Interview著者インタビュー

        * * *

「兄上、聞きましたか」
 宇合が部屋に入ってきた。武智麻呂は筆を置いた。目の前の紙には書きかけの詩が連ねられている。
「なにをだ」
「太上天皇様が房前兄と長屋王を呼びつけたとか」
 宇合にしては珍しく、顔を上気させていた。
「知っている」
 武智麻呂は答えた。
「太上天皇様が房前兄を内臣に任じられたというではありませんか」
「それも聞いている」
「そのように泰然としていていいのですか、兄上。兄上は父上の跡継ぎ。藤原の氏上ですぞ。それなのに、先に参議に任ぜられたのは房前兄。兄上もようやく中納言に任ぜられましたが、その兄上を差し置いて、房前兄が内臣まで兼ねるとは......太上天皇様も天皇様も兄上のことを軽んじておるのです」
「仕方ないではないか。房前もなかなかの男だ。わたしは中納言になったばかりだが、房前は父と共に朝堂に上がり、政を論じていた」
「三千代殿の娘を娶ったからにすぎません。三千代殿が太上天皇様たちに要らぬことを吹き込んでいるのです」
「三千代殿は我らの身内だ。安宿媛は三千代殿の娘でもある。おまえは安宿媛を嫌っているのか」
「そうではありません。しかし、此度のこの仕打ちはあまりに酷すぎます」
「わたしは気にしておらんのだ。おまえも気にするな」
「兄上」
 話せば話すほど、宇合の怒りは増していくようだった。武智麻呂は溜息を漏らした。
「長屋王様も一緒だったのだ。おまえにはその意味がわからぬか」
 宇合が息をのんだ。
「三千代殿なのか、それとも太上天皇様か天皇様の意思なのかはわからぬ。だが、確かなことは、あのお方々が我らの力を削ごうとしているということではないか」
「兄上──」
「房前は実直な男だ。長屋王様共々、天皇家のために力を尽くせと命じられたら、藤原の家より、太上天皇様のお言葉を重んじるだろう。太上天皇様はそこまでお見通しなのだ」
「ならばなおさら──」
「わたしは房前が好きなのだ、宇合。おまえのこと同様、大切な弟だと思うておる。だから、房前を苦しめたくない」
 宇合が口を閉じた。宇合も房前の性格をよく知っている。
「わたしとて、房前兄のことは好きです。しかし、藤原の家の栄華は父上が築き上げたものです。それを思うと歯痒いのです。我らがもう少し早く生まれておればこのような事態にはならなかったものを」
「それは考えてもしかたのないことではないか。わたしとて、父上にはもっと長く生きていてほしかった。だが、もう父上はいない。それが天意と心得て、我ら兄弟で父上の築いたものを守っていかねばならん」
「だというのに、房前兄は──」
「また房前の話に戻るのか」
 武智麻呂は宇合を睨んだ。宇合が怯んだ。
「わたしとて、無為に日々を送っているわけではない。朝堂には父上に恩義を感じている者たちが大勢いるのだ。そうたやすく太上天皇様たちの意のままにはならぬ」
「兄上を信じていないわけではないのです」
「余計なことを考える暇があったら、自分の足下を固めることに専念するがいい。いずれ、そなたも政に加わることになるのだ」
「そういたします」
 宇合が出ていった。
 武智麻呂は書きかけの詩に目をやった。宇合が来る前に頭に浮かんでいた言葉はどこかに消え去っていた。
 
        * * *

 安宿媛は机に向かい、筆を忙しく動かしていた。不比等が好んで使っていた部屋である。
 房前は背後からそっと近づき、紙を覗きこんだ。
 安宿媛が書き写しているのは経だった。
「安宿媛は偉いですな」
 房前が声を発すると、安宿媛の筆が乱れた。
「驚くではありませんか、兄上」
 安宿媛はまなじりを吊り上げた。
「申し訳ない。驚かせるつもりはなかったのです」
「ここは宮ではありません。堅苦しい言葉遣いはおやめくださいませ」
「いずれ、首様の跡継ぎをお産みになるお方に敬意を表しているのです。阿倍(あべ)様はどちらに」
 房前は安宿媛が首皇太子との間にもうけた内親王の名を口にした。
「乳母が世話を焼いております」
「首様のおそばにおられなくてもよろしいのですか」
「宮にこもっていると時折、息が詰まりそうになるのです。わたしは宮より、この家が好きです」
 安宿媛は朗らかに言った。不比等の死後、この屋敷を受け継いだのは安宿媛だった。武智麻呂をはじめとする息子たちはすでに自らの家を構えていたからだ。
 東宮殿から首皇子がやってくるときを除けば、写経に没頭しているらしい。
「兄上こそどうしてここに」
「たまたま近くを通りかかったら、安宿媛様がおいでだと耳にしたのです。久しぶりに妹の顔が見たくなりました」
「嘘ばっかり。聞きましたよ。内臣に任ぜられたこと。そのことで話があるのでしょう」
 房前は苦笑した。この聡明な妹の前では隠し事など通用しない。
「太上天皇様の御命により、臣、藤原房前、首様と安宿媛様をお支えすることになりました」
 安宿媛が笑った。
「相変わらずですね、兄上は」
「おふたりにこの身を捧げる所存です」
 房前は頭を下げた。
「先日、母を訪ねたところ、麻呂兄上がおられました」
「麻呂が三千代殿のところに」
「はい。兄上が内臣に任ぜられたいきさつを知りたかったようでございます。母上ならなにか知っているのではないかと」
「それで、三千代殿はなんと申したのだ」
「母はなにも知らないそうです。出家して宮から離れる身、政にはもう関わりたくはないとおっしゃっておりました」
 房前はうなずいた。安宿媛の言うとおり、三千代は出家の支度をはじめている。おそらく、太上天皇が身罷られたら出家するつもりだろう。持統天皇をはじめとして、代々の天皇に仕え、信頼されてきた。不比等でさえ、あの女人には心を開いたのだ。
 だが、その女傑も不比等を失い、急速に年老いている。表舞台から去りたくなるのも理解はできた。
「麻呂兄上は、宇合兄上が怒っていると申しておりました」
「宇合兄が」
 安宿媛がうなずいた。
「長兄である武智麻呂兄上を差し置いて、房前兄上が内臣になるのはけしからんと」
「そうか」
 房前は拳を握りしめた。宇合は普段はそのような物言いをする男ではない。その宇合が不満を口にするということは、もっと多くの者が房前の内臣就任に不満を抱いているということだ。
「武智麻呂兄はなんと思うているのだろうな」
「麻呂兄上によると、武智麻呂兄上は泰然としているそうです。房前兄上なら相応しいとおっしゃっていたそうですよ。武智麻呂兄上らしいですわ」
「さようですか」
 房前は拳を握っていた手を開いた。幼い頃から武智麻呂の腹の内を読めた試しがなかった。
「首様はお健やかですか」
 房前は話を変えた。
「ええ。とてもお健やかです。日々、学問に勤しんでおいでです。この家で暮らしていたころは、武智麻呂兄上を嫌っていたのに、今では武智麻呂兄上のおかげで学問がはかどるとおっしゃって」
 幼き日の首皇子の教育を受け持っていたのは武智麻呂である。遊びたい盛りの首皇子に、忍耐強く接していた。
「近々、ご挨拶に伺うつもりです。その旨、首様にお伝えください」
「わかりました。首様は兄上のことを信頼なさっておいでですから」
「ありがたきお言葉です」
「わたしに対する言葉遣いを改めないと、房前兄上は内臣には相応しくないと首様に言いますよ」
「安宿媛」
 房前が困惑すると、安宿媛は嬉しそうに笑った。

        * * *

 舎人(とねり)親王と新田部(にいたべ)親王は、庭に目を見張った。
「話には聞いていたが、これほどまでとは......」
 舎人親王が言葉を漏らした。長屋王は薄く笑った。
 貴族たちを集めて漢詩の詠み比べをしたり、新羅(しらぎ)からの使者を招くために佐保(さほ)にこしらえた別邸は凝った作りになっている。皇族とはいえ、このような屋敷を目にしたことはないはずだ。
「舎人様、新田部様、こちらへどうぞ。この部屋からでも庭は眺められます。外の風に当たると体に障りますゆえ」
 長屋王はふたりを部屋に招いた。百済(くだら)から来た匠に作らせた部屋は庭に劣らぬ華美をたたえている。
「しかし、素晴らしい邸だな、長屋王」
 舎人親王が腰を下ろしながら言った。
「ありがたきお言葉です」
「わたしも言葉を失った」
 新田部親王は舎人親王の隣に座った。
「新羅の使者が持ってきた茶と干した果物はいかがですかな」
 長屋王が言うと、侍女たちが茶と菓子を運んできた。ふたりは菓子をつまみ、茶をすすり、呻くように吐息を漏らした。
「それで、こたびは我々にどんな用があるのかな。このような振る舞いをされては、腰が引けてくる」
 舎人親王が長屋王の顔を覗きこんできた。長屋王はその視線を受け止めた。
「舎人様と新田部様にお願いの儀がございます」
「さて、なんであろう」
 新田部親王が首をかしげた。
「奪われたものを取り戻したくはありませんか」
「奪われたもの」
 舎人親王と新田部親王が顔を見合わせた。
「はい。藤原不比等に奪われたもの、我らが皇族の力と権威です」
「右大臣殿が我らからそれを奪ったと申すのか」
「ご存じのはずです」
 長屋王は茶で喉を潤した。舎人親王は知太政官事(ちだじょうかんじ)、新田部親王は知五衛及授刀舎人事(ちごえいおよびじゅとうとねりじ)として、政と軍事の長を務めている。だが、それは名ばかりだ。どちらも不比等がその位に就けた。不比等が死してなお、不比等の息子たちの顔色をうかがっている。
「そなたも存じておろうが、我らふたりは右大臣殿に恩義を受けた」
「それは違いましょう。もともと、知太政官事も知五衛及授刀舎人事も、天皇が任命なさるもの。不比等殿にはいささかの関係もなきこと」
「しかし......」
 新田部親王が顔をしかめた。長屋王は身を乗り出した。
「これは、氷高様のご意向なのです」
「氷高様がそのようなことをおっしゃったと申すのか」
 長屋王はうなずいた。長屋王の妻、吉備内親王は天皇の妹だった。その縁で、天皇は玉座に就く前は長屋王の邸で暮らしていた。
 天皇の言葉として長屋王が口にすれば、それを疑う者はいなかった。
「氷高様は不比等殿のことを嫌っておりました。それはおふたかたもご存じのはず」
 ふたりは渋々といった体でうなずいた。
「不比等殿が死んだ今、息子たちが力をつける前になんとかせよというのが氷高様のお考えにございます」
 長屋王は言葉を切り、ふたりの表情をうかがった。どちらの顔も強ばっていた。
「知太政官事といっても、議政官たちが舎人様のお言葉に素直に耳を貸しますか」
「それは――」
「新田部様の命を衛士たちが直接耳にすることはございますか」
 新田部親王は顔をしかめた。どちらもその地位が飾りにすぎないということは承知しているのだ。
「政を主導したくはありませぬか。皇族として、この国を正したいとは思いませぬか」
「そのようなことができるのか」
 舎人親王が口を開いた。
「できますとも。おふたかたが力を貸してくれさえすれば。我々三人で、太政官(だいじょうかん)を主導するのです。さすれば、臣下たちも昔のように天皇とその眷属にひれ伏すことでしょう」
「不比等に奪われたものを取り戻す、か」
 新田部親王が腕を組んだ。
「軽様はもちろん――」長屋王は文武天皇の名を口にした。「阿閇様も氷高様も、不比等殿の言いなりにございました。天皇の権威がないがしろにされたのです。わたしは、あの方々を見ていると、悲しさと苦しさで胸が潰れそうになります。それは舎人様も新田部様も同じではありませんか。なんとなれば、わたしの父とおふたりは大海人(おおあま)様の御子。尊く誇り高い血筋なのです」
 天武天皇の名を耳にすると、ふたりの背筋が伸びた。世が世であれば、どちらかが玉座に就いてもおかしくはなかったのだ。それを阻んだのは持統天皇と不比等だった。持統天皇は掟を曲げ、古きしきたりをうち捨ててまで、自らの息子、草壁皇子を玉座に就かせようとし、草壁皇子が若くして死ぬと、孫である軽皇子に望みを託した。
 持統天皇の心を利用したのが藤原不比等だ。持統天皇の信用を得、その意を汲み取りながら己の野望を果たしていった。
 結果、天皇と皇族の権威は失墜し、藤原の者たちがまるで天皇と皇族であるかのように振る舞いはじめたのだ。
「我ら三人が手を結べば、武智麻呂や房前、宇合といえどもひれ伏させることができましょうぞ」
「しかし、房前は内臣に任ぜられたではないか。阿閇様はあの者を信頼されておられるのだろう」
 新田部親王が言った。長屋王は微笑んだ。
「あれは藤原の兄弟たちの間に楔を打ち込んだにすぎません。内臣という位を与えながら、その力を奪う。内臣は太政官ではないのです。房前はもはや、政を論じることはありますまい」
「ならば、武智麻呂は太政官に任ぜられて日が浅い。宇合や麻呂に至っては、朝堂に上がるのはまだ先のこと」
 舎人親王が目をぎょろりと動かした。
「我々が政を主導するなら、宇合や麻呂が太政官になることはありますまい。太政官はひとつの家にひとりのみ。不比等が足蹴にしたしきたりを復活させればよいのです」
「敵は武智麻呂ひとりか」
「左様にございます」
「橘三千代はどうなのだ。あの女人は手強いぞ」
「三千代も藤原の家に背を向けまする。あの女には不比等あっての藤原だったのです。不比等亡き今、三千代の思いは安宿媛ひとりに向けられておりましょう」
「このことは、阿閇様もご存じなのだな」
 新田部親王が言った。長屋王は深くうなずいた。
「阿閇様と氷高様は仲睦まじい親子にございます」
「よかろう。長屋王、そなたの願い、聞き入れよう。互いに力を合わせ、不比等に奪われたものを取り戻すのだ」
 舎人親王の目に光が宿った。
「わたしも力を貸そう。父、大海人の血筋とその眷属が政を論じるべきだ。大臣だ大納言だと申しても、いずれも天皇の臣下に過ぎぬではないか」
 新田部親王が拳を握った。
 長屋王は静かに頭を下げた。

        * * *

 不比等の邸は静かだった。家の者たちが穏やかな顔つきで仕事に勤しんでいる。安宿媛が訪れることのないときはいつもこうなのだ。
 宇合は、かつて、自分が寝起きしていた部屋に足を踏み入れた。
 部屋は綺麗に片付けられ、がらんとしていた。
 ここで寝、ここで学問に勤しんだ。教授役を務めてくれたのは武智麻呂と房前だ。武智麻呂は優しく、房前は厳しかった。性格も行いも対照的なふたりの兄のことが好きだった。
 しかし、それも遠い昔の想い出だ。
「兄上、こちらですか」
 声と共に廊下を進んでくる足音がした。宇合は相変わらず子供じみた歩き方だと苦笑した。
 末っ子であるせいか、麻呂はいつまで経っても幼いままだ。
「おまえも来ていたのか」
 宇合は姿を見せた麻呂に声をかけた。
「ええ。なんだか、昔が懐かしくて。まだ、父上がいないのだとは信じられません」
「父上は死んだのだ」宇合は言った。「三千代殿もいずれ出家なさる。これからは、己の力だけを恃(たの)んで生きていかねばならん」
「それは承知しているのですが」
 麻呂の顔が曇った。庇護者を失って途方に暮れているのだ。
「ならよい」
 宇合は再び視線を部屋の中にさまよわせた。
「長屋王が佐保の邸に舎人親王と新田部親王を招いたそうです」
 麻呂が言った。麻呂は昔から宮中の出来事に通じていた。舎人や采女たちを手なずけているからだ。
「ほう」
 宇合は目を麻呂に転じた。
「皇族が主導する政を復活させようとしているのではありませんか」
「そうであろうな」
「長屋王の好きにさせておくのですか」
「武智麻呂兄や房前兄ならともかく、今のわたしにはなんの力もない。長屋王を止めたくても手立てがないのだ」
「なにか手段を講じるよう、兄上から武智麻呂兄に言ってください。わたしの言葉には耳を貸してくれないのです」
 麻呂は幼子が駄々をこねるように身をくねらせた。
「わたしの言葉にだって耳を貸そうとはしないだろう」
「兄上、このままでは、朝堂にわたしたちの席がなくなります。武智麻呂兄や房前兄はすでに座を手に入れていますが、わたしたちはこれからなのですよ」
「焦ったところでなにも変わらんぞ、麻呂。すでに、藤原の家は太政官をふたり、出している。その上、わたしとおまえもということになれば、いかに藤原の家を恐れる者たちといえども黙ってはいないだろう。その時が来るのを待つしかないのだ」
「長屋王の企み通りに行けば、その時などやってきません。武智麻呂兄と房前兄の家だけが栄え、我らは傍流となって忘れられていくのですよ。こんなことなら、家を分けるのではなかった。そう思いませんか」
「思わぬ」
 宇合は吐き捨てるように言った。藤原の世を作るためには、太政官に多くの者を送り込まねばならない。そのために、不比等は息子たちに家を構えさせたのだ。
 政の場に藤原の家の者が増えれば増えるほど、あらゆることが容易になっていく。
 不比等の考えに間違いはない。
 ただ、死ぬのが少しばかり早すぎただけだ。
「兄上は政の場で思う存分腕を振るってみたくはないのですか」
 麻呂の言葉に宇合はうつむいた。
 武智麻呂や房前と政について論じると、いつも苛立ちを覚えるのは確かだった。
 ふたりの兄はこの国のことしか知らない。半島や大陸のことは書物で読むか人づてに聞いたことしかない。
 宇合は遣唐使として唐に渡った。そこで見聞したものは今でも色褪せることがない。
 あの国は強大で多様だった。いろいろな国の者たちが入り乱れ、国を育み、強くしている。
 この国もそうあるべきだ。もっと遠い未来に思いを馳せるべきだ。
 そう訴えても、武智麻呂や房前には通じない。いや、ふたりの兄だけではない。朝堂で政を論じる立場にある者たちの多くがなにもわかってはいないのだ。
 話が通じるのは、同じく唐に渡ったことのある者たちだけだ。そして、彼らは政を論じる立場にない。
 もどかしい。もどかしすぎて気が狂いそうになるときすらある。
 自分の思う国を作りたいのなら、政を主導しなければならない。第一歩は太政官になることだ。参議からはじめ、中納言、大納言、右大臣、左大臣。そうなってはじめて、理想を口にすることができるようになる。
 早く太政官になりたいのは麻呂と同じだ。だが、焦ってはならぬこともわかっている。
「長屋王の企みが頓挫して、いずれ、わたしたちが太政官になる日が来るやもしれません。しかし、兄上、そのときには武智麻呂兄や房前兄はずっと先を歩んでいるのですよ。早く太政官にならなければ、わたしたちは兄上たちに永遠に追いつけません」
 麻呂は唇を噛んだ。
「それはどうかな」
 宇合は言った。
「どういう意味ですか、兄上」
「わたしには唐で得た知識がある。そなたは宮中のことをお見通しではないか。我々にも兄上たちに劣らぬ力があるのだ。時が来れば、兄上たちを追い越すことも夢ではない」
「本気でそう考えておられるのですか」
 宇合はうなずいた。家を構えたときに、兄弟としての縁も断ち切ったのだ。同じ一族とはいえ、なによりも大切なのは家の繁栄だ。時には兄たちと敵対することもあるだろう。その覚悟はとうにできていた。
「麻呂よ、そなたもそろそろ覚悟を決めるときぞ」
「覚悟ですか」
「武智麻呂兄や房前兄と、いや、このわたしとも刃を交わす覚悟だ」
 麻呂の顔から血の気が引いた。
「父上は、わたしたち兄弟は四神なのだとおっしゃりました」
「四神だと」
「はい。青龍、白虎、朱雀、玄武。四神として首様と安宿媛をお守りし、支えていくのだと。それが藤原の家のためだと仰せでした」
 麻呂の真剣な目つきに、宇合は頬を緩めた。
「首様が玉座に就かれ、安宿媛が皇子を生めばよいのだがな。さすれば、我らが四神たる意味はある」
「皇子が生まれなかったときにはどうなります」
「さてな。そうならぬことを祈るほかはあるまい」
 麻呂が溜息を漏らした。
「兄上と話しているとき、風と話しているように感じることがあります」
「風か」宇合は笑った。「では、武智麻呂兄はなんだ」
「水です」
「房前兄は」
「火です」
「では、麻呂。そなたは土だな」
「土ですか」
「この世のすべてを支えておるのは土だ。そなたはそのような者になるとよい」
 家の中が急に慌ただしくなった。
 安宿媛がやって来たのだろう。写経をして、宮中で積もった疲れを取り払うつもりなのだ。
「安宿媛が来たな」
 宇合は言った。
「安宿媛はなんでしょう」
 麻呂が訊いてきた。
「月だ」宇合は答えた。「日輪たる首様を支え、我らが行く暗く細き道を照らしてくださる満月だ」
「なるほど。月ですか」
「長屋王の企みも、そなたの焦りも、いずれ、首様と安宿媛が打ち砕いてくれるだろう。そのために父上はあのふたりを一緒に育てたのだ」
「父上は恐ろしい人です」
「我らも父上のようにならねば。四神なのだからな」
 宇合は笑った。
「あら。兄上がいらしているのかしら」
 安宿媛の声が響いた。いつ聞いても愛くるしく、優しい声だった。
「安宿媛様。わたしたちはここです」
 安宿媛の声を聞いて、麻呂の顔にも微笑みが浮かんでいた。

「首様、房前が参りました」
 房前は戸の前で声を張り上げた。
「入るがよい」
 首皇子のよく通る声が響き、戸が静かに開いた。房前は一礼し、部屋に足を踏み入れた。
 首皇子はきらびやかな敷物の上に腰を下ろしている。その隣にいるのは安宿媛だった。
「失礼いたします、首様。内臣、藤原房前にございます」
 平伏する。
「頭を上げよ、叔父上」
 顔を上げると、首皇子の目が房前を射貫いた。気概に満ちた目だった。とうに玉座に就いていておかしくはない年だが、首皇子は不比等の孫であり、房前たちの甥に当たった。
 首皇子が天皇になれば、さらに藤原の力が強まると警戒する者たちがいるのだ。
「こたびは、太上天皇様の命により、内臣として首様を支える任につきました。なにとぞ、よろしくお願いいたします」
「堅苦しい挨拶はよい。内臣がどうのこうのと言う前に、叔父上たちは常に余を支えてくれてきたではないか」
「ありがたきお言葉に存じます」
 房前は再び平伏した。
「兄上、ここには采女しかおりませんよ」
 安宿媛が口を開いた。
「しかし、皇太子様と臣下の分はわきまえねば」
 房前は頭を上げた。
「不比等のことは誠に残念だ。しかし、余には叔父上たちがいる。なにも心配はあるまい」
 首皇子は安宿媛に微笑みかけた。首皇子が安宿媛を慈しんでいる姿は房前の心をほんのりと温めた。
「首様、今後はなんなりとわたしに御命じくださいませ。首様のため、誠心誠意尽くしますゆえ」
「それなのだがな、房前。ひとつ、恃みたい儀がある」
「なんでございましょう」
「玉座に就いた後は、余は自ら政を執り行いたいのだ」
 房前は息を呑んだ。
「不比等が余を玉座に就けるためにどれほどのことをしてくれたかはよくわかっている。それでも、余は天皇として成すべきことをしたい。今は太政官たちが取り仕切っている政を、余、自らが主導するのだ」
 房前は唇を一文字に結んで首皇子の挑むような視線を受け止めた。

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