四神の旗第十五回

「兄上たちが仲睦(なかむつ)まじくしているのを見ると、わたしの心も安まります。わたしが穏やかであれば、皇太子も幸せなのです。これからも、兄弟が手に手を取ってくださいませ」
 房前(ふささき)は安宿媛(あすかべひめ)の言葉にうなずいた。
「当然です」
 麻呂(まろ)が言った。
「わたしは兄上たちを心より信頼しておりますから」
 房前の目には、麻呂の横顔がどこか寂しげに見えた。

        * * *

 長屋王(ながやのおう)は自分の曹司(ぞうし)で書類に目を通していた。宇合(うまかい)が中に入っても、一瞥(いちべつ)をくれただけでまた書類に目を落とす。
「なにか、ご用ですか」
「はい。少々時間をいただけますか」
 長屋王は太い息を漏らすと顔を上げた。
「不比等(ふひと)殿が作り上げた律令は素晴らしいものですが、下からの報告に目を通す時間が長くなるのがいかんともしがたい。ここのところ、ずっとこうしているのです。目が疲れて仕方がありません」
「次は、目によく効くという唐の薬を持ってまいりましょう。わたしも書物の読みすぎでよく目が疲れるのです」
「それは唐から持ち帰った薬ですか」
 房前はうなずいた。
「ならば、よく効くのでしょうね。是非、お願いします。それで、用というのは」
「先日、武智麻呂(むちまろ)と会ったときに耳にしたのですが、首(おびと)様は皇太子様のために新しい親衛軍を作ろうとお考えになっているとか。なにかお聞き及びですか」
 長屋王は首を振った。
「内臣(うちつおみ)殿ではなく、中納言(ちゅうなごん)殿がそう言ったのですか」
「ええ」
 長屋王が腕を組んだ。
「首様は内臣殿を疎(うと)んじておられるのでしょうか」
「房前もこれまで同様、頻繁に首様に会っております。疎んじられているということはないと思いますが」
「しかし、新たに親衛軍を組織するという重大な話を、首様は内臣殿ではなく、中納言殿と話し合われている」
「房前とも話し合っているのかもしれません。たまたま、わたしが知ったのは武智麻呂の口からというだけのことでしょう」
「内臣殿とはよく顔を合わせていますが、そんな話が出てきたことはありません。首様から聞いたこともない」
「もしかすると、左大臣殿には内密に事を進めようとしているのかもしれませんね」
 宇合はさらりと言った。長屋王の目が冷ややかな光を孕(はら)んだ。
「わたしが親衛軍の創設に反対するとでも思っているのでしょう」
「賛成なさるのですか」
「反対します。すでに綬刀舎人寮(じゅとうとねりりょう)があるというのに、新たな親衛軍など必要ない。だれが、首様や皇太子様に刃を向けるというのです」
「長屋王様です」
 宇合が言うと、長屋王の肩が震えた。
「わたしが謀反(むほん)を起こすとでもいうのですか」
「首様はそうお考えになっているのかもしれません。皇太子様への拝謁(はいえつ)を拒否されたのですからね」
「あれは、信念に従ったまでのこと。首様や皇太子様に対して謀反などとんでもない」
「首様の疑念に、武智麻呂がつけ込んでいるのでしょう」
「それは考えられますな。ならば、やはり新しい親衛軍の創設には断固反対せねば」
「賛成してください」
 長屋王が瞬きを繰り返した。
「武智麻呂の口ぶりからすると、新しい親衛軍の大将には綬刀舎人尞の長である房前がつくことになるようです。しかし、房前には戦の経験がありません。実質的に軍を率いるのは中将ということになりましょう」
「あなたが中将になるとういうのですか」
 宇合は苦笑した。
「わたしが中将になるとなにかと差し障りがあります。しかし、わたしには陸奥(みちのく)で生死を共にした部下がおります。わたしが進言すれば、武智麻呂はその者たちの中から中将を選ぶことになるでしょう。となれば、親衛軍の実際の指揮権は我々の手に入ったも同じ事になります」
 長屋王が膝(ひざ)を打った。
「それは名案です、式部卿(しきぶきょう)」
「太政官(だいじょうかん)で親衛軍のことが議題に上がったら、渋々という体(てい)を装って賛成してください」
「わかりました。そうすることにしましょう」
「それでは、わたしはこれで失礼いたします」
「宇合殿」
 長屋王が腰を上げようとした宇合を制した。
「どうしました」
「あなたがいてくれて、実に心強い。あなたの決断に心から感謝しています」
「わたしはわたしが望むものを手に入れたいだけです」
 宇合は微笑み、長屋王の曹司を後にした。

        * * *

 葛城王(かつらぎおう)はいつもと変わらぬ様子で酒を片手にやって来た。
 その酒を飲み、詩を詠(よ)み、箏(そう)をつま弾いた。「相変わらず、麻呂殿の箏の腕前は見事だ」
 麻呂が曲を演じ終えると、葛城王は手を叩いた。
「酔いが回ったせいか、ひとつふたつ、弾き損じました」
「弾き損じなどどうでもよい。麻呂殿の心が楽曲に乗り移っているかどうかが肝要ですぞ。素晴らしかった」
「ありがとうございます」
 麻呂は箏を脇に押しやり、酒の入った盃(さかずき)を手に取った。実際に葛城王と相対するまで、自分にちゃんとできるかどうか不安だったが、杞憂(きゆう)だった。
 実の兄である房前相手でも平然と嘘をつきとおすことができたのだ。房前に比べれば、葛城王はたやすい。
「そういえば、三千代(みちよ)殿はお元気であられますか。最近、顔を見に行くことも減ってしまって」
「母なら、元気ですぞ。堅苦しい宮中暮らしから解き放たれて、好きなことを好きなようにやりながら暮らしております」
「しかし、恋しくなることもあるのではありませんか。なんといっても三千代殿は、不比等と共に宮を支配していた女傑ですから」
 葛城王の目が忙(せわ)しなく動いた。麻呂の胸の内を読もうとしているのだろう。
「母はただの女官です。宮を支配していたなど、とんでもない。不比等殿に付き従っていただけでございましょうよ」
「三千代殿の力がなければ、安宿媛様が皇太子をお産みになることもなかったと思います。三千代殿はそれほどの力をお持ちだった。宮を離れた今でも、その力は健在でしょう」
「どうでしょうかな」
 葛城王は乱暴に酒を飲んだ。
「葛城王様は、考えたことはないのですか」
 麻呂は訊いた。
「考えるとは、なにをですか」
 麻呂は酒を口に含んで間を置いた。葛城王がうずうずしているのが手に取るようにわかる。皇親として、長い間無為の日々を送っているのだ。その胸の内に溜まっている澱(おり)は相当なものだろう。
「三千代殿の力を、息子であるあなたが引き継ぐというようなことですよ」
 麻呂は軽口を叩くように言った。
「考えたこともありませんな」
 葛城王は笑った。だが、唇の端がいつもより強ばっているように思えた。
「そうですか。我ら兄弟は、父である不比等が手にした力を引き継ごうと知恵を絞っておりますよ。親は自分の力を子に託したい。子は親の力を手に入れたい。それが親と子というものではありませんか」
「しかし、わたしは曲がりなりにも皇親ですぞ」
「臣下に下ればいいではありませんか。皇親ならば身動きは取れなくても、臣下になればなんだってできます」
 葛城王は自分の盃に自分で酒を注いだ。手が震えているのか、盃から酒がこぼれた。葛城王はそれに気づいていない。
「先ほども言いましたが、母の力などたいしたものではありません」
「安宿媛はいずれ、皇后になりますよ。武智麻呂がなんとしてもそうするでしょう。そして、いずれ、皇太子が玉座に就く。安宿媛は三千代殿の娘、葛城王の妹ではありませんか。皇親のままなら、安宿媛と皇太子を言祝(ことほ)ぐことしかできませんが、臣下なら、妹と甥に便宜をはかってもらい、力を手にすることができます」
「なぜ、そのような話をするのですか、麻呂殿」
 葛城王は酒を飲み、濡れた唇を衣の袖で拭った。
「こうして葛城王様と酒を酌み交わす日々に飽いてきたからでしょうか」
「飽いてきた......」
「兄上たちは順調に出世していますが、わたしは見てのとおり。先ほども言ったように、父の力をこの手にしたいと思うのは子の常。わたしも、力を手にしてみたいのです。しかし、わたしは末っ子。兄たちを追い越すのは並大抵のことではありません。そこで......」
 麻呂は言葉を切った。葛城王が身を乗り出してきた。
「そこで......」
「葛城王様と力を合わせることができれば、もしや、兄たちを追い越せるかもしれないと思ったのです」
「本気で言っているのですか」
「嘘や冗談でこのような話はできません。葛城王様にその気があるのなら、わたしも酒浸りの日々に別れを告げ、力を手に入れるために本腰を入れてみたいのです。いかがですか」
「しかし......」
「なぜ自分は末っ子なのか、なぜ長男に生まれなかったのか。ずっとそればかりを考えてきました。これは自分の運命なのだから仕方がない。いつも自分にそう言い聞かせるのですが、これは理不尽だと騒ぎ立てる者がここにいるのです」
 麻呂は自分の頭を指さした。葛城王が唇を舐めた。
「ただ先に生まれたという理由だけで兄がすべてを手にし、弟はそれを見ているだけ。理不尽ではありませんか。同じ父の子なのです。最も秀でた者が、父の力を手にすべきだ。ここにいる者は、わたしにそう囁(ささや)きます」
「麻呂殿......」
「葛城王様にも囁く者はおりませんか。自ら望んでなったわけでもないのに、皇親に生まれたからという理由だけで無為の人生を送らねばならぬというのは理不尽極まりないと」
 葛城王は口を閉ざした。
「わたしの見立てが間違っているのなら、笑い飛ばしてください。この話はここまで。また、明日からは、酒と詩の日々を送りましょう」
「麻呂殿の言葉を信じてもよいのか」
「わたしのことなどどうでもよいのです。囁く者の声に耳を傾けるかどうか。決めるのは葛城王様です」
 鈍い音がした。
 葛城王の手の中で、盃が割れ、酒がぼたぼたとこぼれ落ちていた。

十三

「内臣様」
 曹司に向かおうとする房前を小さな声が呼び止めた。振り返ると、安宿媛に付き従っている女官が手招きをしていた。
「どうした」
 女官の顔は青ざめていた。房前は胸が騒ぐのを覚えた。
「安宿媛様がお呼びにございます」
「安宿媛様になにかあったのか」
「とにかく、急ぎ、安宿媛様の邸へお越しくださいませ」
 女官はそう告げると、逃げるように立ち去っていった。
「なにがあったというのだ」
 房前は首を傾げながら東宮の方角へ足を向けた。
 安宿媛と皇太子が住むようになってからは活気に満ちあふれていた東宮だが、今日は暗く沈んでいた。
「安宿媛様、内臣様がお見えにございます」
 房前に気づいた女官が家の中の安宿媛に声をかけた。
「すぐにお通しして」
 中に入ると、部屋の中央に床が設けられ、皇太子が横になっていた。
 女官が濡れた衣を皇太子の額に当てている。
「どうしたのですか」
 房前は色めきたった。
「数日前から皇太子が熱を出して、それが下がらないのです」
 安宿媛はやつれていた。
「侍医はなんと言っているのですか」
「なんの病かはわからないと......熱を下げる煎(せん)じ薬を飲ませ、あとは濡れた衣で体を冷やせと言うばかりで」
「首様はご存じなのですか」
 安宿媛は首を振った。
「首様が知れば、心配が高じて政(まつりごと)に支障を来すかと」
「すぐに知らせてください。首様なら、病の快癒のためにあらゆる手を打ってくれるはずです」
 安宿媛は女官のひとりにうなずいた。女官は唇を強く噛んで部屋から出ていった。
「なぜこのようなことに......」
 安宿媛は皇太子を見下ろした。
「心配には及びません、すぐによくなりますとも」
「もう三日も熱が引かないのです」
「幼い頃にはよくあることです」
 皇太子の熱に浮かされた顔を見ていると、胸が掻きむしられるが、房前は懸命に安宿媛をなだめた。
「心配で、夜も眠れません」
「寝なければだめです。皇太子様を支えるためにも、安宿媛様は健やかでなければ」
「わかっているのです。それでも......」
 安宿媛は目を押さえた。
「首様もおられます。我々兄弟もおります。安宿媛様はおひとりではないのです」
「兄上......」
 房前は安宿媛を抱きしめた。安宿媛は房前の胸に顔を埋(うず)め、しばし泣いた。
 外が騒がしくなった。いきなり戸が開き、天皇が部屋に駆け込んできた。その後ろに武智麻呂の姿もある。
「どうしたというのだ、安宿媛。皇太子が病だと」
「首様、申し訳ございません。わたしがいたらぬばかりに......」
 安宿媛は苦しそうに胸を押さえた。天皇は横たわる皇太子を見つめ、体を震わせた。
「中納言、侍医を呼べ。すぐに呼ぶのだ」
「かしこまりました」
 武智麻呂が姿を消した。
「いつからだ」
 天皇の問いかけに、安宿媛は首を振るばかりだった。
「三日ほど前からだそうです」
 房前は安宿媛の代わりに答えた。
「なぜすぐに知らせなかったのだ。そなたは知っていたのか」
「わたしもつい先ほど、知らされたばかりで......すぐに快癒される、首様に心配をおかけしたくないというお気持ちだったようです」
「申し訳ありません、首様。すべて、わたしのせいなのです」
「よい。そなたの気持ちはよくわかっている」
 天皇は安宿媛の隣に腰を下ろし、皇太子の手を握った。
「皇太子よ、なにも案ずることはない。そなたにはこの父と母がついているのだからな」
 皇太子に語りかけ終えると、今度は安宿媛に顔を向けた。
「侍医には診せたのか」
「はい。風病ではないと申しておりましたが、原因はわからぬと」
「そのようなことで、よく侍医といえるものだ」
 天皇は眦(まなじり)を吊り上げた。不安を押し隠すために、怒りを露わにしている。
 武智麻呂が侍医を連れて戻ってきた。
「原因がわからぬとは、どういうことだ」
 天皇に叱責され、侍医は首をすくめた。
「申し訳ありません。なぜかはわかりませんが、皇太子様は気の巡りが悪くなっているのです。そのために、陰気がこもって熱を出されているのかと。熱を冷ます煎じ薬を出しておりますので、いずれ、気の巡りもよくなって快癒なされるかと」
「治るのだな」
「は、はい」
 侍医は平伏した。
「もし治らなかったら、余はそなたをゆるさぬぞ」
「お、おゆるしくださいませ、天皇様」
 侍医の顔から血の気が引いていく。
「治るまで、皇太子のそばについているのだ。皇太子の病については、決してだれにも話してはならぬ。よいな」
「かしこまりました」
 天皇は侍医から武智麻呂に視線を移した。
「中納言、他の者たちにも口止めを」
「もう、言いつけてあります。ご心配なきよう」
 武智麻呂の顔も青ざめていた。皇太子にもしものことがあれば、武智麻呂の望みも消え失せてしまう。
「安宿媛、案ずるな。余がついておる。余は天皇ぞ」
 天皇は安宿媛の肩を抱いた。もう一方の手で、皇太子の額に乗せられた衣を押さえる。子を案ずる父の姿だった。
 武智麻呂と目が合った。武智麻呂はついてこいという素振りで部屋を出ていった。
「失礼いたします」
 房前は天皇と安宿媛に声をかけ、武智麻呂の後を追った。
「兄上――」
 武智麻呂は庭に出て、腕を組んでいた。
「都......いや、国中の寺と僧侶に命じて祈祷(きとう)させよう」
「しかし、それでは皇太子様が病に伏せっていることが公になります」
「それがなんだというのだ。皇太子様が健やかに成長されることがなによりも大事なのだぞ」
 武智麻呂が目を剥(む)いた。これほどまでに感情を露わにする兄を見るのは久しぶりだった。
「それは承知しておりますが、首様は――」
「首様は動転しておられるのだ。すぐに快癒されればいいが、そうでなければ皇太子様の病はすぐに知られることになるだろう。口止めをしたところで、いずれは悟られる」
 房前はうなずいた。
「皇太子様にはなんとしても生き延びてもらわねばならん。なんとしてもだ」
 武智麻呂が唇を噛んだ。房前は兄の横顔を見、それから、東宮に顔を向けた。
 天皇は武智麻呂と共にやって来た。つまり、知らせを受けたときにはふたりでいたということだ。
 天皇は武智麻呂と話をすることが増えている。
 自分は遠ざけられているのだ。
「皇太子様が大変だというのに、なにを考えている」
 房前は自分を罵り、目を閉じた。 

        * * * 

 武智麻呂は興福寺(こうふくじ)を訪れた。
「これはこれは、中納言様。よくぞおいでになりました」
 通された部屋で待っていると、ほどなくして道慈(どうじ)が姿を現した。
 道慈は唐へ渡って三論を学び、仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)を講じる高僧のひとりにも選ばれた。帰国してからも、道慈を慕(した)い、敬う者が足繁く興福寺に通っている。
「久々に道慈殿の顔を見たくなりまして」
 武智麻呂の言葉に道慈が微笑み、腰を下ろした。
「中納言様がここにおいでになるのは、なにか心配事がおありのときではありませんか」
「皇太子様のことは聞き及んでおりますか」
 道慈がうなずいた。
 皇太子が病を得てから二月近くが過ぎようとしていた。皇太子は一時の危機は脱したが、未だに発熱を繰り返し、乳母の乳を飲むこともまれだった。
 次第に痩せ衰えていく皇太子を見守る安宿媛の姿もまた哀れだった。
「まだ幼き皇太子様が痛ましいことです」
 道慈は溜息を漏らした。
「首様も安宿媛様もご心痛の様子で、そばにいる我々も見ているのが辛いのです」
「先頃、中衛府(ちゅうえふ)という新しい親衛軍を創設されたと聞きましたが、それも皇太子様の病と関わりがあるのでしょうか」
 武智麻呂は首を振った。
 中衛府の創設はすんなりと決まり、要職には宇合の息がかかった者たちが就くことになった。だが、それも、皇太子がいなければ意味をなさなくなる。
「首様は近々、皇太子様の快癒を願って、諸国の寺に祈祷するよう、詔(みことのり)を発せられます。道慈殿には是非、お力添えをいただきたいのです」
「わたしのような者でよければ、いくらでも力をお貸しいたしましょう」
「ありがたいお言葉。首様にも道慈殿のお心をしかとお伝えいたします」
「ところで、左大臣様が、五月頃から大般若経の写経をなさっていることはご存じですか」
 武智麻呂は首を振った。
「先日、佐保(さほ)の邸に呼ばれましてな。写経が完成した暁には検校(けんぎょう)となってほしいと頼まれました」
 道慈の顔が歪んだ。
「それで、どうなされたのです」
「断りました。あのお方はどうにも......」
 道慈は言葉を濁した。
「左大臣のなにが気に入らないのです」
「あのお方は御仏の教えを軽んじておられる。どうも、左道(さどう)に興味があられるようですな」
「左道ですか」
 武智麻呂は首を傾げた。呪術のようなものと長屋王がうまく結びつかない。
「左道はともかく、あのお方は僧侶を軽んじておられます」
「それは言えるかもしれません」
 長屋王にとって最も大切なのは仏の教えを記した仏典である。僧侶や尼僧は軽んじる。それに対して、道慈は僧尼こそ仏の功徳をこの世にもたらす存在だと主張する。 
 ふたりは水と油だった。
 それでも、長屋王が道慈に検校を頼んだのは、道慈の名声が欲しかったからだ。それに付け加えれば、道慈は不比等と親しかった。唐から戻って興福寺に住んでいるのは、不比等の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うためでもある。
 藤原に近しい道慈を検校にすることで、己の度量の広さと、写経に隠された意図がないということを宣言するためでもあるのだろう。
「道慈殿、頼みたいことがあるのですが」
 武智麻呂は背筋を伸ばした。
「なんでしょうか」
「検校の役、お引き受けください」
 道慈が目を丸くした。
「これはまた――理由を訊ねてもよろしいですか」
「長屋王が本当のところはなんの意図を持って写経を行っているか、それを知りたいのです」
「わたしに中納言様の目と耳になれとおっしゃるのですか」
「失礼な頼みとは承知しております。なにとぞ」
 武智麻呂は深く頭を下げた。
「左大臣がただ純粋に、先祖の供養と首様、及び皇親の繁栄を願っているだけだとしたらどうするのです。わたしは働き損ではありませんか」
 道慈の目が笑っていた。
「そのときはおゆるしください」
「実は、大安寺(だいあんじ)をこの都に移したいと思っているのです。お力添えをいただけるとありがたいのですが」
 大安寺は大倭(やまと)にある。道慈の生まれも大倭だった。
「わかりました。わたしがなんとかいたしましょう」
 武智麻呂はもう一度頭を下げた。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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