北条氏康第十三回

十二

 学問や剣術稽古が楽しくなると、奈々と遊ぶのも、それまで以上に楽しくなった。生活にメリハリが出てきたせいであろう。
 貝合わせや双六など、それまでは室内で遊ぶことが多かったが、三日に一度くらいは城の外にも出かけるようになった。平四郎と勝千代も同行する。この二人は、いずれ伊豆千代丸を支える側近になることを運命づけられているから、できる限り、多くの時間を伊豆千代丸と過ごすように氏綱から命じられている。そうすることで絆を深めるためである。
 氏綱は、女々しい伊豆千代丸の将来を案じ、優秀な家臣に周囲を固めさせようと考えている。家柄などは二の次で、何よりも本人にどれほど優れた資質が備わっているかを氏綱は重視した。氏綱の目が厳しすぎるのか、これまで氏綱の眼鏡に適(かな)ったのは平四郎一人である。ようやく勝千代が二人目の側近候補なのである。
 平四郎と伊豆千代丸は昔からの仲良しだから問題ないが、勝千代については、伊豆千代丸は、あまり好きではない。嫌いというわけではないが、何となく小憎らしい奴だと思っている。そんな勝千代を外遊びに連れ出すのは、氏綱の指示に従っているのである。迂闊に指示に逆らえば、外遊びを禁じられてしまうかもしれない、と怖れたからだ。伊豆千代丸にとって、父親である氏綱というのは、心を許して甘えられるような存在ではなく、常に緊張を強いられる魔神のような恐ろしい存在なのである。
 その日、伊豆千代丸は朝早くから城を出て、郊外に出かけた。奈々、平四郎、勝千代、お福、荷物運びの下男が二人、世話役の下女が二人、警護の武士が四人、総勢十三人である。子供の外遊びにしては物々しすぎるようだが、それは仕方ないことであった。今や氏綱は伊豆と相模という二ヵ国を領する大名であり、伊豆千代丸はその嫡男なのである。万が一のことがあってはならぬという配慮で、城の外に出るときは、どうしても大人数になってしまうのだ。
 最初は、奈々の好みに合わせて花摘みをした。
 伊豆千代丸は奈々と二人でいれば何をしても楽しいので何の不満もない。体が丈夫でない平四郎も同様である。花摘みくらいであれば、平四郎も付き合うことができる。
 仏頂面をしているのは勝千代だけである。
 本音を言えば、常に伊豆千代丸と一緒にいるというのは、勝千代にとってあまり楽しいことではない。
 勝千代は男っぽい遊びが好きなのである。
 だから、剣術稽古が大好きなのだ。せっかく城から出てきたのだから、広い場所で相撲を取ったり、川に飛び込んで魚を獲ったり、木によじ登って鳥の巣を探したりしたい。
 しかし、勝千代がやりたいと思うことを伊豆千代丸はまったく好まない。奈々にばかり気を遣って、奈々が好きそうなことばかりする。それが気に入らないのである。
 もちろん、それを口に出したりはしない。
「亡くなったお父上、お母上、ご先祖さまのためにも福島家を再興しなければなりませぬ。そのためには北条家に仕えなければなりませぬ。何ごとも伊豆千代丸さまに従いなさいませ。それが福島家を再興するただひとつの道でございますぞ」
 伊豆千代丸への不満を口にするたびに、大黒笑右衛門(おおぐろしょうえもん)が怖い顔で説教する。
 父の正成(まさなり)が戦死してからの母・佐枝(さえ)の苦労を目の当たりにしてきただけに、笑右衛門の言葉は勝千代の身に沁みる。九歳の子供ではあるが、
(わしが福島の主だ。わしの力で福島家を再興するのだ)
 という思いは強い。
 厳密に言えば、福島家はなくなったわけではなく、今川家に存続している。
 しかし、笑右衛門も勝千代も、それは本当の福島家ではない。自分たちこそが福島家の正当な後継者だ、と自負している。だからこそ、北条家の家臣となり、真の福島家を再興しようと願っているのだ。
 そのためには、氏綱の望むように、伊豆千代丸と多くの時間を過ごし、伊豆千代丸の信頼を勝ち取らなければならない。勝千代自身の好みなど二の次である。
 とは言え、勝千代は根が正直で嘘をつくのが苦手だから、好きでもないことをすると、それが露骨に顔に出てしまう。つまらなそうな顔で、やる気のない態度で花を摘んで奈々に手渡すだけだ。
 昼になったので木陰に幕を張り、敷物を広げて弁当を食べることにした。それらの支度は下男と下女がする。
「あ~、腹が減った」
 勝千代は、握り飯をむしゃむしゃ頬張り始める。
「よく食べるのう」
 伊豆千代丸が笑う。
「羨ましい限りです。わたしは大して食べられませぬ」
 平四郎が言う。
「無理してでも食べればよい。そうすれば力がつくぞ。平四郎は、ひょろひょろしているからなあ」
 はははっ、と勝千代が笑う。
「体が弱いのだから仕方あるまい」
 伊豆千代丸が平四郎を庇(かば)う。
「わたしは駿河にいる頃、ろくに食うことができませんでした。だから、食べられるときは無理をしてでも食べるように心懸けているのです」
「なぜ、駿河ではろくに食べられなかったの?」
 奈々が訊く。
「意地悪な親戚が嫌がらせをしたからです」
「ほう、そんなことが許されるのか?」
 伊豆千代丸が不思議そうな顔になる。
「そんな話はどこにでもあります。さして珍しいことではありませぬ」
「おじいさまならば、決して許さなかったであろうな。父上も、そうだ。わしもいずれ北条の主になったら、そのような非道な振る舞いを許さぬぞ」
「おじいさまというのは早雲庵さまのことですね。立派な御方です。母も、そう申しておりました」
「ふうん、勝千代の母御がおじいさまを誉めていたのか?」
「だから、わたしは小田原にやって来たのです」
 勝千代が真剣な表情でうなずく。
 昼飯を食べ終え、下男と下女が後片付けをし、また花摘みをしようと、伊豆千代丸たちがきれいな花が群生している方に歩き始めたとき、
「うわっ!」
 という悲鳴が聞こえた。
 伊豆千代丸が振り返ると、警護の武士の体が宙に舞っている。
「え」
 巨大な猪が興奮して走り回っている。
 刀を手にした武士たちが猪に斬りつけるが、手傷を負わせはするものの、猪を止めることはできない。むしろ、傷つけられ、血が流れたことで猪は更に興奮し、目の前にいる者に襲いかかる。
 弓を持っている者もいるが、うまく狙うことができない。猪の動きが速すぎるからだ。
 下男や下女は腰を抜かして地面に坐り込んでいる。
「さあ、こちらへ! 隠れるのです」
 お福が子供たちを森の方に連れて行こうとする。
 その気配を察知したのか、猪が方向を転じて走り出す。奈々が悲鳴を上げる。
 武士たちが何とか猪を止めようとするが、次々と猪の牙に突き刺されてしまう。
 猪が首を振りながら、伊豆千代丸と奈々に向かって突進する。伊豆千代丸と奈々が着ているのは平四郎や勝千代よりも華やかな着物である。それが猪を刺激したのかもしれない。
 奈々は悲鳴を上げ、伊豆千代丸は顔面蒼白で立ち尽くす。お福と平四郎も石のように固まっている。
「若君、お守りいたします!」
 脇差しを抜き、伊豆千代丸と奈々の前に勝千代が立ちはだかる。武士たちの戦いぶりを見て、猪に斬りつけても効果はない、と判断したのか、勝千代は両手で脇差しを持ち、猪を突こうとする。
 顔から冷や汗が流れ、全身がぶるぶる震える。
 勝千代とて怖いのは同じなのである。
 しかし、ここで伊豆千代丸を死なせるわけにはいかなかった。伊豆千代丸が死に、自分が生き残るようなことだけはあってはならないと自分に言い聞かせた。伊豆千代丸が死ぬ運命なのであれば、まずは自分が死ななければならない、と思い定めた。
 猪がぐんぐん迫ってくる。
 咄嗟に目を瞑(つむ)った。
 次の瞬間、勝千代の体が宙に舞う。猪の牙に突き上げられたのだ。
 背後にいた伊豆千代丸と奈々は、とりあえず助かった。勝千代の脇差しが猪の肩に刺さったので、猪の進路が逸(そ)れたのだ。真っ直ぐに進んでいたら、三人ともやられていたであろう。
 勝千代は地面に投げ出され、そのまま動かなくなった。
 猪は、くるりと向きを変えると、またもや伊豆千代丸に向かってきた。
「......」
 伊豆千代丸と奈々は、もはや悲鳴を上げることもできない。
 お福が二人の前に立ち、両手を大きく広げる。
 武器を持っていないので、こうするしかないのだ。
 と、そのとき、一本の矢が飛んできて猪の脇腹に刺さる。それで猪の動きが遅くなる。
 続いて、もう一本の矢が猪の腰に命中する。
 猪の足が止まる。
 そこに笠を被り、墨染めの衣を身にまとった僧侶が刀を手にして近付き、猪の首に刀を刺す。それが致命傷となって、猪が横倒しになる。
 その僧侶は伊豆千代丸たちに向き直り、
「ご無事ですか?」
 と笠を持ち上げながら声をかける。
「あ」
 奈々が声を上げる。
「小太郎兄ちゃん」
 奈々の兄・小太郎が足利学校から戻ったのである。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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