胡乱の山犬第六回

  6

 林のなかで目を開いた。泥が口に入り、腐った落ち葉に身体が埋もれていた。
 私は這った。少し這い、少し這い、小川の水を啜り、また少し這い、そして誰か(おそらくふもとの村人であろう)に救出された。
 後は放心である。なぜ自分がそこにいるのか全くわからず私は惚けていた。ぼんやり青い空に浮かぶ雲や、庭先の雀を眺めていた。ふもとの村人から粥を食べさせてもらった。私の足は変なほうにねじれて折れてしまったようで、動かすと激痛があった(その後、痛みがひいても、私はもう杖をつかねば歩けなかった)。
 私を救出した村人がきいた。
「あんたはどこの誰だい、手形か何かを持っているか」
「私はですね」そこで思考に霧がかかった。
 私はおよそ全てを忘れていた。自分が誰かも、死のうとしたことも、おりくのことも。「いけねえ、自分が誰かわかんねえや、ねえ、私は、その、誰なんです」
「知らないよ、そんな、えれえこったな、歩けるかい。話を聴きたがってるんだ、みんな」
 お寺に運びこまれ、大勢の前に引き出された。「この者、祟り山に、女と一緒に入山した男である」と誰かがみなにいった。「女と一緒にいたのを見たぞ、あれは母親か」と誰かが私にきいた。何をきかれても、何もおぼえていないのだから、答えようがない。むしろ、こちらが、私はどこの誰で、何が起こって、何故、ここにいるのか、とききたい。私が自分の名前すらいえなくなっていることは、彼らを驚嘆させた。山に棲んでいる〈魔〉が、私の胸に傷をつけ、私の同伴者を奪い、そして、私の心からその記憶すら奪ったと、彼らは私に説明してくれたが、私はどう振る舞っていいのやらわからなかった。憐れんだのだろう。彼らは、あんたの話は貴重だから、思い出したらぜひききたい。それまで、使われていない馬小屋で寝起きしていいといってくれた。
 一日に一食かそこら、せがめば誰かが芋や、団子か何かを恵んでくれた。「思い出したかい」と何度も山のことをきかれるので、そのうち私は彼らがして欲しいのであろう話、つまり化け物にであった話をするようになった。自分がどこの誰で、誰と一緒に山に入ったのかも思い出せぬのに、ケシビ山にて化け物がやってきたところだけ、覚えている、ということにしたのである。一つ目入道が大きな狼に変化し、私の胸に傷をつけ、連れの女人を攫っていったというような展開だが、何度も話しているうちに、本当に体験したことのように感じ、嘘をいっているという気にはならなくなっていった。「その狼は普通よりずっとずっと大きいやつで、人間の言葉を喋るのです。人を食わねば収まりがつかぬというのです」胸の傷を見せたり、曲がった足を見せて話した。「狼に崖から追い落とされました」
 少しすると江戸から一人の男がやってきた。「どうもケシビ山から生還した男が、妖魔と戦った様子を語っているのは誠か」ときいてくる。江戸にきて話をして欲しいという。江戸の学者だかなんだかの偉い人が話を聞きたいのだという。
 私は江戸に連れていかれた。お屋敷の座敷で面会したのは平田某という人だった。お武家さまだが、学者であり、医者でもあるという。死後の世界や、妖怪変化の類に興味があり、研究をしているのだという。お主は誠に妖怪に相見えしか、ときかれたので、見ました、と答えた。私は平伏し、不安気に彼を見あげ、生活に困っているのでいくらかのお金が欲しい旨を伝えた。平田某は、相好を崩し、なあに話がきければそれは考えるといったので、思いつくままに、嘘と夢と、思い込みの入り交じった、不思議譚をしてやった。話は気に入られた。私は平田某や、その交友する者たちを前にして、屋敷にて日々、話をするようになった。しだいに私が遭遇した化け物は、ケシビ山の妖怪ということで、ケシヨウと呼ばれるようになった。私の話す一切がっさいが虚妄の幻であったとしても、現実にそこでは無数の人間の消失が起こっているのだから、何かがいる、のは確かである。やがて「先生がもう話のほうはあらかたよいと仰っています。ご苦労様でした」と下男が、いくばくかの銭を私に渡してきた。屋敷を追い出されると、あとは物乞で流浪するより他なかった。江戸は豊かなだけあって、暴力から逃れることさえできれば(無宿人の辻斬りが横行していた)物乞で生きていくことができた。私は昼の明るいうちは市の片隅に座って、小銭を得た。そして夜になると、河原の掘っ立て小屋で寝た。
「うさぎひょん」という言葉があるとき耳に入った。私が座りこんでいる市の片隅にて、
 誰か町人同士の会話が聞こえてきたのだ。
「そいつがべらぼうなこった、素っ裸になって、鉈をもって、うさぎひょん、うさぎひょんいいながら追いかけてきたんだってよ」
 会話の相手が「ぞっとするねえ、そらもう狐でも憑いてるんじゃねえか」と呆れたようにいう。うさぎひょん? 片隅に座っていた私は首を傾げた。ああ、うさぎひょんの男のことなら、知っているぞ、と私は思った。なにせ同じオイヌ穴に閉じ込められたのだからな。まさかここでうさぎひょんの話を聴くとは。
「だからよお、その男だっただよ。そのうさぎひょんがなあ、同心に追い詰められて、墨田川に飛び込んだんだと」
 私の郷里の伝説的人物、うさぎひょんの男はオイヌ穴に入った後、なんとか逃げ出すかして、江戸にいったのだ。そして、ついこのあいだまで生きていたのだ(二人の話によるならば)。江戸でものを盗んで追いかけられている最中に川に飛び込んで溺れ死んで最期を迎えたのである。 
 さて、男たちが去ってから、丸一日、私は愕然としていた。まさかのうさぎひょんから、ぱらぱらと記憶が取り戻されていく。私は自分が誰かを思い出し、〈菊〉を燃やしたことや、旅と殺人の日々、おりくとケシビ山に向かったことを思いだした。だが記憶を取り戻しはしたが、行く当てなどなかった。私はかわらず、もの乞いを続けるしかなかった。ただ〈あれだけいろいろやって、よく今まで生きていたものだ〉と思った。
 記憶が戻って改めて知ったことがひとつ、
 私は〈残虐〉を失っていた。〈残虐〉はもう、
 燃え尽き灰になっており、そこは心の虚(うろ)になっていた。おそらく一生この虚を抱えるのだと思った。
 私は山中で化け物が変じた巨大な狼に傷つけられた記憶について考えた。戻ってきた記憶を筋道に沿って手繰っていけば「襲いかかってきたおりくを殺した後に自害を試みた」が事実であり、あちこちで私が話したケシヨウなどは、まず姿すら見ておらず、せいぜいが、霧のなかで怪しい声が聞こえた気がする、というあやふやなものしかなかった。だが、それでも私のなかには巨大な狼と対峙した記憶が消えることなくあるのである。
 河原に網を投げにくる初老の男がいた。ちょうどその頃、私の掘っ立て小屋の近くで、男はよく網を投げた。川の海老や、鮎や鮒や鯉がかかる。「おおい、あんた、少しいるかい」などといって数匹を置いていくので、それを焼いて食べた。思慮深い雰囲気の男で、河原で暮す私を特別蔑視する様子もなかった。やがてすっかり顔なじみになり、時には一緒に座って魚を焼いて食べることもあった。「若いのに働かないのかい」「足が一本駄目になっちまって」「どうして」「ケシヨウっちゅう妖怪変化に襲われたっていったら信じますかい」「はあ、ホントかね」私は十八番の身の上話をした。男は大まじめにきいてくれた。
「どうも話慣れしすぎていて、全部は信じられんが疑いのある部分もでてこねえ」
「話慣れしているのは、お武家さまに呼ばれて同じ話を繰り返したからですよ」
 この初老の男の名は吉兵衛といった。
 雪の降った寒いとき、「おおい生きてるか」といって吉兵衛がやってきた。餅をもっている。掘っ立て小屋の前で焚き火にあたりながら、餅を焼いた。
「さっき家で餅つきして、あまりものだ」
「いつもありがたいです」
「あんたな、もう少しだけいい暮らしができるって話があったら乗るかい。そのな。仕事の頼みだが、いやいや仕事のようで仕事でない楽なもんだ。なあに、俺は人買いでも、鉱山人足探しているわけでもない。話だけきいてくれ」
 話はこういうものだった。吉兵衛は、私の暮す場所からそう遠くない土地の地主で、けっこう広い畑をもっている。吉兵衛の一家も、村に住む分家の連中もこの先祖代々からの農地の働き手だ。新田も、桑畑もあり、瓜畑もある。畑は山林に接しているのだが、どうも獣害が酷い。夜のうちに鹿や狸や猪やらが現れる。案山子をたてても効果はない。
「そこで相談だ、あんたさえよければ、こんなところに住むならば、ちょいとうちの畑のほうにボロ小屋があるから、そっちに住まないか。夜に畑の近くで人の気配があれば、獣も警戒するだろう。音をたてて、気配をだして、獣がきたら脅かしてくれっていう仕事さ」
 吉兵衛について歩いた。案内されたところは、確かにボロ小屋であったが、茅葺きの屋根があったし、今の住居よりましであった。
「あっちが森で、こっちが畑だ」吉兵衛は指で示した。小屋は森と畑に挟まれた野原にあった。畑には木柵があるが、いくらか壊されている。
「あっちからくる動物が壊す。きりがねえんだ。猪なんかは蹴倒して入ってくる。母屋はずっと向こうだから、いちいち夜まで見てられねえし、最近は堂々と、昼間もくるやつがいる」
「獣は殺してもいいのですかい」私はきいた。
「もちろんだ。殺せるなら、そうしてくれたら大いに助かる。もしも獣を獲れたら、好きにしていい。皮をなめして売るなり、なんなりな」
 こうして私は、生きた案山子として、番犬代わりにこの境界の小屋に住みはじめた。初めてみたときから、いいところだな、と思っていた。河原は、いつ何時、襲われ殺されるかわからぬ暮らしであり、毎年のように出水する暴れ川に泣かされ続けることになる。が、この吉兵衛の敷地なら、通り魔はこないし出水に恐れなくても済む。無論、吉兵衛が私を憐れんでしてくれたことだ。
 私は畑と森のあいだの野原に立った。私は恩に報いるために弓矢をもって見回った。鹿も、猿も、猪も、狸も、見つければすぐに矢を放って攻撃した。哀れみなど感じなかった。猪がはまるオトシアナを作った。捕獲した獣は殺し、得た獣は肉をそぎ取り煮たり焼いたりして食べた。兎と鶏以外の獣肉を食べる習慣は江戸近郊のこのあたりの者にはなかったので、こっそりと人のこないときに調理した。
 なんだか幼少期の原点に戻ってきたような気がした。ここは私が生きられる場所だった。
 市でなめし皮の職人に声をかけ、皮のなめし方を教わった。毛皮もまた買い取ってくれる先を見つけるとそれでいくらかの生活ができるようになった。私は、己の家族を増やすかのように、案山子を作り、それを、森と畑の境界の野原に並べてやった。かがり火を焚く台を作り、そこで夜はたいまつの炎を点した。案山子たちを揺れる炎が照らした。
 動物たちは人間が思うほど愚かではない。学ぶ。危険だと判断したところには近寄らなくなっていく。すぐに獣害が大きく減ったと吉兵衛が喜んで伝えにきた。
 収穫のときには人手が足りなくなるらしく、
 私にも声がかかった。速くは歩けないが、手作業ならできた。迷子になった吉兵衛の孫を見つけて母屋に連れていった次の年から、正月の餅つきにも参加するようになった。
 落ち着くと、よくおりくのことを考えるようになった。あの人は、ケシビ山で本当に私を殺そうとしたのだろうか、それとも、私を挑発して殺されようとしたのだろうか。あるいは殺すつもりも殺されるつもりもなく、ただ積もり積もった不機嫌が爆発しただけのことだったのか。人生には確かに〈流れ〉というものがあり、人を良い場所にも悪い場所にも運んでいく。おりくはおりくで、いつのまにやら、何かしらの崖っぷちに追いやられていて、壊れかけていたのだろう。幼い私は気がつかなかった。
「やってきたのはケシヨウという大妖怪だった」私は話を聞きにきた吉兵衛の孫たちに話してやった。
「そしてこれが、そのケシヨウにやられた傷だ」胸の傷を見せる。
 おりくと対峙していたとき、私は本当に、なにか見えざる獣が飛びかかってきて、私の〈残虐〉の首根っこを咥え、私から引きはがすと、どこぞへ持ち去ったような気がしている。
 月日が流れていった。それは生まれて初めて得たかのような、永い平穏の日々であり、巨大な虚ろの穴のまわりを延々と周回し続けるような日々でもあった。

胡乱の山犬

Synopsisあらすじ

武蔵国のある集落――。
「殺生」の意味がわからない子供であった私は、罰として「オイヌ穴」に入れられた。
そこから村を抜け出た私と、私の中に居座る《残虐》の、これはとある奇妙な物語。

Profile著者紹介

恒川光太郎(つねかわ こうたろう)
1973年東京都生まれ。
2005年「夜市」で日本ホラー小説大賞を受賞。同作単行本はデビュー作にして直木賞候補になる。2014年『金色機械』で日本推理作家協会賞を受賞。その他の著書に『スタープレイヤー』『ヘブンメイカー スタープレイヤーⅡ』『無貌の神』などがある。

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