北条氏康 河越夜襲篇第三十一回

 その翌日、松山城に大量の食料と酒が運び込まれた。
 資正に味方すると約束した豪族たちが、
「どうか小田原さまによしなにお取り次ぎ願わしゅうございます」
 と辞を低くして、城将・垪和刑部少輔氏堯に申し入れたのである。食料と酒は挨拶代わりというところだ。
 もちろん、偽装である。本気で北条氏の傘下に入るつもりはない。
 しかし、垪和氏堯も、その補佐役である多目長宗・時信父子も喜んだ。大石定久や藤田泰邦がいれば、
「あの者たちを、そう簡単に信じてはなりませぬ」
 と忠告したであろうが、生憎、二人とも、それぞれの持ち城、滝山城と天神山城に帰っていた。
 松山城と鉢形城の間に領地を持つ豪族たちは、歴史的に山内上杉氏か扇谷上杉氏に従属してきた。それも当然で、両上杉氏に逆らえば、あっという間に攻め滅ぼされてしまう場所に領地がある。
 河越の戦いで扇谷上杉氏は滅亡したが、山内上杉氏は、それほど大きな打撃を受けていない。当主の憲政が腰の据わった男であれば、そもそも平井城まで逃げるようなことをせず、敗残兵を収容して反撃に転じていたことであろう。大石定久や藤田泰邦も、憲政のあまりの不甲斐なさに呆れ果てて山内上杉氏を見限ったのである。
 とは言え、山内上杉軍そのものは依然として健在であり、五千や六千の兵であれば、すぐにでも動員できるだけの力がある。軍勢を募って南下すれば、最初に通過するのが、鉢形城の南にいる豪族たちの領地である。彼らが北条氏に与すれば、真っ先に山内上杉軍の猛攻を浴びなければならないのだ。
 彼らが生き延びる道はひとつしかない。
 山内上杉氏にも北条氏にもいい顔をして、どっちつかずの態度を取ることである。そういうやり方で生き残ってきたのだ。
 それ故、いきなり、
「これからは小田原さまにお仕えしとうございます」
 などと言ってきても、
(これは怪しいぞ)
 と疑ってかかるべきであった。
 垪和氏堯は決して愚かな武将ではない。
 だからこそ、氏康から松山城を預けられたのである。
 にもかかわらず、あっさり豪族たちの申し出を受け入れたのは、河越での大勝利以来、快進撃が続いたため、
(もはや、われら北条に刃向かうことができる者などおらぬ)
 という傲(おご)りが生じていたせいであろう。
 里見氏を駆逐したら、氏康は大軍を率いて松山城にやって来る。近隣の豪族たちを糾合して鉢形城を攻める。鉢形城を落とせば、武蔵全域が北条氏の支配下に入り、その勢いを駆って平井城に攻め寄せれば、山内上杉氏を滅ぼすことも不可能ではない......垪和氏堯や多目父子は、そんな楽観的な見通しを持っている。山内上杉氏ですら風前の灯火なのだから、弱小豪族たちが北条氏に平伏すのは当然なのだ、という考えなのである。その見通しを甘いと言ってしまえば、それまでだが、ある意味、人間心理の本質的な部分が現れているとも言えよう。
 その夜は宴会である。
 ごちそうと酒が城兵に振る舞われる。豪族たちは城に残り、食料と酒を運んできた百人ほどの兵たちが接待役となる。不寝番の兵たちにも酒や食い物が差し出される。門番たちには、
「しばらく、わしらが見張りを代わろう。少しは飲みなされ」
 と酒を勧める。
 上に立つ者たちの箍(たが)が緩んでいるのだから、下々の者たちの警戒心が緩むのを責めることはできまい。
 誰もが喜んで酒を飲み、何の疑いもなく持ち場を代わってもらった。
 深夜、ほとんどの城兵が酔っ払って眠りこけている。垪和氏堯や多目父子も例外ではない。
 豪族たちの兵が門を開け、近くで待機していた資正と四百人の兵を城内に入れる。
 松山城は天然の要害である。
 比企(ひき)丘陵の東の端にあり、三方を川に囲まれている。流れの速い川なので、丘陵が鋭く抉られており、川岸から城に登るのは無理である。
 従って、城に近付くには正門から真正面に向かうしかない。これほど攻めにくく、守りやすい城もないであろう。
 とは言え、それはあくまでも城を外から攻める場合の話である。城の中に入ってしまえば、もはや守りようもない。
 要は、いかにして城に入り込むか、それが肝心なのである。
 城兵の大半が何の警戒心も持たずに眠り込んでいるところに、五百人の兵が襲いかかれば、ひとたまりもない。何が起こったのかもわからぬままに殺されるか、慌てふためいて城から逃げるかのどちらかである。
 戦いらしい戦いもなく、五百人がほとんど無傷という状態で、資正は松山城を手に入れることに成功した。八月二十八日の夜である。
 資正が悔しがったのは、垪和氏堯と多目父子を逃がしてしまったことだ。
 垪和氏堯も愚か者ではないから、自分が罠にはまったと悟るや、無駄な抵抗をせず、多目父子と共に搦め手から、さっさと落ち延びた。
 松山城を手に入れた資正は、
「こちらにお越し願いたい」
 と辞を低くして、冬之助を招こうとした。
 冬之助に松山城を預かってもらい、自分はその下で働こうとしたのである。
 その言葉に嘘はなかったであろう。
 資正は、それほど裏表のある男ではない。
 一夜にして松山城を奪い取ったのは冬之助の鬼謀のおかげだと身に沁みていたから、
「これからは養玉さまを中心として扇谷上杉氏の再興を図りたい」
 と考えたのは無理からぬことである。
 しかし、当の冬之助にその気がない。
 なるほど、戦はうまい。汲めども尽きぬほどに謀略も湧いてくる。
 が、如何(いかん)せん、人を率いて行く力はない。
 言ってしまえば、将器ではないのであろう。あくまでも軍配者なのである。
「松山城は源五郎殿が治められよ。焦らずに力を蓄えれば、いずれ河越城を奪い返す算段もできようというもの」
 そう言って、冬之助は鉢形城から動こうとしなかった。
 資正は冬之助の無欲に呆れたが、押し問答している余裕もないので、素直に冬之助の言葉に従った。
 確かに、松山城奪取は快進撃を続ける北条氏に一矢報いたかもしれないが、その一矢に大した重みはない。資正と扇谷上杉氏の遺臣たちにとっては松山城という拠点を確保できたことは大きな意味があるが、関東の政治情勢に影響を与えるほどのものではない。所詮、局地戦に過ぎないのだ。
 関東における北条氏の覇権は揺るぎないものになりつつあったのである。
 佐貫城を巡る里見氏との戦いこそ、里見氏の頑強な抵抗もあって決着が付かず、勝敗がうやむやなままに撤退を余儀なくされたが、返す刀で古河城を包囲し、氏康は晴氏を隠居に追い込んだ。家督を継いだのは長男の藤氏(ふじうじ)ではなく、北条の血を引く次男の義氏(よしうじ)である。事実上、古河公方家は北条氏に乗っ取られたと言っていい。
 軍事的には北条氏の領国は武蔵全域を手中に収める勢いであり、政治的には義氏を古河公方にすることに成功し、氏康自身、関東管領(かんれい)に就任するのは時間の問題である。
 まさに関東は北条氏の支配下に置かれようとしている。
 松山城を奪ったくらいでは、北条氏の牙城を崩すことなどできない相談であった。それどころか、北条の大軍が攻め寄せたら、いつまで城を守ることができるかわからないという状態なのである。

北条氏康 河越夜襲篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期し戦に身を投じるとき、氏康の傍らには祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第三弾。

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー