四神の旗第七回

「こたび、陸奥(みちのく)で蝦夷(えみし)が謀反を起こしたとか」
「そうなのですか」
 安宿媛(あすかべひめ)の顔に戸惑いの色が浮かんだ。
「宇合(うまかい)が持節大将軍に任じられ、軍勢を率いて陸奥へ行くことになりました。そのことに関して、首(おびと)様からなにかお聞きになったことはありませんか」
「蝦夷が謀反を起こしたということを、たった今知ったばかりなのですよ」
 房前はうなずいた。
「そうでしょうね。いや、愚かなことを訊きました」
「宇合兄上は大丈夫なのでしょうか。これまで、軍勢を率いたことなどないのに」
「あれは唐の書物に通じております。彼の国の兵法も心得ているとか。心配には及ばないでしょう」
「腹が減るからです」
 安宿媛の言葉に、房前(ふささき)は首をひねった。
「腹が減る、でございますか」
「そう。お腹が減るから、食うや食わずの暮らしを強いられるから、蝦夷は謀反などを起こしたのです。この国のすべての民が、日々腹を満たして過ごせれば、謀反など起きません。だからこそ、わたしは民たちに施しをしたいのです。それは、首様のためにもなります。違いますか、兄上」
「安宿媛様の、御仏のように広く深い慈愛に、この兄、感銘を受けておりますぞ」
「ふざけないでください」
「ふざけてなどおりません。素晴らしいお考えです。首様のためになるというのも正しい」
 安宿媛の顔が輝いた。
 まるで日輪のようだ――妹の笑顔を見ながら、房前はそう思った。

        * * *

「おめでとうございます」
 不意に声をかけられ、麻呂(まろ)は箏(そう)をつま弾く手を止めた。酔いが回った頭を振りながら声の主に目を向ける。
 見た顔だが、名前は思い出せなかった。
「なにがめでたいのですか」
 麻呂は訊ねた。
「ご存じないのですか。蝦夷が反乱を起こして、宇合殿が持節大将軍に任じられて鎮圧に向かうのです」
「兄上が――」
 酔いが急速に醒めていく。
「なぜ兄上が」
「太政官(だいじょうかん)の会議でそう決まったそうです。蝦夷を鎮撫して凱旋すれば、宇合殿の出世は約束されたようなもの」
「宇合兄上は持節大将軍を引き受けたのですか」
「議政官が決めたのですぞ。その場には武智麻呂殿も房前殿もいたとか。断る、いや、断れるはずがないではありませんか」
 頭の中で「戦」という文字が踊りはじめた。肉が断ち切られ、血が飛び散る。
 吐き気を催して、麻呂は口をきつく閉じた。
「顔色が優れませんぞ、麻呂殿」
「少し、飲みすぎたようです。失礼します」
 麻呂は立ち上がり、相手に頭を下げた。踵(きびす)を返すと新緑に彩られた庭が目に飛び込んできた。頭に浮かぶ血なまぐさい光景が鮮やかな緑に塗り潰されていく。肺に溜めていた息をゆっくり吐き出し、廊下に出た。
 冷気が体から酔いを追い出していく。佐保(さほ)の邸は主が留守でも客をよくもてなしてくれる。
 漢詩の一節が浮かんだ。陳腐すぎて苦笑するしかなかった。酒で濁った頭で考えた詩は、翌日読み返すと腹立たしくなるのが常だ。
 書庫が見えた。もしかすると宇合がいるかもしれないと思い、足を向けた。
 書庫は無人だった。しんと冷えた空気の中、無数の書物がわたしを読めと麻呂に迫ってくる。
 麻呂は腕を伸ばし、適当に書物を手に取った。唐のものだった。
 太陽や月、星の位置と季節の移ろいについて書かれている。
「まったく......」
 麻呂は首を振り、書物を元の場所に置いた。長屋王(ながやのおう)や宇合の気が知れない。なにが楽しくて、この年になって書物に淫しなければならないのか。
 幼い頃から、書物に向き合ってきた。読まされるものの大半は、政(まつりごと)や詩に関するものだった。
 この国の政を司る立場の人間として学んでおかなければならないすべてのことを叩きこまれたのだ。
 書庫を出ようとして足が止まった。入口に人影がある。
 この邸の主だった。
「お戻りですか」
 麻呂は口を開いた。
「宇合殿かと思いましたが、麻呂殿でしたか。ここに足を運ぶとは珍しい」
 長屋王は寒さを感じさせぬ笑みを浮かべた。
「少し飲みすぎたようで、頭をすっきりさせようかと思いまして」
「酔った頭で小難しい書物に目を通すと、ますます酔いが酷くなりますよ」
「おっしゃるとおりです」
 麻呂は頭を掻いた。
「宇合殿の件は耳に入りましたか」
 長屋王が言った。
「ええ、先ほど。ひとつ、お訊ねしてもかまいませんか」
 長屋王がうなずいた。
「なぜ、宇合なのですか。鎮撫のための将軍なら、他に適任者がいると思うのですが」
「宇合殿が適任だからです」
「しかし、兄は軍勢を率いたことなどありません」
「将軍といっても、宇合殿が自ら戦場に出るわけではありませんよ」
「それは承知しておりますが」
「麻呂殿は兄想いですね」
 思いもかけない言葉を耳にして、麻呂は頬が熱くなるのを感じた。
「わたしがですか」
「ええ。宇合殿の身を案じておられる」
「それは兄ですから」
「力の前では兄も弟もない。それが朝堂というものです。父上の不比等(ふひと)殿も、力を己ひとりに集めるために、中臣(なかとみ)の一族を切り捨てた」
「それは朝堂に席を持つ方々の話でしょう。わたしは藤原(ふじわら)の末席を汚しているだけにすぎません」
「武智麻呂(むちまろ)殿は、いずれ、宇合殿も麻呂殿も参議にと考えているはずです」
 朝堂に席を持てるのはひとつの家にひとりのみ。そのしきたりを破ったのは他でもない、父の不比等だった。
 自分が右大臣であるにもかかわらず、息子の房前を参議に抜擢したのだ。
 だが、それも不比等の力があってこそ。すでに朝堂には武智麻呂が席を持ち、房前は内臣(うちつおみ)だ。宇合や麻呂を参議にしようなどと口にすれば、それこそ、議政官たちが一斉に目を吊り上げる。
「なにを馬鹿なことを」
「不比等殿が目指したものを、武智麻呂殿も目指そうとしているだけのことですよ。つまり、すべての力を、藤原の一族だけで独占するということです」
 麻呂は長屋王の顔を見つめた。心の奥を読み取ろうとしてみたが、上手くいかなかった。
「ですが、あの不比等殿も見誤っています」
「なにを見誤るのです」
「力を分けることはできぬということです」
「わかりかねます」
 麻呂の言葉に長屋王が微笑んだ。
「つまり、朝堂の力を藤原の一族が独占したとして、今度は藤原の中で争いが起きるということです。人間とはそういう生き物なのですから」
「我々兄弟が相争うと」
「すでに、武智麻呂殿と房前殿は違う道を歩まれている。そうではありませんか」
 麻呂は首を振った。
「そうではございません。お互いに遠回りをしながら、結局は同じ場所を目指して歩んでいるのです」
 長屋王が意外だという表情を浮かべた。
「兄たちもわたしも不比等の子。それだけはなにがあろうと違えることはかないません」
「不比等殿は兄上が夭折(ようせつ)されて幸いだったのです。ただ、それだけです」
 長屋王は経典を読むような声で言った。

       * * *

 武智麻呂の家人がやって来て、兄弟四人で話し合いたいことがあると告げたのは、日が傾きかけた頃合いだった。
 宇合は支度を調え、急ぎ、武智麻呂の邸へ向かった。
「先日も四人で顔を合わせたばかりだというのに......」
 溜息が漏れる。宇合は軍勢を率いて陸奥へ赴くための準備に忙殺されていた。
 邸に着くと、酒肴(しゅこう)の用意が整っていた。房前と麻呂の姿は見えず、武智麻呂が気難しい顔で膳の前に座っていた。
「兄上、話し合いたいことというのはなんですか」
 宇合はいつもの自分の席に腰を下ろした。
「房前と麻呂が来たら話す。それより、出征の準備は進んでいるか」
「はい。陸奥の近くの諸国に兵を出すよう、報せを送ったところです。向こうの兵の準備ができ次第、出立しようと思っています」
「以前にも言ったが、無事に戻ってくるのだぞ」
 宇合にとって、武智麻呂のこうした気遣いは驚きであり、また、嬉しいことでもあった。ものの見方、考え方は違えど、血の繋がった兄弟なのということが強く実感できる。
「お待たせいたしました」
 房前と麻呂が連れ立って姿を現した。房前は武智麻呂と目を合わせてうなずき、腰を下ろした。
「兄上、今日はなにごとですか」
 麻呂が言った。顔が赤いのはすでに酒が入っているからだろう。
「まず、宇合の出征が成功するよう、祈念して乾杯しよう」
 音もなく侍女たちがやって来て、それぞれの盃に酒を注いでいった。
「宇合、必ずや謀反を鎮圧してくるのだぞ」
 房前が盃を掲げた。
「無事に帰ってきてください」
 麻呂が言った。宇合はうなずいた。
「我ら兄弟、宇合の無事を願って祈りを捧げる」
 武智麻呂の言葉が終わると、兄弟で一斉に盃を干した。
「さあ、好きなように食べて飲んでくれ」
 武智麻呂が促したが、酒肴に手を伸ばそうとする者はいなかった。
「兄上」
 宇合は武智麻呂を促した。
「こたび、宇合が持節大将軍に任じられた件だが、長屋王の企みがわかったような気がするのだ」
 房前が武智麻呂の言葉にうなずいた。どうやらこのふたりは事前に話し合いを持ったらしい。
「企みとはおだやかではありませんね。長屋王はなにを企んでいるのです」
 麻呂が武智麻呂の方に身を乗り出した。
「おまえは度々佐保に出入りしているようだが、長屋王とはどのような話をしているのだ」
 武智麻呂が訊いた。
「どのようなといっても、漢詩を詠んだり、箏を奏でたり。大抵は酒を飲んでおりますゆえ、たいしたことは話しません」
「我ら兄弟のことで、長屋王となにか話すことはないのか」
 麻呂の目が一瞬、泳いだ。だが、麻呂はすぐに気を取り直したようだった。
「そのようなことを話したことはありません」
「宇合、おまえはどうだ」武智麻呂が矛先を宇合に向けた。「おまえも唐の書物を読むために佐保に出入りしているそうではないか」
 宇合は首を振った。
「先日も言ったように、佐保へは借りた書物を返し、新しい書物を借りに行くだけです。長屋王が在宅のときもあれば、そうでないときもあります。たとえ、在宅していたとしても、あの方は他の者たちと共に、漢詩を詠みあったり、酒宴をしたり。言葉を交わすことはほとんどありません」
「長屋王は我らを揺さぶろうとしているのだと思う」
 武智麻呂が言った。
「揺さぶる」
 宇合は房前の表情に意識を向けた。房前は腕を組み、目を閉じている。
「そうだ。謀反を鎮圧して凱旋したら、おまえは褒美をもらい、位も上がるだろう。朝堂での序列が高くなる。いずれ、参議となる道も早々に開けるだろう」
「それがどうしてわたしたち兄弟を揺さぶることになるのです。武智麻呂兄上が中納言、房前兄上が内臣、わたしが参議となれば藤原の力が増すだけ。長屋王としてはそちらの方を警戒するのではありませんか」
「我らが同じ道を進んでいるのなら、おまえの言うとおりだ」
 武智麻呂は自分で酌をし、酒を呷(あお)った。
「同じ道......」
 房前は目を閉じたままだ。麻呂は武智麻呂を見つめたまま動かない。
「しかし、違う道を歩んでいるとしたら、政の場におまえが加われば面倒なことになるかもしれん」
「兄弟同士で諍いが起こるということですか」
 麻呂が口を開いた。
「これにはおまえも関わってくる」
「わたしがですか」
 武智麻呂がうなずいた。
「上の三人が政の中心にいたり、天皇の寵愛が篤(あつ)いというのに、おまえだけが左右京大夫(さうきょうのだいぶ)のままであったとしたら、どう思う」
「どうも思いませんよ」
 麻呂は笑い、武智麻呂と同じように自分で酌をして酒を口に含んだ。
「おまえとて、藤原不比等の息子だ。酒や箏にかまけているが、その心の奥ではちろちろと炎が燃えているのではないのか」
 再び口に運ぼうとしていた麻呂の盃が途中で止まった。
「なにを馬鹿なことを」
 麻呂の横顔はうつろだった。
 房前が目を開いた。
「だから言っただろう。長屋王はわたしたち兄弟を揺さぶろうとしている。つまり、血の絆にひびを入れようとしているのだ」
「それがわたしを持節大将軍に任じた本意だと言うのですか」
「それしか考えられん」
 宇合が房前に向けた言葉に、武智麻呂が答えた。
「ならば、わたしたちはどうすればよいと兄上はお考えなのですか」
 宇合は再び問うた。武智麻呂が弟たちの顔に順繰りと視線を這わせた。
「同じ道を歩むのだ。父、不比等が目指した高みに、我ら兄弟が手を携えて登っていく。父上が望んでいるのもそれではないのか」
 武智麻呂の言葉は房前に向けたものだった。
「それは承知しております。わたしとて、父上の意に逆らうつもりは毛頭ありません。しかしながら――」
「そのしかしが余計なのだ」
 武智麻呂の声が烈(はげ)しくなった。
「おまえが頑なな質(たち)なのは昔から変わらん。それはわかっている。わかっていてなお、頼む」
 宇合は目を見張った。武智麻呂が房前に頭を下げたのだ。
「兄上、なにをしているのです。頭を上げてください」
「藤原のため、おまえの我を曲げてくれ。このとおりだ」
「わかりましたから、やめてください、兄上」
 房前が狼狽している。麻呂が宇合と目を合わせた。
 武智麻呂がこのような挙に出るとは、想像もしていなかった。
「本当にわかってくれたのか」
 武智麻呂が頭を上げた。
「わたしが兄上にそこまでさせたのだと思うと、胸が張り裂けそうです」
 房前の目が潤んでいた。
「長屋王と皇族たちに打ち克(か)つためには、我ら兄弟が力を合わせる必要があるのだ。宇合、麻呂、おまえたちもよろしく頼む」
「承知しております」
 宇合は再び頭を下げようとする武智麻呂を制して言った。麻呂も同じ言葉を口にした。
 武智麻呂が微笑んだ。
「長兄として、氏上(うじのかみ)として、おまえたちの口からその言葉を聞けたこと、心から嬉しく思うぞ」
 心が冷えた。武智麻呂にとって、弟たちに頭を下げることなどなんの意味も持たないのだ。
 だれよりも父上に似ておられる――宇合は冷えた心を温めるために酒を飲んだ。

        * * *

「どう思われます」
 武智麻呂の邸から帰る道すがら、それまで口を閉じていた麻呂は宇合に言葉をかけた。
「武智麻呂兄上のことか。それとも房前兄上のことか」
「両方です」
「武智麻呂兄上は恐ろしいお方だ。そして、房前兄上は業(ごう)が深い」
「やはり、宇合兄上もそうお考えですか。武智麻呂兄上に頭を下げられた手前、房前兄上はああおっしゃった。しかし、本心は違う」
 宇合がうなずいた。日暮れどきの薄暮の中、宇合の横顔は頼りなげに見える。
「房前兄上は我が強すぎる。父上が武智麻呂兄上より先に房前兄上を参議に引き上げたのは、早いうちから政の中に置いて、我を通すだけでは物事は進まないということを教えるためだったのではないかと思っている」
「けれど、房前兄上がそれを学ぶ前に父上は逝ってしまわれた」
 麻呂は溜息を押し殺した。
「父上は生き急いだのだ」
 宇合が空を見上げた。東の空に月が昇っている。
「出仕するのが遅かったゆえ、すべてを自分の思うがままに変えるには、すべてをなげうたなければならなかったのだ。父上に比べれば、わたしたちは遙かに恵まれている」
「父上が懐かしいです」
 麻呂は言った。月が不比等の顔に見えた。
「そうだな。たまには叱責される声を聞きたいものだ」
 宇合が足下に目を落とした。
「我々はどうなるのでしょう」
 麻呂は月から宇合に視線を移した。
「さてな。なるようにしかならぬ。それがこの世の定めだ」
 宇合は寂しそうに微笑んだ。

 房前が詔(みことのり)を読み上げると、太政官にどよめきが起こった。
「内臣殿、それが首様の出した詔だというのか」
 多治比池守(たじひのいけもり)が最初に声を上げた。
「さようです」
「そのような詔があるか。書面には皇太夫人(こうたいぶにん)と記し、言葉にするときは大御祖(おおみおや)と呼ぶだと。そんな詔が発せられたなど、聞いたことがない」
「しかし、これが首様の意にございます。はじめに、宮子(みやこ)様を大夫人(だいぶにん)と呼ぶようにとの勅が出されましたが、太政官においてはそれは令に反する、しかし勅に反することもできないので、どうすればいいか、首様のご判断を仰ぐということでした。そして、首様はその判断を出されたのです」
 房前は多治比池守ではなく、長屋王の顔を見つめながら言った。
「この詔も令に反するからと突き返しますか、左大臣殿」
 武智麻呂が声を発した。
「先の勅は突き返したわけではない。太政官ではどうすべきか判断できないゆえ、首様の判断を仰いだだけのこと」
 長屋王が口を開いた。眦(まなじり)がいつもより吊り上がっている。
「この詔はいかがするのです」
「首様の意に従う他あるまい」
「しかし、大御祖ですぞ、左大臣殿。この言葉には皇祖という意味も含まれている。いくら首様の母上とはいえ、臣下の出の女人に大御祖の呼称を用いるとは、畏れ多すぎます」
 大伴旅人(おおとものたびと)が言った。両の拳を固く握りしめている。
 長屋王は黙して動かなかった。武智麻呂も同じように構えている。
「内臣、そなたが首様にそのような詔を出せと進言したのか」
 舎人親王(とねりしんのう)が房前に噛みついてきた。
「わたしはそのような真似はいたしません」
 房前は舎人親王の矢のような視線を受け止めた。
「ではそなたか、中納言」
 舎人親王は今度は武智麻呂を睨んだ。
「わたしもそのような真似はいたしません」
 武智麻呂が涼しい顔で応じた。
「いずれにせよ――」
 巨勢邑治(こせのおおじ)が声を張り上げた。
「この詔を受け入れるわけには参りませんぞ、左大臣。大御祖など、とんでもない」
「ならば、あなたたちが首様に諫言(かんげん)されるといい」
「左大臣――」
 長屋王の言葉に議政官たちが顔を強ばらせた。
「首様は自らがお出しになられた勅の誤りに気づき、新たな詔を発せられた。その詔ですら従うわけにはいかぬとなると、天皇の権威など無きに等しいではありませんか。首様が我々臣下に譲歩してくれたのです。今度は我々が譲歩する番です」
「しかし、大御祖とは......」
 大伴旅人が口をゆがめた。
「最初から大夫人という尊称を受け入れておればよかったのです」
 武智麻呂が言った。議政官たちが一斉に武智麻呂を見た。
「首様はただ、母上のためになにかをしてさし上げたかっただけ。それを令がどうだのと理屈を捏(こ)ねて反対などするから、ことがこじれたのです」
「言葉が過ぎるぞ、中納言」
 多治比池守が怒鳴るように言った。
「律令はこの国を貫く背骨です。しかし、天皇は言うならば、その背中がいただく頭。天皇が示す情が律令に反するのなら、優先すべきがどちらかは自明の理ではありませんか。我々は政を天皇から任されている臣下なのですぞ」
 武智麻呂は議政官たちを睥睨(へいげい)した。まるで不比等がそこにいるかのようだった。
「律令はあなたの父、不比等殿が主導して作り上げたのですよ」
 長屋王が言った。
「存じております」
「不比等殿が目指したのは揺るぐことのない根幹です。天皇が代われど、議政官が代われど、根幹は揺るがない。だからこそ、不比等殿は天皇を政から遠ざけたのです」
「存じております」武智麻呂は同じ言葉を繰り返し、目を見開いた。「しかしながら、律令は人の情まで縛るものではありません。飢えや病に苦しんでいる者に、律令で決められていることだから租や調を出せ、庸として働きに出よと言って、民が朝堂、ひいては天皇に従いますか。海道の蝦夷のように謀反を起こす者が出るやもしれません」
 長屋王は静かなまなざしを武智麻呂に向けていた。
「我々議政官がなすべきことは、律令に沿いながら、しかし、情を持って政に携わる。これに尽きるとわたしは思っております。ならば、左大臣殿は律令に反するからと勅から顔を背けるのではなく、首様の情に重きを置くべきでした」
「武智麻呂殿の考えはよくわかった」
 長屋王が口を開いた。
「だが、情によって規則を変えていたのでは国が成り立ちません。律令がすべてに勝るのです」
「天皇も例外ではないとおっしゃるのですか」
 長屋王の顔から血の気が引いた。武智麻呂の仕掛けた罠にかかったことに気づいたのだ。
 舎人親王が長屋王の言葉に耳をそばだてている。皇族にとって、長屋王の言葉は聞き捨てならないものだった。
 長屋王は目を閉じ、すぐに目を開けた。逃げ道はないと悟ったようだった。
「天皇も例外ではない。わたしはそう考えております」
 舎人親王が唇を噛んだ。
 房前は溜めていた息を吐き出した。
 あれが詩歌が好きで優しかった武智麻呂か。まるで父のようではないか。
 不比等の意を継がなければという想いが武智麻呂を変えたのか。それとも、力を求める野心が武智麻呂を変えたのか。
 いずれにせよ、長屋王と対峙する武智麻呂は若き日の兄とはまったく違う存在だった。

        * * *

「今日は負けました」
 肩を並べてきた長屋王が呟くように言った。武智麻呂は小さくうなずいた。
「大夫人という尊称を受け入れるべきだったのです」
「わたしにはそれはできない。武智麻呂殿にはそれがわかっているのでしょう。はじめに大夫人。わたしが反対するのを見越して、次に大御祖ですか。やられました」
「なにをおっしゃっているのか、わたしにはわかりかねますが」
 武智麻呂は足を速めた。長屋王がついてくる。
「だれも聞いてはおりません。とぼける必要はありませんよ、武智麻呂殿」
「ならば、わたしの言いたいことは先ほどと同じです。首様が宮子様を思う気持ちに寄り添うべきだったのです」
 長屋王がうなずいた。
「大夫人と大御祖なら、大夫人の方がまだよかった。大御祖は皇祖とも読める。皇祖の眷属(けんぞく)ならば、皇室に名を連ねることもできると考える者もいずれ出てきましょう」
 武智麻呂は肩に力が入るのを覚えた。
「まさか、そのようなことは――」
「そう。まさかです。よろしいか、武智麻呂殿。わたしの目が黒いうちは、安宿媛が皇后になることはない。それだけは肝に銘じておいてください」
 武智麻呂は足を止めた。長屋王も同じだった。
「臣下の娘が皇后などと――」
「宮子様の大御祖はそのための布石なのでしょう。先ほども言ったようにこたびの負けは認めましょう。しかし、次はあなたが負ける番です」
 武智麻呂は言葉は返さず、目礼して長屋王の傍らを通り過ぎた。
 背中に痛いほどの視線を感じる。長屋王は涼しい顔をしているが、その胸の奥では屈辱の炎が燃えさかっているのだろう。
 安宿媛の立后をなにがなんでも阻止するつもりなのだ。
「ですが、左大臣。あなたは気づいていない」
 武智麻呂は独りごちた。
 天皇の心に植え付けた種がいずれ大きな実をつけるだろう。
 それまでは、種から伸びる苗を大切に育てなければならなかった。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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