四神の旗第一回

 父、不比等(ふひと)への誄(しのびごと)を聞きながら、藤原麻呂(ふじわらのまろ)の心は幼き日へと飛んでいた。
 麻呂は不比等の傍らに座っている。不比等は上機嫌に微笑んでいた。不比等のそんな笑顔を見るのはまれだった。
「見るがよい、麻呂よ」
 不比等が言った。不比等の視線の先では首皇子(おびとのみこ)と安宿媛(あすかべひめ)が戯れている。
 首皇子の生母であり、麻呂の異母姉である宮子(みやこ)が、産後、気の塞がる病に冒された。そのため、首皇子は不比等の家で養育されている。
 妹の安宿媛は首皇子と同い年。ふたりはたいそう仲がよかった。
「はい、父上」
 麻呂は答えた。不比等のそばにいると、いつも心が堅くなる。
 麻呂は不比等が怖かった。
「あの仲睦まじい様が、いつまでも続けばと吾は思っているのだ」
 不比等が言った。麻呂はただうなずいた。
「いずれ、首様は天皇になられる。そして、安宿媛は皇后になるのだ」
「しかし、父上。安宿媛は我らが藤原の娘。皇家の血が流れておらぬ者は皇后にはなれませぬ」
 麻呂は恐れながら口を開いた。
「それはただのしきたりだ。しきたりは、いずれ新たなしきたりに取って代わられる。吾がやっているのは、そのための準備ぞ、麻呂よ」
「準備ですか」
「そなたたち兄弟にそれぞれ家を持たせたのも、そのひとつだ。今のしきたりでは、参議として政(まつりごと)に与することができるのはひとつの家門にひとりだけ。しかし、いずれ、そなたたち兄弟すべてが政の中心に立つようになるであろう。それが新しいしきたりだ」
 麻呂は再びうなずいた。
「そなたたち兄弟が政を動かすのであれば、安宿媛が皇后になることもたやすい。そして、藤原の娘が皇后になるという新しいしきたりをそなたたちが作るのだ」
「そのようなことができますでしょうか」
「できるとも」
 不比等は居住まいを正した。
「首様が玉座につかれるとき、大極殿(だいごくでん)の南には四神の旗が立てられる。四神とはすなわち、そなたら兄弟だ。青龍、白虎、朱雀、玄武。そなたたち兄弟が力を合わせ、藤原家のための新しきしきたりを作るのだ」
「武智麻呂(むちまろ)兄や房前(ふささき)兄ならそれもできましょう。宇合(うまかい)兄もです。しかし、わたしなどにそのようなことができるとはとても思えません」
 麻呂は言った。上の三人の兄とは母も違う。自分があの三人の力になる日が来るとは到底思えなかった。
「武智麻呂も房前も宇合も、吾の息子ではあるが、吾ではない」
 不比等が言った。その目は、変わらず首皇子と安宿媛を見据えている。
「武智麻呂も房前も、ひとりではなにもできまい。なにかをやろうとしても、長屋王(ながやのおう)がそれを阻むであろう。だが、四人が力を合わせれば、長屋王とて敵ではない──」
 長屋王の名で麻呂は我に返った。誄を読み上げているのはその長屋王である。
 麻呂は右に目をやった。麻呂の隣から順に、宇合、房前、武智麻呂が座っている。
 武智麻呂の顔には表情というものがなかった。房前は悲しみを押し殺している。宇合の顔は掴み所がなかった。
「父上、それにしても早すぎます」
 麻呂は兄たちから顔を背け、そっと独りごちた。

        * * *

「不比等が死んだ」
 太上天皇(たいじょうてんのう)が言った。
「死にましたね」
 天皇が言った。
 橘三千代(たちばなのみちよ)は頭を下げた。
「そなたも辛かろう」
「ありがたきお言葉に存じます、阿閇(あへ)様」
 三千代は太上天皇に言った。
「葬儀は大変であったろう」
「不比等の息子たちがすべて取り仕切ってくれましたゆえ、わたくしはなにもしておりませぬ、氷高(ひだか)様」
「そうか」
 天皇は冷めた声を出した。不比等のことが好きではなかったのだ。
「出家すると耳にしたが」
 太上天皇の顔が曇った。
「はい。そのつもりでおりまする」
 三千代は長い時を代々の天皇のそばで過ごしてきた。県犬養(あがたのいぬかい)の家の期待を一身に背負い、後ろを振り返ることなく歩き続けてきたのだ。不比等が死んだ今、体にも心にも澱(おり)のような疲れが溜まっている。
「不比等が死に、そなたが宮からいなくなったら、我らはどうすればよいのだ」
「不比等の息子たちがおりまする。彼らを頼りにされてはいかがでしょう」
「それはならぬ」
 天皇が眉を吊り上げた。
「これ、氷高」
「母上、軽(かる)と首のためにあの者が力を尽くしてくれたことは知っております。そのために、我ら親子は座りたくもない玉座に座らされ、あの者の思うがままに政を進めさせてきました。わたしはもう、嫌なのでございます」
 太上天皇の顔は曇ったままだった。若くして身罷(みまか)られた文武(もんむ)天皇に思いを馳せているのかもしれない。
「ならばどうするというのだ。我らだけで政をするというのか?」
「長屋王に任せてはと思っております。あの者は不比等やその息子らとは違って我らの身内。自らのためではなく、我らと首のために死に物狂いで働きましょう」
「長屋王だけを取り立てれば、他の者どもが黙ってはおるまい。それに、不比等の息子たちは三千代の身内でもあるのだぞ」
 太上天皇が視線を投げかけてきた。三千代は再び頭を下げた。
「三千代の身内といえるのは安宿媛だけにございますよ、母上」
「房前は三千代の娘婿(むすめむこ)ぞ」
「そうである前に不比等の息子にございます」
 天皇は苦々しげに言った。
「三千代に失礼であろう。夫を亡くしたばかりなのだぞ」
「すまなかったな、三千代。しかし、これがわたしの本心なのだ。藤原の者たちを政から遠ざけたい」
「ありがたきお言葉。されど、氷高様の御心をおかなえするには時間が必要かと存じます」
「時間だと?」
 三千代はうなずいた。
「不比等は朝堂に己の力を蜘蛛の巣のように張り巡らせておりました。不比等によって引き立てられた者たちは、不比等に忠誠を誓っておりましょう。その忠誠は武智麻呂たちにも向けられております。氷高様が長屋王様に政を託したくても、それに異を唱える者どもがあちこちから現れましょう」
「なんと無礼な」
「おゆるしくださいませ。されど、それが今の朝堂なのでございます。不比等の力はそれまで大きくございました」
「では、どうせよと申すのだ」
「長屋王様と同様に武智麻呂たちも取り立てておやりになるのです。そうしながら、武智麻呂たち兄弟の間にひびを入れてやれば......いずれ、あの者たちは自ら瓦解していくでしょう」
「その手立てはあるのか?」
 太上天皇が身を乗り出してきた。
「わたくしに考えがございます」
「しかし、そなたは不比等の妻ではないか。それでかまわぬのか」
 太上天皇の言葉に、三千代は微笑んだ。
「わたくしの望みは、天皇となられた首様の傍らに、常に安宿媛がおることにございます」
 安宿媛が天皇の后になれば、三千代が美努王(みぬおう)との間にもうけた息子たちも引き立てられるだろう。県犬養の家の者どもの前に道が開ける。
 そのためにも、武智麻呂や房前の力を少しでも削いでおかなければならない。
 最後にもう一働きする必要があった。
「そなたの考えを申してみよ」
 天皇が言った。三千代はもう一度頭を下げた。

 太上天皇の御寝所へと向かう廊下を、藤原房前は長屋王と肩を並べて歩いていた。
「阿閇様のお体の具合はどうなのでしょう」
 房前は長屋王に問うた。
「あまり芳しくないと聞いております」
 長屋王が答えた。
「氷高様だけでは心許ない。首様が玉座に就かれるその時まで、阿閇様には無事でいてもらわねば」
「天意には逆らえませんぞ、房前殿」
 長屋王は涼しい顔をしている。いつもそうなのだ。どんな時でも動ぜず、泰然としている。
 あのお方は吾に倣(なら)ったのだ──生前、不比等は長屋王を指してそう言ったことがある。
 房前は己の感情を殺すことが苦手だった。その意味では不比等には似ていない。
 似ているのは長兄の武智麻呂。そして、不比等の婿であるこの長屋王だった。
 御寝所に着くと、采女(うねめ)が戸を開けた。
「入るがよい」
 奥から太上天皇の弱々しい声が流れてきた。房前は長屋王と顔を見合わせ、御寝所に足を踏み入れた。
「失礼いたします」
 太上天皇は床に伏せっていた。房前は鼻をうごめかせた。部屋に立ちこめている匂いに覚えがある。不比等が病に倒れたときに立ちこめていた香りと同じだ。人を死へと誘う、枯れたもの悲しい香りだった。
「近うよれ」
 太上天皇は采女の手を借りて体を起こした。白い衣に包まれた体は細い。太上天皇は見る影もなくやつれていた。
「お体の方はいかがなのですか」
 房前は挨拶をすませてから訊いた。
「もう長くはないのであろう」
「そのような──」
「よいのだ、房前。わたしは十分に生きた。今死んだとしても、天を呪おうとは思わぬ」
「阿閇様──」
 言葉を続けようとする房前を、隣の長屋王が諫(いさ)めた。
「天を呪いはせぬが、ひとつだけ、心残りがある」
 太上天皇は口を閉じ、房前と長屋王を見つめた。
「首様のことでございますね」
 長屋王が言った。
「首はまだ幼い。氷高はあの通りだ。不比等はすでになく、わたしがいなくなった後のことを考えると空恐ろしい」
 太上天皇は溜息を漏らした。
「長生きなさればよいのです」房前は言った。「首様のためにも、病を治して生きるのです」
「もう長くはないと申したであろう、房前よ」
 房前は太上天皇の言葉に頭を垂れた。
「なぜわたしどもをお呼びになられたのですか」
 長屋王が口を開いた。
「そなたたちに首を託したいのだ」
 房前は長屋王と顔を見合わせた。
「長屋王はすでに右大臣である。朝堂を率い、よき政を行っていくであろう」
「もったいなきお言葉」
 長屋王が頭を下げた。
「房前よ、わたしはそなたを内臣(うちつおみ)に任じようと思うておる。長屋王は政に忙しいゆえ、そなたが、内臣として氷高と首に寄り添うのだ」
「わたしはまだ若輩者。そのようなお役目なら、我が兄武智麻呂こそふさわしいかと。武智麻呂は首様の養育にも関わっておりましたゆえ──」
「そなたでなければならぬのだ、房前」
 太上天皇の声が房前の言葉を遮った。
「藤原の氏上(うじのかみ)である武智麻呂を内臣に任ずれば、藤原の家に不満のある者たちが反発しよう。すでに、そなたは参議、武智麻呂は中納言。藤原の家からふたりも議政官が出ておるのだ。中納言である武智麻呂が内臣にもなるとなれば──」
 太上天皇は言葉を切った。
「不比等殿がそなたたち兄弟にそれぞれ家を持たせたのには意味がある」
 長屋王が言った。
「いずれ、宇合殿も麻呂殿も議政官に任ぜられるだろう。それに表だって口出しする者もおるまい。しかし、だからといって、中納言と内臣をひとりの身で兼ねるというのは無理がある」
 房前はうなずいた。
「右大臣長屋王と共に、内臣として首を支えるのだ、房前。死にゆく者の願いを、どうか、聞き入れてはくれまいか」
「もったいなきお言葉に存じます。臣、藤原房前、阿閇様のお言葉に従い、首様に忠誠を誓いまする」
「よう言うてくれた、房前。これで安心して死ぬことができる」
 白かった太上天皇の顔に、かすかに朱が差した。心の底から首皇子の将来を案じているのだ。
「長屋王、そなたにも頼むぞ」
「はい。天皇家の血を引く者として、この身を阿閇様、氷高様、首様に捧げます」
 長屋王は相変わらず涼やかな顔をしていた。

        * * *

「これでよかったのか」
 三千代が奥の部屋から御寝所に移ると、太上天皇が言った。咳が絶えず、采女が背中をさすっている。
 三千代は采女に替わり、太上天皇の背中を優しくさすった。
「はい。見事でございました」
「しかし、房前はどうするであろう。あれも不比等の息子だ」
「それも太上天皇ともあろうお方が、死を前にして自分をたぶらかすとは、房前は思いもしませんでしょう。あれは、真っ直ぐな人間なのです。これが武智麻呂なら、太上天皇様のお言葉といえども素直には受け止めないでしょうが」
「少し、心が痛むのだ、三千代。房前は曇りひとつない目でわたしを見つめてくるのだ」
「それが房前のよいところです。不比等が武智麻呂より先に参議に引き上げたのは、房前のそうしたところが不安だったからに違いありませぬ」
 太上天皇の咳が治まった。三千代は背中をさするのをやめ、肩を揉んだ。
「そなたに肩を揉まれると、凝りがいつの間にか消えていく。本当に出家してしまうのか」
「はい。出家して、阿閇様のために経典を唱える日々を送るつもりにございます」
「寂しくなる」
「時は流れるのです、阿閇様」
 太上天皇がうなずいた。
「武智麻呂はどうでるかの」
「すでに、房前が内臣に任じられたことはあの者の耳に入っておりましょう」
「我らの企みに気づくか」
 三千代はうなずいた。
「あの者は、不比等の血をだれよりも濃く受け継いでおりますゆえ」
「長屋王は武智麻呂を抑えられるか」
 三千代はまたうなずいた。
「長屋王様もまた、不比等を間近で見ておりました。聡明さでも、政を行う力でも、武智麻呂にひけはとりません。あのお方には、武智麻呂にはない強みもありますし」
「強みとはなんだ」
「その体に流れる高貴な血でございます。天皇家に連なるお方々は、みな、長屋王様の元に集うことでしょう」
「もうよい、三千代。わたしは疲れた。しばし眠る」
「はい。わたくしはこれで失礼いたします」
「出家しても、折を見ては顔を出しておくれ」
「そういたします」
 三千代は太上天皇に深く頭を下げ、御寝所を離れた。
 廊下に長屋王がいた。
「やはり、三千代殿のお知恵でしたか」
「なんのお話でございましょうか」
 長屋王が笑った。
「わたしは不比等殿が奪っていった皇族の力を取り戻そうと思っております」
 三千代は一礼し、長屋王の傍らを通り抜けた。
「お力添えいただけるのであれば、わたしは生涯、県犬養の一族のことを忘れはしないでしょう」
 三千代は唇を噛んだ。長屋王も考え違いをしている。この国を統(す)べるのは皇族でも貴族でもない。
 天皇だ。
 その天皇を陰に日向に支える安宿媛こそ、県犬養の家にとっての光だった。
 不比等によって、藤原の一族は比類なき家門となった。
 死した不比等は太政大臣を贈られたのだ。武智麻呂や房前はもちろん、彼らの子孫はみな、他の家門の者たちより上位の階位で朝堂に上がり、だれよりも早く出世する。
 藤原の牙城が崩れることはそうはあるまい。だが、県犬養は力のない豪族に過ぎない。元明(げんめい)天皇から姓を賜ったとはいえ、橘という家門もできたばかりだ。
 不比等とともに苦難の道を歩んできたのは、県犬養の期待を背負っていたからでもある。
 不比等の死は辛く、悲しいが、幸い、武智麻呂も房前も宇合もまだ若い。麻呂に至ってはほんの子供といってもよい。
 上の三兄弟が本当の力をつける前に、できる限りの手を打っておかねばならない。
 三千代は力強い足取りで廊下を進んだ。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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