だった。それは今も変わらない。
 藤原不比等が認めた女なのだ。ゆめゆめ、油断してはならぬ――房前は己を戒めた。

        * * *

 長屋王の佐保の邸から箏を奏でる音が流れてくる。宇合には音色を聞いただけで弦をつま弾いているのが麻呂だということがわかった。
「また酒と箏にうつつを抜かしているのか」
 宇合は独りごち、邸に足を踏み入れた。漢詩を詠む宴に招かれたのだ。式部卿(しきぶきょう)に任じられたばかりとあっては、長屋王のまわりに集う者たちの顔ぶれを確かめておくのも悪くはないと足を運んできた。
 長屋王とその取り巻きたちはすでに酒が進んでいるようで、顔を赤らめながら漢詩を詠み、世間話に興じていた。
 麻呂はひとり離れたところで箏を奏でている。
 宇合は長屋王に会釈し、麻呂の前に腰を下ろした。麻呂が顔を上げ、箏の音色が途絶えた。
「なにをしているのだ」
「見てわかりませんか。箏を奏でているのです」
「それはわかっている。聞くところによると、そなた、ここに入り浸っているそうではないか」
「他にすることもありませんので。少なくとも、ここにいれば食べたいだけ食べられるし、飲みたいだけ飲むこともできる」
 宇合は微笑んだ。世を拗ねたふりをしているが、麻呂とて不比等の息子だ。思うところがあるに違いない。
「長屋王のそばにいれば、武智麻呂兄上の役に立てると思っているのか」
 宇合は声を潜めた。
「武智麻呂兄上はわたしの言葉には耳を貸してくれませんよ」
「ならば、そなたの話にはわたしが耳を貸そう。そなたから聞いた話を、わたしが武智麻呂兄上に伝えればよいだけのことだ。そなたと違って、わたしの言葉には耳を傾けてくれるからな」
「兄上」
 麻呂の眦が吊り上がった。どうやら、麻呂の痛いところを突いてしまったらしい。
「戯れ言だ。そう腹を立てるな」
「宇合殿、よくぞおいでになった」
 麻呂をなだめていると、背中に長屋王の声が浴びせられた。
「お招きにあずかり、光栄です」
 宇合は長屋王に向き直り、会釈した。
「麻呂殿の箏は見事なものです」
「酒と箏に関しては兄弟の中でもぬきんでております」
 舌打ちが聞こえた。麻呂がまた弦をつま弾いた。顔には出ないが、相当飲んでいるらしい。
「折り入って、宇合殿と話したいことがあるのですが、付き合っていただけますかな」
「あの御仁らやよろしいので」
 宇合は漢詩を詠んでいる者たちに目を向けた。
「今日は耳を傾けるほどの詩詠みがおりません」
 長屋王は涼しげに微笑んだ。
「こちらへどうぞ」
 廊下を歩き、案内されたのは書物が置かれた部屋だった。
「これは――」
 宇合は書物の量に息を飲んだ。
「遣唐使に買い求めさせたものや、新羅(しらぎ)からの使者が献上してくれた書物です」
「羨ましいことです」
 宇合も遣唐使として唐に渡った折に、大量の書物を買い求めた。だが、長屋王の蔵書には到底及ばない。
「少し見てまわってもよろしいでしょうか」
「ご随意に」
 長屋王の言葉に甘え、宇合は蔵書を一冊ずつ手に取り、眺めてまわった。宇合が唐で買い求めた書物はほんの一握りで、多くの書物は初めて見るものだった。
「経典などはあまりないのですね」
 書物を一通り見終えると、宇合は口を開いた。
「経典などは、寺へ行けばいくらでもあります」
「なるほど」
「わたしにとって興味深い書物は政のためになるものです。経典などはなんの役にも立たない。唐の皇帝が仏道の教えを元に政をおこなっていますか。そんなはずはない。道理に基づいて民を治めているはずです。わたしはその道理を極めたい」
 宇合は近くにあった書物に目をとめた。『周易』とあった。
「唐に赴いたことのある宇合殿なら、わかってくれるのではないかと思いまして」
「彼の国の学者たちは孔子という者の教えを重んじております」
「『論語』にはわたしも目を通しております。経典などよりよほどためになる」
「長屋王様は仏道がお嫌いですか」
 長屋王が首を振った。
「あれは人が生きるためには良い教えです。しかし、政を担う者としては仏道に寄りすぎてはいけない」
「なるほど」
「宇合殿の口癖ですかな、なるほどというのは」
 宇合は苦笑した。昔は、不比等はもちろん、武智麻呂や房前と議論を交わしてもかなわなかった。そのせいで、当たり障りのない言葉を口にするのが癖になってしまったのだ。
「申し訳ございません」
「いいのです。それより、どうです。ここにある書物を読みたいとは思いませんか」
「よろしいのですか」
「だれにでも読ませるというわけではありませんぞ。宇合殿だからこそです」
「なぜわたしに」
「唐帰りだからです。武智麻呂殿も房前殿も優れた資質をお持ちだ。しかし、あなたと違ってこの国のことしか知りません」
 なるほど――また同じ言葉を口にしそうになって、宇合は口を閉じた。
「書物の中には難解なものもあります。恥ずかしながら、わたしには理解しがたいものもある。しかし、宇合殿と共に学んでいけば、いずれ、わかるときが来るのではないかと思いましてね」
「長屋王様にわからぬものが、わたしにわかるはずがありません」
「謙遜はときに礼を失しますよ、宇合殿。あなたは不比等殿の息子ではありませんか」
 宇合はうなずき、『周易』をもとの場所に戻した。
「読ませていただけるのなら、是非に」
 長屋王がうなずいた。宇合は涼しげな顔の裏にあるものを読もうとした。
 無駄な努力だった。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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