2020 06/30
経済社会の学び方

第11回 あいまいな心理は理論化できるか②――思想と現実の関係

■事実と「事実と信じられたこと」の違い

 言うまでもなく、事実と、それが「事実」だと信じられたことは異なる。石橋湛山が先の論考で「思惑」と呼んだのは、(事実かどうかを精査することなく)事実だと信じることを指している。信念というと、なにか宗教的な精神の構えを意味するように響くが、必ずしもそのような善悪や軽重を暗示するような概念ではない。ある時は単なる「思い込み」に過ぎないかもしれないし、ある時は堅固な(ときに独善的、ドグマティックな)思想をさすこともある。

 こうした事実と、事実と信じられたことを区別することは、理の当然であり、正気な者ならだれでも容易になしうると無反省に考えがちだ。しかしこの二つを明確に区別することは、ときに意外に困難なだけでなく、その違いの意味、特に「あることを事実だと考える」ことの意味をどう理解するのかは、歴史学だけでなく、あらゆる学問の最大の難問のひとつだと言っても過言ではない。あることを事実だと信じること自体が、ひとつの見方や考え、思想をあらわすと考えられる場合があるのだ。

「神話」は想像上の虚構であり、事実としての史的価値が無いとみなさることが多い。だが本当にそうだろうか。この点について、日本の歴史学で重要な議論がたたかわされたことがあった。「事実」と「思想」の関係を巡って弁論がたたかわされた「津田左右吉裁判」である。物語と物語に表現された思想という問題を念頭に置きながら、津田左右吉(1873-1961)の主張を振り返ることは、事実とは一体何かを考える上で参考になる。

 1939年、『日本書紀』に書かれた聖徳太子を巡って、津田はその歴史上の実在について史料批判的な記述を公にしたため、不敬罪に問われ、翌1940年、神代史および上代史に関する彼の著作4冊が発禁処分になった。『古事記』・『日本書紀』の神代史は、国家組織が整頓してから後、思想の上で企てられた国家成立の由来に関するひとつの主張であって、それによって現実の国家を正当視しようとしたものであり、史実の記録ではなく思想の表現としてみるべきだ、とした点が問題とされたのである。ここに、「史実の記録」というのが、われわれが「事実」とよぶものであり、「思想の表現」というのが事実だと信じる説話ないし物語である。

 津田の学問的な姿勢、そしてそこから生み出された著作物は文部省からも不当な圧力を受け、早稲田大学教授を辞任させられる。津田と版元の岩波茂雄は、皇室の尊厳を冒瀆したとして出版法違反で起訴されるのだ。

■津田左右吉の歴史哲学

 東京地方裁判所法廷での津田の弁論は、この「説話と事実」についてのきわめて重要な論点を含んでいる。津田は中西裁判長に神代史の性質とその精神について尋ねられて、次のように答えている(掛川トミ子編『思想統制 現代史資料42』(1976)424-425頁)。少し長いが引用したい。

「私ガ説話ト申シマスルノハ、ソレハ歴史的事件ノ記録デハアリマセヌケレドモ、徒ラニ形作ラレタモノデハナイノデアリマシテ、其ノ説話ニ表現セラレテ居ル所ノ思想ガアルノデアリマス。

何等カノ思想ヲ表現セラレテ居ル所ニ説話ノ意味ガアルノデアリマス。此ノ思想ガ実ニ歴史的事実ナノデアリマス。昔ノ人ガ斯ウ云フ思想ヲ持ツテ居ツタト云フコト、其ノ思想ガ一ツノ事実デアリマス。

思想ト申シマスルト、是レハ人ノ考ヘデアルカラ、事実デナイト云フ風ニ思フ方ガアルカモ知レマセヌガ、サウ云フコトデハナイノデアリマス。

思想ト云フモノハ形ニ表ハレタ事実ヨリモ、モツト確実ナ事実デアリマス。

或ル時代ニ或ル人ガ斯ウ云フ思想ヲ持ツテ居ツタトシマスレバ、其ノ持ツテ居ツタ思想ガ歴史上ノ事実デアルノデアリマス。

サウ云フ思想ノ表現セラレタモノガ説話デアルノデアリマスカラ、歴史的事件デハナイノデアリマスケレドモ、ソコニハ歴史的事実トシテノ思想ガアルノデアリマス。

所ガ其ノ思想ト云フモノガ、実ハ思想ヲ作リ出ス根柢トシテノ事実デアル訳デアリマス。」

 思想が表現されているところに説話の意味があり、その思想こそが歴史的事実なのだとする津田の主張は、つまるところ、形に表れた(見える)事実よりも、思想の方がもっと確実な事実である、とも表現できるのではないか。それは津田の「思想ト云フモノハ形ニ表ハレタ事実ヨリモ、モツト確実ナ事実デアリマス」という言葉に簡潔に要約されている。

「事実」と「その時代の人々が信じた事実」は、ほとんど重なり合う部分があるとしても、基本的には別物と考えなければならない。この区別の重要性は強調しても、強調し過ぎることはない。これは社会研究における「認識の二重構造」とも関係している。端的に表現すれば、「人々がその社会をどのように認識しているのかについて、社会研究をするものは認識している」という二重性である。

 こうした関係があるからこそ、神話や文学には秘められた真実を語る力があるのだ。小説は、その時代の人々が信じていた事実を(虚構として)物語ることによって、その時代の事実そのものに迫ることができる。小説は事実を記述(describe)したものではない。虚構を物語った(narrate)ものである。「ウソ」を物語る(narrate)文学が、強烈な迫力を持って「真実」に迫ることもあれば、「事実」を記述(describe)しようとする構えの経済学や政治学に現実感が稀薄なことが時として起こるのはそのためだ。

 文学自体はフィクションであっても、そこで物語られた説話こそが歴史的事実なのだという指摘は、社会研究においても極めて重要な点だ。それは、フィクションとしての文学もその時代を理解するための重要な資料であることを意味する。例えば、『旧約聖書』の「創世記」冒頭の天地創造のくだり(第1章と第2章)を「現代の宇宙物理学の観点から荒唐無稽だ」と言うだけに終わってしまうとすれば、それは事実と思想の違いを理解していないことになる(宇宙物理学者の中には「創世記」天地創造の話は現代の最先端の宇宙発生論と矛盾しないという立場の人もいると聞くが、この点について筆者は判断不能だ)。

 語られたことが「事実」であるか否かということと、語られたことが人間にとってどれほどの重みを持つ「真実」であるのかということは次元を異にする。前者は「実証」の問題であり、手続きと技術の問題に帰結する。これは厳密さ、正確さ、という点で、確かに困難な仕事ではある。しかし同じく、あるいはさらに難しいのは、「語られたこと」がいかなる重さをもった思想を表現しているのかを理解することなのだ。

 神話が、語り継がれ、唯一文字として残された時代には、歴史学や物理学、神学、文学という学術領域はなかった。神話が徐々に解体され、知的活動の中でさまざまな分野へと分化・専門化していった。したがって、現代の視点から、「神話は素朴な誤謬に満ちている」「科学的に正しくない」と裁定するのは、事実と思想を区別することを忘れた単純な発想というより他はない。

■偽薬(プラセボ)と経済政策の類似点・相違点

 しかし現代でも、この事実と思想(信念、理論)の区別は意識されないことがある。例えば、市場メカニズムへ研究関心が集中した時代というのは、市場が期待される効果を発揮しているときであり、自由市場への信頼が強かった社会風土で力を得た。市場メカニズムの効率性を証明する経済学の諸々の定理が、事実としてごく自然に受け入れられた時代であった。そして現実の経済も、市場が生み出す活力によって、成長と発展を遂げたのである。市場が経済を成長させるということは否定できないとしても、市場への信念がさらに力強い成長の動因となったという側面も無視できないであろう。

 他方、1930年代の恐慌期には、市場自体の回復機能がうまく作動しない事態が生まれる。市場自体に、経済を不況から脱出させるような力強い自己調整のメカニズムが備わっていない点が指摘された。その点でもっとも影響力の大きかったのが、財政の出動によって有効需要を刺激するというJ. M. ケインズの政策思想であろう。

 ケインズの財政政策(ピグー教授の論を批判した『一般理論』第19章で展開した論理)を長期にわたって続けることは、経済を麻痺させてしまう(刺激するが、やがて麻痺させる)ことをケインズ自身知悉していた。市場メカニズムだけでは対応できない状況においては、財政政策によって経済を短期的に刺激するという手法が、一種の薬剤の世界での「プラシーボ効果」にも似たようなインパクトを持ったという側面もあろう。本質的で長期的な解決策ではないにしても、一時的な刺激が、経済を正常な軌道に乗せるための手法として考えられたのだ。

 薬理的には効果が期待できない成分で作られた薬は「偽薬(プラシーボ)」と呼ばれる。偽薬を処方された患者が、効く薬だと信じることによって、病状に改善がみられるという指摘があるという。前回論じたように、ここには因果性に関する問題も伏在する。偽薬による病状の改善が、単なる自覚症状に過ぎないのか、それとも客観的な効力と考えるのかは専門家の間でも見解が分かれると聞く。特に、薬を処方されたことによる、精神的な安心感が(免疫力の上昇となって)症状の改善につながるというルートもあるかもしれない。さらに効能は病気の種類や症状の重さによって異なるであろう。不眠症に悩む人に小麦粉を丸めた錠剤を与えると、良い睡眠が得られることは珍しくないと言われる。もちろん、こうした偽薬の投与には、効いたのかどうか、判定の科学的な根拠の問題だけでなく、患者に知らせずに行うことの是非という倫理的な問題も含まれる。

 このような「偽薬」の効能の問題は、経済政策の有効性の問題と類似する点が認められる。金融を極端に緩和しても、利子率をゼロレベルに低下させても、将来収益に対する悲観的な見方が市場を支配している限り、企業の投資活動は活発にならないだろう。異次元緩和は、通常の経済政策では投資や消費を喚起できないという悲観的な考えを人々が持っているため、対策がエスカレートしていった結果とも考えられる。「この政策は効かない」と人々が思い込んでいるために起こる、「プラセボ効果」と反対の「ノセボ効果」によるものだ、という論もあながち荒唐無稽とは言えまい。

 一般に、薬剤を投与されているという心理効果によるバイアスを避けるために、患者にも医師にも薬や治療法の性質を不明(blind)にして、その薬を評価するということも行われている。対照実験(control experiment)では、効果のない偽薬を投与するグループと、あたらしく開発された薬剤を投与するグループとに分けて実験し、偽薬効果を排除するという方法が採られる。一般には、前回示した「ランダム化比較試験(Randomized Controlled Trial ― RCT)」の方法が採られる。この手法に近い経済学の実験法についてはすでに言及した。RCTについては入門書があるので是非手に取ってほしい。

 しかし政治学はもちろん、経済学においても、こうした実験環境を整えることは多くの場合困難だ。ただ金融政策や財政政策を打ち出す場合、国民がそれを事前に知っている場合と、突然政策が打たれた場合とではその効果が大きく異なることは十分想像がつく。国民が政府や日銀の行動を予見したり、織り込んで行動できれば、その政策効果が薄れることは避けられない。

■自己実現的予言とは何か

「思惑」、「期待」、「信念」が、現実そのものを大きく変えていくという点についてはすでに触れた。その際、「思惑」は現在の事実そのものではなく、事実をどのように把握しているか、その把握に基づいて将来をどのように予想したのかが、「思惑」の重要な形成動因であると指摘した。

 しかし、この予想の機能は、次に現れる事実を言い当てるか否かという点に留まるものではない。予想自体が出来する現実を変えるだけでなく、予想そのものを実現してしまうという現象が起こりうることにも注目すべきだ。言い換えれば、信じる、予測する、予言するということが、予言した事象そのものを実現してしまうという現象である。自己実現的期待(self-fulfilling expectations)、あるいは自己実現的予言(self-fulfilling prophecy)と社会学で呼ばれる現象である。人がある状況を現実的だと考えれば、それが結果(帰結)において現実のものとなる現象を指す。端的に言えば、「結果は、予想次第」ということになる。

 自己実現的期待については拙著『経済学に何ができるか』第3章「インフレーションの不安」で例を挙げて概略を説明している。ここでは、別の例として、社会学者のロバート・マートン(Robert Merton, 1910-2003)が挙げた銀行の取り付け騒ぎ(bank run)のケースを紹介したい。今世紀の最も優れた社会学者のひとり、マートンは彼の主著であり社会学の古典的名著『社会理論と社会構造』(1949、邦訳は1961)において、この「予言の自己成就」という用語をはじめて用いたとされる。

 マートンは、まずアメリカ社会学界の長老、W. I. トーマス(1863-1947)の基本定理(Thomas Theorem)「もしひとが状況を真実(リアル)であると決めれば、その状況は結果においても真実(リアル)である」を取り挙げる(ちなみに、彼のもうひとつの重要な定理「もし人々が誰かを偉大だとみれば、その人は偉大だ」も政治学的には重要な命題であろう)。ただ、マートンはこの「トーマスの定理」自体は格別新しいものではないとも指摘する。ボシュエ、マンデヴィル、マルクス、フロイト、サムナーなどの著作や思想にも見出されるからだ。つまり、人間は、単に状況の客観的な諸特徴に対して反応するだけでなく、自分にとってこの状況がもつ意味に対しても、反応するものであり、しかも後者に対する反応の方が、時には重要になるという。予言したこと、信じたことが現実に実現するという「適切な事例」としてマートンは銀行の取り付け騒ぎ(bank run)を挙げる。

■銀行の取り付け騒ぎのメカニズム

 銀行の業務は、顧客が預けた預金を、貸し出しと投資(loans and investment)に振り向け収益を得ることがその根幹をなしている。「貸し出し利子」と投資から得られる収益が、預金者に支払う「預け入れ利子」を上回る限り、銀行はその業務を安定的に継続していくことができる。

 しかし銀行は預け入れられた預金額のすべてを現金の形で保有しているわけではない。銀行は顧客が預け入れた預金総額の一定割合を予備金(reserve)として、現金での引き出し用に準備している。通常は、引き出すために銀行に来る顧客の数は、預金者全体の一部に過ぎないから、預金総額の一定割合のみを現金として準備している。したがってもし、預金者が「銀行が営業を停止するなど、自分の預金を払い戻しできないような事態が発生する」、すなわち取り付けが起こると信じて、一時に多数の顧客が預金の引き出しに押し寄せて来たらどうなるか。もはやその要求にすべて応じることができない。一旦、推進力(momentum)を獲得すると、どんどん顧客が現金引き出しに走り、結局デフォルトが起こり、取り付け騒ぎは現実となるのだ。

 取り付け騒ぎの恐ろしいところは、その金融機関が「危ない」という情報が、全くのウソやデマでも、取り付けの自己実現的予言のプロセスが進行することである。言い換えれば、預金者がたとえいかに知的かつ冷静で、「その噂は全く真実でない」と知っていたとしても、「他の預金者がその噂を信じている」とわかれば、銀行に駆けつけて預金を引き出すという行動に出る。つまり一旦このプロセスが動き出すと、銀行に走ることが極めて「合理的」な行動になるということだ。

 マートンは、集団行動によって起こる社会現象、個人(ミクロ・レベル)の意図と全体(マクロ・レベル)の帰結の乖離に関する理論的枠組みを示した点で、「社会科学」における根本的な貢献をしたと言える。彼は1936年の論文 “The Unanticipated Consequences of Social Action”で、人間の行動は、広い範囲で計画した通りの結果をもたらさないことを明らかにしつつ、カール・マルクスの予見についても次のように述べている。

 マルクスは、近代社会への移行は、少数者への富の集中を招き、社会の大多数は貧困と悲惨を味わうようになると予測した。この予測は社会主義運動を惹き起こし、国によってはそれ故に経済発展が停滞したこともあった。マートンはこのような「予測が予測内容の不成立を招く」という関係は「自己実現的予言(self-fulfilling prophecy)と逆の現象、「自滅的予言(self-defeating prophecy)」と呼んでいる。

 労働市場における雇用差別にも、この自己実現的期待のメカニズムが働くことはすでに指摘した通りだ。雇い主は「女性従業員はすぐ辞める(離職率が高い)から教育訓練投資をしても引き合わない」と考える。その結果、将来のキャリア形成にとって重要なOJTの機会を経営側は女性従業員に与えない。他方、女性従業員のほうは、「雇い主がOJTをはじめ、十分な教育訓練投資をしてくれないので将来のキャリアパスへの見通しが立たない」と考えて退職する。このような相互の行動についての予想のもとに、雇い主も女性従業員も、お互いに相手の「期待」(予想)通りの行動をとり、相手の予想を裏書してしまうのだ。この「悪い水準の均衡」から抜け出るためには、女性従業員の離職率自体がある水準まで低下するような状況が生まれなければならない。そして、この「ある水準」が、社会的な「風土」を変える転換点となるのだ。

(以下、次回。参考文献は、新書刊行時にまとめて表示いたします)

猪木武徳(いのき・たけのり)

1945年、滋賀県生まれ。大阪大学名誉教授。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学大学院特任教授などを歴任。主な著書に、『経済思想』(岩波書店)、『自由と秩序』(中公文庫)、『戦後世界経済史』(中公新書)、『経済学に何ができるか』(中公新書)など。