四神の旗第五回


 長屋王(ながやおう)と落ち合ってから、天皇の御寝所へと向かった。
「なにごとでしょうか。内臣(うちつおみ)殿、なにか聞いていますか」
 長屋王が言った。眉間に皺が寄っている。長屋王にとっても寝耳に水の呼び出しなのだ。
「先日お目にかかったときも、いたって元気なご様子でしたから、病を得たということではないでしょう」
 房前(ふささき)は答えた。
「となると、我々を呼んだ理由はひとつですかな」
「譲位ですか」
 長屋王がうなずいた。
 昨年、開墾(かいこん)した者から数えて三代にわたる墾田の私有をゆるした格を発布した頃から、天皇はしきりに譲位をしたいと口にするようになっていた。首皇子(おびとのみこ)もまもなく二十四歳になる。自分の役目はもう終わりだという思いが強いのだ。
「いかがされます」
 房前は長屋王に訊ねた。
「これまでにも散々なだめてきましたが、そろそろ限界でしょうか」
 長屋王は苦々しげに答えた。首皇子は不比等(ふひと)の孫だ。加えて、寵愛する安宿媛(あすかべひめ)は不比等の娘である。首皇子が玉座に就けば、武智麻呂(むちまろ)、ひいては藤原の力が強まると考えているのだ。
 しかし、首皇子に譲位したとしても、天皇は太上天皇となり、新たな天皇を後見する。首皇子が天皇としての力と権威を身につけるのはまだ先のことだ。
 それまでは、朝堂の主である長屋王は安泰である。
「房前殿はどう思われる」
 長屋王の言葉に、房前は足を止めた。
「わたしは内臣として、氷高(ひだか)様の御心がかなうよう、忠義を尽くすのみです」
 長屋王が微笑んだ。
「房前殿らしい。わたしはあなたのそんなところが好きです」
「ご冗談を」
 再び歩き出す。寝所の前で立ち止まると、長屋王が女官にうなずいた。
「左大臣様と内臣様がお出でにございます」
「通せ」
 間髪入れずに天皇の声が響いた。その声を耳にして、房前と長屋王は太い息を漏らした。腹をくくったときに出す声なのだ。
「これは、なだめるというわけにはいかないようですな」
 長屋王が先に寝所に入った。房前はそれに続き、天皇に向かって深く頭を下げた。
「よく来た」
 天皇がふたりを見据えた。大きな瞳の奥で、固い決意を孕んだ炎が揺らめいている。
「失礼いたします」
 長屋王が天皇の向かいに腰を下ろした。房前は少し下がったところで同じように腰を下ろした。
「房前、もっと近くに」
 天皇が言った。
「は――」
 房前は長屋王の隣に移動した。居心地の悪さに首を掻いた。長屋王は皇族だが、房前は臣下に過ぎない。内臣ではあるが、長屋王と肩を並べて天皇の目前に座るのは不遜ともいえた。
「首はもうすぐ二十四になる」
 天皇が前置きもなく口を開いた。
「存じております」
 長屋王が涼しげに答えた。
「わたしが玉座に就いたのは、首が幼かったからだ。その首も立派な男になった。そろそろ、玉座を明け渡すべきだと思わぬか」
「阿閇(あへ)様が氷高様に譲位なされたのは、首様が幼かったというだけの理由ではございません。首様に流れているのは天皇の血筋だけではない。そのことに反感を抱く臣下たちがよからぬことを企てぬようにという深いお考えがあってのこと」
「その者たちがなにをどう考えようと、首は遠からず玉座に就く。なぜ、それが今ではいけないというのだ」
「今まで待ったのです。もう少し待つというわけにはまいりませんか」
 天皇が長屋王を睨んだ。
「母上がわたしに譲位されたとき、朝堂の主は不比等だった。だからこそ、他の臣下たちは警戒もしたのだろう。だが、今の朝堂の主はそなたではないか」
 天皇の目が、長屋王から房前に移った。房前は腹に力を込めた。そうしなければ、天皇の視線を受け止めることができない。
「房前、そなたはどう思う。首が玉座に就いたからといって、武智麻呂やそなたが専横に振る舞うのか」
「そのようなことは決してございません」
 房前は頭を下げた。
「首が玉座に就けば、確かに武智麻呂は機に乗じようとするだろう。しかし、そなたの力を切り崩すまでには至らぬ。このわたしがそうはさせぬ」
 房前は長屋王の横顔を盗み見た。長屋王は泰然と構えている。
 首皇子は親政を望んでいる。となれば、藤原の者たちは政敵となる可能性がある。首皇子は武智麻呂を抑えるために長屋王にさらなる力を与えるだろう。
 天皇の言うとおり、譲位がなされたからといって、長屋王の座が脅かされることはない。
「首様だけではないのです」長屋王が言った。「安宿媛様もまた、不比等の血を引く女人です。天皇とその妻が藤原の一族ということになれば、これまでは起こりえなかったことが起こるかもしれません」
「なにも起こらぬ。安宿媛はただの妻ではないか。皇室の血を引かぬ者は皇后にはなれぬのはそなたも知っていよう」
「古きしきたりは新しきしきたりに取って代わられる。それを教えてくれたのは不比等にございます。お忘れですか」
 天皇の顔がかすかに歪んだ。
「それでは、そなたはどうあっても譲位は認めぬと言うのだな」
 長屋王が首を振った。
「わたしは氷高様の御心に従う所存です」
 天皇が目を見張った。
「それならばなぜ――」
「譲位は、氷高様がお考えになっておられるほど簡単なことではないとお伝えしたかったのです」
「まったく、そなたという男は......」
 天皇は唇を舐めた。喉が渇いているようだった。
 長屋王が背筋を伸ばした。膝の前に手をつき、ゆっくり頭を下げる。
「長きにわたり、天皇の務めをよくお果たしになられました」
 房前も長屋王にならった。
「太上天皇になられましても、これまで同様、臣下と民に慈愛を賜り、首様の後見として末永くお過ごしになられることを願っております」
 房前は言った。
「わたしは心底くたびれているのだ、長屋王よ、房前よ」
 房前と長屋王は、深く頭を垂れた。 

        * * *

 武智麻呂の邸に着くと、すぐに部屋に通された。三人の兄たちはすでに顔を揃えていた。
「わたしが最後ですか。待たせて申し訳ありません」
 麻呂は兄たちの顔を眺めた。一様に表情が硬い。
「房前兄がいらっしゃるのですから、もう、譲位の件はみなの耳に入っているのですね」
 麻呂は腰を下ろした。武智麻呂と宇合(うまかい)、房前と麻呂が相対する形だ。
 四神の旗だなと麻呂は思った。かつての不比等の言葉が思い出される。
 我ら四人の兄弟は四神となりて、首皇子と安宿媛を支え、藤原の末永い繁栄の礎(いしずえ)を築くのだ。
 だが、三人の兄たちの表情は硬く、とげとげしかった。
「来年の二月、首様は玉座にお就きになられる」
 武智麻呂が言った。
「二月ですか」
 麻呂は頬を掻いた。天皇が譲位を決断したという話はすぐに伝わってきたが、そこは初耳だった。
「いよいよ、父上の悲願を我らがかなえる時がきたのだ」
「安宿媛の立后ですか」
 麻呂は答え、房前と宇合に顔を向けた。二人とも口を一文字に結び、言葉を発しようとはしなかった。
「しかし兄上、簡単にはいきますまい。長屋王が反対するでしょう。皇族の血を引かぬ者が皇后になったためしはない。古くからのしきたりに、長屋王だけではなく尊き血を引く方々はしがみつくはずです」
「まずは宮子(みやこ)姉上からだ」
 武智麻呂の言葉に、やっと房前と宇合が反応を見せた。
「宮子姉上をどうしようと言うのです」
 宇合が言った。武智麻呂が懐から一枚の紙を取り出し、広げた。紙には「大夫人」と書かれていた。
「だいぶにん、ですか」
 房前が文字を読んだ。
「天皇になられたら、すぐに宮子姉上を大夫人にするという勅令を出されるよう、首皇子様に話をしてくれ。生まれてからこの方、ずっと母に恋い焦がれておられたのだ。首様はこの話に飛びつかれるであろう」
「しかし、兄上、大夫人という尊称は律令には定められておりません。皇太夫人の書き間違いですか」
 武智麻呂が首を振った。
「大夫人で間違いはない」
 麻呂は宇合と目を合わせた。武智麻呂の真意がどこにあるのか、皆目見当もつかない。
「わからぬか、房前」
「まさか、兄上......」
「その、まさかだ。首様が宮子姉上を大夫人とするという勅を発すれば、長屋王たちはこぞって反対するだろう。だが、天皇になられたばかりの首様に、真っ向から反論するのは躊躇(ためら)われるはず。大夫人という尊称は令に反し、しかし、それを変えるのは勅に反する。長屋王ならばどうすると思う」
 武智麻呂の問いに宇合が口を開いた。
「あのお方ならば、首様自らに判断を迫るでしょう」
「令に反し、勅に反する問題は臣下では議論できぬから、首様自らがご判断を、ということですか」
 麻呂は言った。武智麻呂がうなずいた。
「首様は機嫌を損ねるだろう。まだ一度も会ったことのない恋しい母に、ただ、相応しい尊称を与えようとしただけなのに、長屋王をはじめとする皇族たちに難癖をつけられるのだ。だが、頭のよいお方ゆえ、表だって腹立ちをぶちまけたりはするまい」
「長屋王への不信の種を蒔くのですね」
 宇合が感に堪えぬというような声を出した。武智麻呂の深謀に驚いている。
「なにもそのような真似をせずとも、最初から皇太夫人にせよという勅を出させればいいではありませんか。宮子姉上が皇太夫人になれば、後に安宿媛を立后するときに優位に働きます。それだけでよいのでは」
 武智麻呂が首を振った。
「安宿媛の立后に対しては、長屋王をはじめ、多くの者が表だって反対しよう。やつらには名分があるのだ。首様の気持ちを慮(おもんぱか)る必要さえない」
「事は慎重に進める必要があり、そのために打てる手立てはすべて打っておくということですね」
 宇合の言葉に、武智麻呂が嬉しそうにうなずいた。
「そういうことだ。長屋王を甘く見ることはできない。こちらも持てる力のすべてを振り絞らねば」
「お言葉ですが、兄上」
 房前が言葉を発した。武智麻呂の頬がかすかに痙攣(けいれん)するのを麻呂は見逃さなかった。
「阿閇様は我ら兄弟と長屋王様が手に手を取って首様を支えていくことを望んでおられました。わたしは、長屋王様と対立するのではなく、お互いの意を尊重して協力していくというのが臣下としてあるべき姿かと思います」
 武智麻呂が冷たい目を房前に向けた。
「我らの意と長屋王のそれとでは進む道がまったく違うのだ。おまえは、藤原の家が大伴(おおとも)や蘇我(そが)のように衰退していってもよいと言うのか」
「そうではありません。しかし、阿閇様の意に逆らってまで藤原の栄華を重んじるのは臣下のあるべき姿ではないと申しているのです」
「阿閇様はもういない。我らが忠義を尽くすのは首様に対してだ。その首様も、宮子姉上や安宿媛がそれに相応しい位を得ることに反対はしないだろう」
 武智麻呂と房前のやりとりを聞きながら、麻呂は溜息を押し殺した。
 青龍と白虎は互いに反目している。朱雀はなにを考えているかわからず、玄武たる自分にはなんの力もない。
 父上、これが力を合わせて首様と安宿媛を支えるべき四神ですか。
「なにがおかしいのだ、麻呂」
 房前の声が飛んできて、麻呂は自分が笑っていたことに気づいた。
「変わった箏(そう)の弾き方を思いつきまして、それをみなの前で披露することを考えると、つい」
「このような時に箏だと」
 房前の眦(まなじり)が吊り上がった。本気で怒っている。
「そう目くじらを立てるな、房前。相手は麻呂だぞ」
 武智麻呂が房前をなだめた。
「ずいぶんな言いようですね、兄上」
 麻呂は拗ねた声を出した。
「あしざまに言われたくないのなら、このような時ぐらい、箏のことは忘れたらどうだ」
 武智麻呂は首を振った。
「ただ反目するばかりの武智麻呂兄と房前兄もいかがなものかと思いますが」
 宇合がさらりと言ってのけた。
「それはどういう意味だ、宇合」
「互いの意をぶつけ合うだけではなく、兄弟なのですから、もう少しお互いに歩み寄ったらいかがと思っただけです。とくに房前兄、反目するのではなく、長屋王と手を組めと言っておきながら、武智麻呂兄の言葉に異を唱えるだけではありませんか」
「わたしに説教するつもりか、宇合」
「いけませんか」
 房前と宇合が睨みあった。普段は静かな宇合だが、ここぞというときには激しく燃え上がる。
 青竜と白虎だけではなく、朱雀も反目する。玄武はひとり、寂しくさまようだけだ。
「昔から、房前兄は我が強すぎます。優しそうな顔と物腰に人は騙されますが、兄上は決して引こうとなさらない。尊大で身勝手です」
「宇合」
 房前が膝を立てた。
「宇合、おまえは外へ出ていろ」
 武智麻呂が声を張り上げた。
「それでは」
 宇合が部屋を出ていく。
 麻呂はその後ろ姿を見つめながら、唇を曲げた。

        * * *

「お待ちください、兄上」
 遠ざかっていく背中に声をかけると、宇合が振り返った。
「どうした。おまえも、兄上たちの諍いに嫌気が差したのか」
「兄上たちは口も利かずに睨みあうばかりで、居心地が悪いことこの上ありません。用を思い出したと方便を使って逃げ出してきました」
「おまえらしいな」宇合が微笑んだ。「変わった箏の弾き方を思いついただと。よく、そのような嘘が口から出てくるものだ」
「ばれておりましたか」
 麻呂は舌を出した。
「おまえのことはよくわかっている。なにを笑っていたのだ」
「まだわたしが幼き頃、父上が話してくれたことがあったのです」
 宇合は口を開かなかった。
「我ら四兄弟は、首様と安宿媛をお守りし、支える四神だと」
 宇合の顔にかすかな笑みが広がった。
「その四神が諍いをしているのがおかしかったのだな」
「父上の嘆息する顔が浮かびまして」
「父上に睨まれると怖くて小便を漏らしそうになったものだ」
「わたしはそのような記憶はありませんが」
「おまえのことは可愛がっていたからな」
「それにしても、兄上が房前兄上に意見するのははじめてではございませんか」
 麻呂は話を変えた。
「房前兄上は我が強すぎるのだ。武智麻呂兄上はすべてを承知した上で事を進めようとなさっている。内臣だからといって、氏上(うじのかみ)たる武智麻呂兄上に噛みつくのは納得がいかん」
「房前兄上は昔からああですよ」
 宇合がうなずいた。
「大人になってくれればいいものを」
「兄上も藤原の栄華を求めますか」
 麻呂は意外だという思いが顔に表れぬよう気を使った。
「わたしにはやりたいことがあるのだ。それには、力がいる。長屋王が朝堂の主であるかぎり、わたしのやりたいことは永遠にかなわん」
「兄上のやりたいこと......」
 察しはついたが、麻呂は言葉を濁した。
「この国を、唐にも負けぬ強い国にしたいのだ。だが、古きしきたりに縛られていてはいつまで経っても同じままだ」
 遣唐使として唐へ渡り、帰国した後、宇合は変わった。唐という国があいつを変えたのだ――当時、房前が口にした言葉をありありと覚えている。
「しかし兄上、長屋王を退けたとしても、朝堂の主になるのは武智麻呂兄上ですよ。武智麻呂兄上が兄上のお考えに賛同するとお思いですか」
 宇合が首を振った。
「武智麻呂兄上も房前兄上もこの国のことしか知らないのだ。だから、どうでもいいことで諍う」
「どうするおつもりですか。長屋王を退けた後は、武智麻呂兄上や房前兄上を退けるのですか」
「わからん」
 宇合の声はどこか寂しそうだった。
「兄上......」
「自分がなにをどうするのか、皆目見当もつかん。だが、わたしには力が必要だ。だから、武智麻呂兄上と共に長屋王を退ける。まずはそこからだ」
 宇合は唇を噛み、空を見上げた。その体の奥で燃えさかる炎が見えたような気がした。
 武智麻呂も房前も宇合も、その身と心を捧げるに足るなにかを内に秘めている。
 自分にはなにもない。それが悔しくて悲しくて、日々、酒と箏に慰めを見出している。麻呂は宇合から顔を背け、そっと息を漏らした。


 
 即位の儀は無事に終わり、首皇子が玉座に就いた。
 誇らしげに大極殿に座していた新しい天皇の姿が脳裏に焼きついて離れない。
 自分が内臣に任じられたのはこの日のため、いや、新しい天皇の治世のためなのだ。
 そう考えるだけで体の奥が熱くなる。
「内臣様、天皇様がお呼びです」
 安宿媛付きの女官がやって来てそう告げた。
「どちらにいらっしゃる」
「御寝所です。安宿媛様もご一緒でいらっしゃいます」
 房前はうなずき、女官を従えて歩き出した。宮は人の行き来が激しかった。
「内臣様がお見えです」
 寝所に着くと、一緒にやって来た女官が中に声をかけた。静かに戸が開く。
 礼装から着替えた天皇を安宿媛がねぎらっていた。
「失礼いたします」
 房前は一礼した。
「ご苦労であった、内臣。そなたのおかげで即位の儀も無事に済んだ」
 天皇が微笑んだ。
「首様におかれましては、このたび――」
「堅苦しい挨拶はよい」
 房前の言葉は天皇に遮られた。なぜかはわからないが、天皇は気が急いているようだった。
「なにかご用でしょうか」
「まず、座るといい」
 天皇に促され、房前は腰を下ろした。
「実は、昨日、中納言が訪ねてきてな」
「中納言といいますと――」
「そなたの兄だ」
 房前は思わず唇を噛んだ。勝手なことはしないでくれとあれほど念を押したのに、武智麻呂は耳を貸さなかったのだ。
「わたしが玉座に就くのだから、母上の尊称を決めるべきだと申すのだ」
「尊称でございますか」
「そうだ。母上はかわいそうなお方だ。せめて、天皇の母に相応しい尊称を贈ってやらねば。中納言は大夫人がよいのではないかと言っておった」
「令によれば、天皇の母君は皇太夫人と呼ぶ決まりとなっております」
 房前は答えた。天皇の顔が歪んだ。
「わたしの母上であるぞ。令に従っていれば、他の天皇の母と変わらぬことになるではないか」
「恐れながら、議政官たちも、令に反すると異を唱えるかと」
「黙れ」
 天皇の声が低くなった。
「は――」
 房前は平伏した。
「そなたはわたしの勅より令の方が大事だと申すのか」
 天皇が立ち上がった。房前は平伏したまま身を固くした。
「中納言はこう申しておった。母上に大夫人という尊称を贈るとわたしが申せば、多くの臣下たちが異を唱えるであろうとな。それは、母上が不比等の娘だからであろう。令がどうのこうのというのはこじつけにすぎん」
「首様――」
 房前は顔を上げようとしたが、天皇に睨まれて凍りついた。
「わたしの母上はそなたの姉ではないか。なぜそなたまでわたしの想いに異を唱えるのだ。我が意を汲み、そのために力を尽くすのが内臣ではないか」
 しかし、天皇が間違いを犯さぬよう戒めるのも内臣の務めにございます――喉元まで言葉が出かかったが、天皇が歩み寄ってくるのを感じて房前は口を閉じた。
「そなたは母上の弟にして我が妻の兄。わたしはそなたを心から頼りにしているのだ、房前」
「ありがたきお言葉にございます」
「わたしの母上への想いはそなたもよく知っているであろう。力を貸してくれ」
 天皇の手が肩に置かれた。この世に生を受けてから、一度も母の顔を見たことがなく、その手に抱かれたこともない。
 天皇の母親に焦がれる気持ちはよくわかっていた。
 武智麻呂の思い描くとおりに事が進むとは限らない。あの聡明な長屋王のことだ。武智麻呂の企みを見破るだろう。
 自分にそう言い聞かせ、房前は体を起こした。
「おゆるしください、首様。わたしの考えが至りませんでした」
「わかってくれればよいのだ、房前」
 天皇が下がっていく。安宿媛が心配げな顔で房前を見つめていた。
「たとえ、我が意に異を唱える臣下がいたとしても心配するには及ばん。わたしは、即位を機に、長屋王を左大臣に引き立てるつもりだ」
 予想していた言葉だった。天皇は親政を望んでいる。自ら政(まつりごと)に乗り出す前に、長屋王を引き立てて天皇の進む道を整えさせておくつもりなのだ。
 ほら見たことか――武智麻呂の声が耳の奥で谺(こだま)した。
「長屋王様を左大臣にでございますか」
 天皇がうなずいた。その顔に浮かぶ笑みは、自分にできないことはなにもないと確信しているかのようだ。
「すぐに勅を出す」
 天皇が言った。
「かしこまりました」
 房前はまた頭を下げた。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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