四神の旗第八回

       * * *

 佐保の邸では主がいてもいなくても、宴が催される。
 漢詩と音楽を愛でる者はいつでも立ち入りがゆるされているのだ。
 酒を飲み、その合間に箏を奏でる。あるいは箏を奏で、その合間に酒を飲む。
 どちらが先なのか、酔った頭ではわからなくなっていた。
「麻呂殿、今の箏は見事でありましたな」
 声をかけて近寄ってきたのは大伴旅人だった。
「下手な箏でお耳を汚して申し訳ありません」
「なにをおっしゃいますか。麻呂殿の箏は天下一です」
 大伴旅人は麻呂の盃に酒を注いだ。
「まずは一杯、召し上がれ」
「かたじけない」
 麻呂は酒を飲み干した。
「いつ見てもよい飲みっぷりですな」
 大伴旅人は自分の盃に口をつけた。
「わたしにはこれしか能がありませんから」
「なにをおっしゃいますか。あなたは藤原麻呂。左右京大夫にして、藤原の四男ですぞ」
「だからなんだと言うのです。長兄は中納言、次兄は内臣、すぐ上の兄は式部卿で持節大将軍です。左右京大夫など、風が吹けば飛んでしまう塵芥(ちりあくた)のようなもの」
「その塵芥のような役職に就きたいと願っている者が大勢いるのですぞ」
「それはそうでしょうが......」
 麻呂は口が過ぎたことに気づき、新たな酒を盃に注いでごまかした。
「いずれ、麻呂殿にも大きな仕事を担うときがやってきます。それまで辛抱されるといい」
「わたしはこれでよいのです。政の中枢に血を分けた兄弟がふたりいる。これだけでも大変なことです。それ以上を望めば天罰が下ります」
「本当にそれでよいのですか」
 大伴旅人が声をひそめた。麻呂は聞こえなかったふりをした。
「あなたは藤原不比等の息子。その気になれば太政官の座などすぐに手に入る」
 麻呂は盃を口に運ぶ手を止めた。大伴旅人の腹の内を探ってみようと思ったが、酔いすぎていて頭がよく回らなかった。
「わたしをおだててどうなさるおつもりですか」
「わたしは武智麻呂殿の物事の進め方が気に入りません」
 大伴旅人が声をひそめたまま言った。麻呂は口を閉じた。
「房前殿は融通が利かなすぎる。宇合殿は唐にかぶれておられる。わたしとしては、同じ藤原の者が太政官に座を持つなら、麻呂殿がもっとも相応しいと思っているのですが」
「わたしならば扱いやすいとお考えですか」
「とんでもない」
 大伴旅人は大げさに首を振った。
「麻呂殿なら、歌と詩を愛する者なら、政の王道を進んでくれると信じているからです」
「政の王道ですか......ならば、旅人殿は兄のやり方は邪道だと思っているわけですね」
「そのようなわけではありませんが」
 大伴旅人が言葉を濁した。
「旅人殿がどう思われようと、わたしが太政官の座に就くことなどあり得ませんよ。上がつかえているのですし」
「それはわかりませんぞ」
「どういうことです」
「先日の宮子様の尊称の件で長屋王様はご立腹なされている様子。いずれ、武智麻呂殿を排除しようと動き出すでしょう」
「そのようなことをわたしに話してもよいのですか」
 麻呂は言った。
「武智麻呂殿とて、そのような動きはすぐに察しますでしょう」
 大伴旅人の言葉に麻呂はうなずいた。
「とはいえ、今の朝堂は長屋王様がその手に握っているも同然。武智麻呂殿といえど、あらがうことは難しいかもしれません」
「そうなれば、宇合が議政官になるだけです」
「宇合殿の唐かぶれも、長屋王様は嫌うでしょう。となれば......」
 麻呂は盃に残っていた酒を飲み干した。
「武智麻呂を軽んじていると、後で痛い目に遭いますよ。兄は、だれよりも濃く父の血を引いているのです」
「確かに麻呂殿の言うとおりだ。武智麻呂殿は年々、不比等殿に似ていく。太政官で話をしていると、ときおり、まだ不比等殿がこの世にいるのではと錯覚することがあります」
「わたしもです。武智麻呂と話をしていると、ときに、父がこの世に戻ってきたのかと肝が冷えることがある」
「不比等殿はそのようなお方でした」
 大伴旅人は遠くを見るような目つきをした。
「不比等殿は実にたくさんのことを成し遂げられた。律令を作り、記紀を編纂し、古きしきたりを退け......生き急いだような気がしてなりません」
「まだ幼かったころ、父に言われました。我々四兄弟は、首様と安宿媛を守り支える四神なのだと」
「四神ですか」
 麻呂は自嘲の笑みを漏らした。
「わたしは出来損ないのようですが」
 大伴旅人の顔つきが変わった。
「もし......もしもですが、武智麻呂殿が安宿媛様の立后を望んでおられるのなら、それだけはまかりなりません」
「なぜです」
「尊き血を引かぬ者が皇后になったためしなどないからです」
 麻呂は笑った。
「旅人殿は先ほど言ったではありませんか。不比等は古きしきたりを退けてきたと」
「しかし、これだけは――」
 麻呂は手を広げ、大伴旅人の言葉を制した。
「この話はもうやめましょう。わたしには武智麻呂兄上がなにを考えているかなどわからないのですから」
「これは失礼した。つい我を忘れてしまいました」
「それほど立后というのは大きな問題なのです」
 麻呂は腰を上げ、大伴旅人に一礼した。佐保の邸を出ると、風がさらに冷たさを増していた。
 酔いが一気に醒めていく。
「兄上、道のりは険しいようですぞ。いかがなさるおつもりなのです」
 風がその声を瞬く間に運び去っていった。

        * * *

 邸に戻ると、家人が青い顔をして飛んできた。
「旦那様、お客様がいらっしゃっております」
「客とはだれだ」
 宇合は訊ねた。
「長屋王様だそうでございます」
 宇合は辺りを見回した。供の姿は見当たらない。
「長屋王様だと。間違いはないのか」
 家人が首をひねった。
「そのような高貴な方のお顔など存じないものですから」
「わかった。至急、酒の支度をしなさい」
「かしこまりました」
 宇合は客を通す部屋に急いだ。長屋王はそこが自分の邸でもあるかのように書物に目を通していた。
「これは長屋王様。申し訳ありません。出征の支度であちこちに出かけておりました。かなり待たれましたか」
「それほどでも。書物に目を通していると、時の経つのを忘れてしまうのです」
 長屋王は書物を傍らに置き、微笑んだ。
「それはわたしも同じですが......わざわざお越しいただいたのはなんの用でしょう」
「あなたが都を立つ前にゆっくり話をしておきたいと思ったのです」
「なんの話でしょう」
 宇合は身構えた。
「無事に謀反を鎮圧して都に戻れば、あなたは褒美を受けることになる。望む褒美はなんですか」
「褒美ですか。さて、これは困った。考えたこともなかったのでなにも浮かびません」
 凱旋したところでせいぜいが位階が上がり、資人(しじん)をもらえるだけのことだ。長屋王の真意がはかりかねた。
「考えてください。あなたを持節大将軍に任じたのはわたしも同然です。大変な役目を押しつけたのですから、それに見合う褒美を用意したいのです」
「なにもありません」宇合は答えた。「わたしは今のままで充分です」
「本当にそうお考えですか」
 長屋王はしつこく訊いてきた。宇合はうなずいた。
「ならば率直に申しましょう。あなたには夢があるはずです」
「夢ですか。それはもちろんありますが......」
「唐を手本にした国造り」
 長屋王が書物に書かれた文字を読むような声で言った。
「あなたがよく目を通す書物を見ればわかります」
 宇合が黙っていると、長屋王が言葉を続けた。
「その夢を実現させるためには、まず、議政官にならなければ」
「すでに長兄の武智麻呂が中納言ですし、房前も内臣。太政官にわたしの入り込む隙はありません」
 長屋王が微笑んだ。
「不比等殿が生きておられれば、あなたたち四人の息子すべてに太政官の座を与えようとされるでしょう」
「父ならば、あるいは。しかし、その父はもうこの世にはおりません。他の議政官たちは、これ以上、藤原の者が太政官に座を持つことをよしとはしないでしょう」
「そのとおり。ならば、残る道はただひとつ。わたしが武智麻呂殿を退け、空いた席にあなたが座る」
「そのような話をわたしが真に受けると本気でお考えですか」
「だからわたしはこうしてここにいるのです」
 宇合は腕を組み、長屋王の顔をまじまじと見つめた。
「いかがしました」
「長屋王様の気が触れたのではないかと疑っているのです」
 長屋王が破顔した。
「わたしは正気ですよ。あなたの胸の奥で燃えている野心という炎に期待をかけているのです」
「わたしに野心などありません」
「わたしが協力すれば、思いのままにこの国を造り替えることができるのですよ」
「血の絆に背を向けてまでなにかを成したいと思ったことはありません」
「不比等殿が今のあなたの言葉を聞いたらどう思うでしょうね」
 長屋王の顔には微笑みが張りついたままだ。その爽やかな笑顔で平気で嘘をつく。
 政とはなにかを得るためになにかを捨てることだ――かつて、不比等が口にした言葉が耳の奥によみがえった。
 長屋王はなにも捨てずに自分の得たいものを得ようとしている。
 長屋王は間違っている。
「父ならば、怒り、わたしを叱責したかもしれません」
「不比等殿はそういうお方でした」
 長屋王が咳払いをした。
「こう考えたことはありませんか、宇合殿。なぜ、武智麻呂殿なのか。房前殿なのか。ただ自分より先に生まれたというだけで、なぜあのふたりが自分の進むべき道を塞ぐのか」
 長屋王が口を閉じた。
「考えたことはあります。わたしとて、不比等の息子。兄たちがいなければ、自分が氏上として一族を率いていたはずだと」
「そうなさってもよいのですよ。古来、長兄が家を継がなかったということはいくらでもあります。能力のある者が父の意を継ぐ。それが当たり前の時代もあったのです」
「長屋王様の話、胸の奥でしばらく考えてみたいと思います」
 宇合は言った。
「それはありがたい。それでは、わたしはこれで――」
「酒肴の用意をさせています。よろしければ、酒など酌み交わしながらまた書物の話でもどうですか」
 腰を浮かしかけていた長屋王がまた腰を下ろした。
「よいのですか。わたしは、麻呂殿の箏を聞くのと、あなたと書物の話をするのがなによりの好物なのです」
 政などに関わらなければ、長屋王とはいい友人になれただろうに――宇合は心の声に耳を傾けながら小さくうなずいた。

 三千代(みちよ)が読経する声が庭に響いていた。
 武智麻呂は案内しようとする三千代の家人を制し、庭を横切った。部屋に上がっても、読経が途切れることはない。
 武智麻呂は読経が終わるのを待ちながら、三千代を観察した。
 年を取り、顔には皺が目立つ。だが、経典を追う目には力がみなぎり、声も若々しかった。
 不比等が三千代を妻として迎えたとき、まだ若かった武智麻呂の胸には言葉にしがたい思いが宿った。
 武智麻呂の母は心から不比等を慕っていた。だが、三千代が妻になってからは、不比等は母を顧みなくなった。
 閉じた瞼(まぶた)に映るのは、寂しさをたたえた母の横顔だ。
 不比等を恨み、三千代を恨み、しかし、これが世の習いなのだと諦観した。
 不比等にとって、三千代を娶(めと)ることは必定だったのだ。天皇の信が篤く、宮中においては絶大な力を持っていた。不比等が望むものを手に入れるのに、三千代の助けは不可欠だった。
「あら、いらしていたのですか。気がつきませんでした」
「熱心に経を読んでおられましたからね」
 三千代が武智麻呂に向き直った。武智麻呂は一礼した。
「お忙しい中納言殿が、わたしのような老いぼれにわざわざ会いに来てくださるとは、ありがたいことです」
「お体の具合を案じていたのですが、まだまだお元気でいらっしゃる」
 三千代が首を振った。
「最近は文字がよく見えません。この経典も、ただ手にしているだけ。読み上げているのは頭の中に書き記した経典なのですよ」
「だれかに命じて、目に効く薬を持ってこさせましょう」
「無駄です。年老いればだれもがこうなるもの。人は必ず老いるもの。それにあらがおうとするのは愚かなことです。それで、なにか話でもあるのですか」
 相変わらず、三千代は無駄話を嫌う。武智麻呂は唇を舐めた。
「最近、安宿媛とは会われていますか」
「あの子も今や天皇の夫人です。そう簡単に邸を出るわけにはいきません」
「それでも親子なのです。安宿媛にとって、三千代殿はただひとりの母。直に顔を見て、話をしたくもなるでしょう」
「中納言殿も、あの子の兄ではありませんか。知りたいことがあるのなら、わたしではなく、安宿媛に会って訊けばいいのです」
「直接には聞きにくいこともあります」
 三千代が瞬きを繰り返した。
「なるほど。安宿媛に懐妊の兆しがあるのかどうか、知りたいのですね」
 武智麻呂は頭を掻いた。三千代の明晰さはまだ失われていない。
「あの子とそのような話をしたことはありませんよ」
「首様と安宿媛は仲睦まじくされておりますが、夜の方はいかがなのでしょう」
「安宿媛の腹に首様のお子が宿って欲しいという気持ちはわかります。けれど、こればかりは人にはどうにもできません」
「承知しているのですが、できるだけ早くお子を産んで欲しいと思ってしまうのです」
「長屋王はそれほど手強いですか」
「いずれは打ち勝ちます。が、時間はかかる」
「手っ取り早いのは、安宿媛が懐妊すること、ですか。しかし、中納言殿。いかに寵愛されていても、安宿媛はただの夫人です。他の夫人もいつかは懐妊するでしょうし、長屋王はいずれ皇后を立てようとするでしょう。そうなれば、安宿媛が男の子を産んだとしてもどうにもなりません」
「ですから、だれよりも先んじて安宿媛がお子を産めば、その皇子が長子として皇太子になる可能性が高まります」
 三千代が首を振った。
「長屋王がいる限り、無理です」
「安宿媛の立后も、長屋王がいる限り、無理です」
 武智麻呂は言った。
「ならばどうするおつもりですか」
「父上がするであろうことをするつもりです」
 三千代が目を細めた。
「不比等殿に似てまいりましたね」
「まだ、父上の足下にも及びませんが」
「それでいいのです。焦りは禁物です。焦りがいいものをもたらすことはありません」
 三千代は手にしていた経典に目を落とした。
「式部卿殿から頼りはありますか」
 宇合が下向して、すでに二ヶ月が経つ。蝦夷の反乱は出羽(でわ)にまで広がり、小野牛養(おののうしかい)が鎮狄(ちんてき)将軍として派遣された。
 すぐに鎮撫して凱旋するだろう思っていたのだが、事態の収束にはまだ時間がかかりそうだった。
「苦労しているようです」
 武智麻呂は答えた。
「読経をしていたのは、式部卿殿の無事を祈っていたからです。わたしの腹を痛めたわけではありませんが、あなたたち兄弟はわたしの息子も同然。なにごともなければよいのですが」
「ありがたいお言葉です」
 武智麻呂は頭を下げた。
 安宿媛は不比等の娘であると同時に三千代の娘でもある。安宿媛の産む男子が皇太子になれば、三千代の一族もその恩恵を浴びるだろう。
 もし、武智麻呂たちがいなければ、三千代とその一族はすべてを手に入れることも可能になる。
 三千代がなにを考えているのか、武智麻呂には読むことができなかった。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー