四神の旗第十三回

        * * *

 長屋王(ながやのおう)の姿はなかった。
 皇子の立太子を祝う諸司百官を率いてきたのは大納言(だいなごん)の多治比池守(たじひのいけもり)だった。
 議政官たちの顔色がすぐれないのは天皇の怒りを思ってのことだろう。
 長屋王は自分で自分の首を絞めている。
 武智麻呂(むちまろ)は笑い出したいのをこらえ、澄ました顔で儀式に臨んだ。
 皇太子となった基皇子は乳母(うば)に抱かれ、眠っている。息子の晴れの日だというのに、その横に座る安宿媛(あすかべひめ)の表情は暗く沈んでいた。
 祝賀の儀がつつがなく終わると、百官たちはまた、多治比池守に率いられて帰っていった。武智麻呂はその場に残った。
「朝堂へは戻られないのですか」
 邸の中へ戻ろうとしていた安宿媛が武智麻呂に気づいて立ち止まった。
「安宿媛様のご様子がすぐれないようなので心配になりまして」
 安宿媛が溜息を漏らした。
「兄上、お時間があるのなら、わたしの部屋へおいでください」
「時間など、いくらでもありますとも」
 武智麻呂はうなずき、安宿媛の後を追って邸の中に入った。
 不比等(ふひと)が生きている間は幾度となく訪れた邸だが、いつも武智麻呂にはよそよそしく感じられた。
 ここは不比等と三千代(みちよ)、そして安宿媛の邸であって、自分の居場所は他にある。
 幼い武智麻呂は常にそう感じていた。
「基様の晴れの日だというのいかがなされたのですか」
 安宿媛の居室に着くと、座る間もなく武智麻呂は口を開いた。
「左大臣の姿が見えませんでした」
 安宿媛の声は、怒りと悲しみの間で揺れているかのようだった。
「基様の立太子が不満なのです。これまでのしきたりに反しますからね」
「けれど、基の立太子は太政官(だいじょうかん)でも話し合われて決まったこと」
「そのとおりです。左大臣は間違っています」
「首(おびと)様が機嫌を損ねます」
「それを承知でなお、祝賀の儀に参加しなかったのです。不遜(ふそん)も甚だしい」
 武智麻呂は吐き捨てるように言った。
「これからなにが起こるのですか、兄上」
 安宿媛が真摯(しんし)な眼差しを向けてきた。
「なにも起こりません。皇子様は健やかに成長なされ、安宿媛様は首様と皇子様に愛され、慈しまれ、今よりさらに幸せにお過ごしになる。それだけです」
「わたしは怖いのです」
「なにも怖いことなどありません」
 武智麻呂は語気を強めた。
「女官たちが噂しているのを耳にしたのです。だれかが皇子に呪いをかけるかもしれないと」
「だれがそのような恐ろしいことをするというのです」
「長屋王様が......」
「馬鹿馬鹿しい」
 武智麻呂は安宿媛の不安を一笑に付した。
「そうでしょうか。皇子がいなくなれば、もしかするとあの方が次の玉座に就くかもしれないのですよ」
「あの方には無理です」
「ですが――」
「この兄が約束します」武智麻呂は安宿媛の方に身を乗り出した。「御仏(みほとけ)への信仰がだれよりも篤(あつ)い安宿媛様が母なのです。皇子様に呪いをかけることなどだれにもできません。そして、万一皇子様になにかが起きたとしても、長屋王とその眷属(けんぞく)が玉座を手にすることなどありません。わたしと弟たちで阻止します」
「わかりました。兄上の言葉を信じます」
 安宿媛は潤んだ目を武智麻呂に向けた。武智麻呂は微笑み、その眼差しを受け止めた。

        * * *

 式部省(しきぶしょう)に乱雑な足音が響いた。
 宇合(うまかい)は読んでいた書物を閉じた。こんな足音を立てるのは小野牛養(おののうしかい)らに違いなかった。
「式部卿(しきぶきょう)殿、噂は耳にしましたか」
 案の定、小野牛養を筆頭に、大野東人(おおののあずまびと)、中臣広見(なかとみのひろみ)、高橋安麻呂(たかはしのやすまろ)の四人が姿を見せた。
「噂とはどの噂だ」
 宇合は四人に座るよう促した。
「左大臣が皇子に呪いをかけるという噂です」
 大野東人が眦(まなじり)を吊り上げて言った。
「くだらぬ」
「しかし、あの男は皇太子への拝謁(はいえつ)を拒否したのですぞ。謀反の心があるに違いない。ならば、呪いをかけるぐらいのことは平気でやるでしょう」
「中納言(ちゅうなごん)や内臣(うちつおみ)はなにをしているのですか。左大臣を討つべきではありませんか」
 中臣広見が口を開いた。
 宇合は四人の顔を順番に見回した。目が血走っている。比較的落ち着いているのは小野牛養だけだ。
 この四人が特別なのではない。長屋王の政(まつりごと)に鬱屈(うっくつ)した思いを溜めている官吏(かんり)は多かった。
「そなたらは左大臣の首(しるし)を挙げたいのか」
 四人がうなずいた。
「しかし、長屋王を左大臣に据えたのは天皇だぞ。左大臣を誅(ちゅう)するということは、天皇の意に反するということではないか。それこそ謀反ではないのか」
「それは――」
 高橋安麻呂が言葉を詰まらせた。
「いつも、焦るなと言っているではないか。政では事を急ぐのは禁物だ。時機を待つ。それが最善の策なのだ」
「戦では勝機を逃せば負けることになります」
 小野牛養が言った。
「これは政だ。戦ではない」
「政は剣を持たない戦だと耳にしたことがあります」
 小野牛養は食い下がってきた。宇合は微笑んだ。
「そのとおり。だが、剣を持たないがゆえ、同じ戦でも戦い方が違うのだ」
「そのような戦、わたしの性には合いませんな」
 大野東人が唇を尖らせた。
「性に合っても合わなくても、やらねばならぬことがある。それが待つことだ」
 宇合は腰を上げた。
「すまないが、用事がある。この話の続きは後ほど」
「どちらへ参られるのですか」
 小野牛養が訊いてきた。
「そなたらの嫌いな左大臣のところだ」
 顔を見合わせる四人をその場に残して、宇合は式部省を後にした。 
 長屋王の曹司(ぞうし)の前で名を告げると、すぐに中へ通された。
「お待ちしておりました」
 長屋王が笑顔で待っていた。
「わたしになんの用でしょう」
 宇合は長屋王の向かいに腰を下ろした。
「みなが訊くことを、あなたは訊かないのですね」
「なぜ皇太子様への拝謁を率いなかったのか、ですか。答えがわかっていることを訊いてもしょうがないではありませんか」
 宇合の言葉に長屋王がうなずいた。
「しかし、後先のことを考えるべきだったとは思います」
「わたしもそれは考えたのです。しかし、ゆるせなかった」
「天皇の御心ですよ。それをゆるせないとなると、左大臣の座を返上するしかないのではありませんか」
 長屋王が首を振った。
「この座にいて、天皇の間違いを正し、王道を歩ませる。それがわたしの務めだと思っているのです」
「自分が退けば、その後を継ぐのは中納言だと思っているのですね」
 宇合は苦笑した。
「多治比池守は大納言ですが、武智麻呂殿の敵ではない。わたしがいなくなった後の太政官を主導するのは間違いなく武智麻呂殿になるでしょう」
「それのなにがいけないのです」
「武智麻呂殿は不比等殿とは違う道を歩もうとしておられる」
 宇合は溜息を押し殺した。
 窮地に陥ってもなお、我を捨てることができない。それが長屋王の弱みだった。誇りが高すぎるのだ。
「首様はたいそうお怒りの様子です」
「いずれ、わたしの気持ちをご理解してくれるでしょう」
「だとよいのですが」
「今日は、式部卿殿に提案があってお呼びいたしました」
 宇合は長屋王が言葉を続けるのを待った。
「武智麻呂殿が手なずけている者たちの名を知りたいのです。協力していただけませんか」
「協力すれば、わたしはなにを手に入れられるのですか」
「太政官の座です」
 長屋王はこともなげに言った。
「わたしは太政官から武智麻呂殿を追い出すつもりです。その後釜にあなたを推す。だれも異を唱えたりはしないでしょう」
「それではだめです」
 宇合の言葉に長屋王が目を瞠(みは)った。
「参議として太政官に座を得たところで、できることはたかがしれています。わたしを大納言、いえ、右大臣にしていただけませんか」
「他の者たちを飛び越えて、それは無理というものです」
「身内を敵に回すのですよ。それぐらいの見返りがないと承諾しかねます」
 長屋王が腕を組んだ。
「もし、あなたを右大臣にと約束したら、本当に協力してくれるのですね」
「以前、話したように、わたしには夢があるのです」
「その夢を叶えるためなら、実の兄を敵にしてもいいと......」
「後は、左大臣、あなた次第です」
「いいでしょう。約束します。事が成った暁(あかつき)には、わたしの力で式部卿を右大臣に押し上げましょう」
 宇合はこみ上げてくる笑いの発作(ほっさ)を辛うじて抑えこんだ。
 政に誠意を求めてはいけない。それはわかっているが、こうもあからさまに嘘をつかれては笑わずにいられない。
「よろしくお願いいたします」
 宇合は頭を下げた。
 今このとき、あなたの命運は決まったのですよ、長屋王様――頭に浮かんだ言葉は、口には出さなかった。

        * * *

 小刀で木簡(もっかん)を削る音が耳から離れない。
 紙は高価なので、階位の低い官吏たちは木簡に文字を書き込む。木簡が用を果たせば、その表面を小刀で削ってまた新たな文字を書き込んでいく。
 京職(きょうしき)の曹司では、いつもだれかが木簡を削っていた。
 その音が耳にこびりついて離れないのだ。
 麻呂(まろ)は溜息を漏らした。退屈極まりない。ここ数日、葛城王(かつらぎおう)は姿を見せないし、長屋王の佐保(さほ)の邸もひっそりとしている。安宿媛と皇子の顔を見に行きたいと思っても、いまだ、訪れる者が絶えないという。
「首様はまた行幸(ぎょうこう)に出向かれないか。皇子が生まれたばかりだ。あり得ないか」
 麻呂は独りごち、また溜息を漏らす。
「京職大夫様、お客様がお見えです」
 部屋の外から使部の声がした。
「葛城王か」
 麻呂は相好を崩した。
「式部卿様にございます」
「兄上が......お通ししろ」
 すぐに戸が開き、宇合が姿を現した。手に、酒の入った器を下げている。
「これはまた、どうしたのですか、兄上」
「たまにはおまえと酒を飲みたくなることもある。邪魔か」
「そんなことはありません。暇を持て余していたところです」
 麻呂は使部に酒肴(しゅこう)の支度を命じた。運ばれてきた盃に酒を注ぐ。宇合が口をつけるのを待って、麻呂も酒を飲んだ。
「どういう風の吹き回しですか」
「わたしは自分の進む道を決めたのだ。おまえはどうするのか、酒を飲みながら語り合いたいと思ってな」
「どのような道ですか」
 麻呂は訊いた。宇合は酒を口に含み、麻呂を見た。
「わたしは武智麻呂兄上に従おうと思う」
 麻呂は目を瞬いた。
「夢を諦めるのですか」
 以前に聞いたことがある。宇合には秘めた夢がある。その夢を実現させるために我が道を歩みたい。
「左大臣が、力を貸してくれるなら右大臣の座を与えてくれると言った」
「左大臣がですか。それはつまり、武智麻呂兄上を裏切って左大臣につけと」
 宇合がうなずいた。
「口先だけのでまかせだ。仮に、武智麻呂兄上が朝堂を追い出されたとして、その後釜に同じ藤原(ふじわら)の者を入れるはずがない。窮地から脱したいばかりに、平気で嘘をついたのだ」
 麻呂は黙って酒を飲み干した。空になった盃に新たな酒を注ぐ。
 喉が渇いて仕方がなかった。
「長屋王は信用が置けない。武智麻呂兄上とて、全幅の信頼を寄せるというわけにはいかないが、同じく信用できないのなら、血を分けた兄の方がまだましというものだろう。違うか」
「兄上がそう決めたのなら、わたしにはなにも言うべき言葉はありません」
「武智麻呂兄上がいる限り、わたしが太政官を主導することはない。つまり、わたしの夢はかなわぬということだ。だからといって、武智麻呂兄上を裏切ることもできぬ」
「その気持ちはわかります」
 宇合は涼しい顔をしているが、長い時をかけて決断を下したのだろう。
「わたしの夢は、わたしの子供たちに託すことにしたのだ」
「子供たちですか......それがいいかもしれません。さあ、兄上、酒が進んでいませんよ。わたしと話をするなら、飲まねば」
 宇合は舐めるように酒を飲んだ。
「わたしが協力を断れば、長屋王はおまえにも同じようなことを言ってくるだろう」
「すでに、何度か匂わされてはいますよ」
 麻呂は答えた。宇合が眉を吊り上げた。
「そうなのか」
「あのお方は以前から、我ら兄弟の絆を断ち切ろうと考えておられたようです」
「それで、おまえはどうするつもりだ」
 麻呂は答える代わりに、宇合の盃に酒を注いだ。そのときを待っていたというように、家人たちが酒肴を載せた膳を運んできた。
 家人たちが去るのを待って、麻呂は口を開いた。
「いろいろ思案したのですが、どうも、わたしにはやりたいことがないようなのです」
 麻呂の言葉に宇合が苦笑した。
「おまえらしい。酒と箏(そう)があれば、それで十分か」
「ただひとつ、望みがあるとすれば、安宿媛がいつも笑顔でいられるよう、心を砕いてやりたいということです。長屋王についたのでは、それはかなわないでしょう。ですから、わたしの答えは自ずと決まっているのです。兄上と同じですよ」
「武智麻呂兄上に従うか」
 麻呂はうなずいた。
「すでに、房前(ふささき)兄上の心は武智麻呂兄上から離れてしまっているのです。せめて我らぐらいは、武智麻呂兄上と同じ道を歩もうではありませんか」
「房前兄上か......」
 宇合の顔が曇った。
「困った兄だが、悪い兄ではない」
「だから困るのです」
「いずれ、武智麻呂兄上は左大臣と事を構えることになるだろう。そのとき、房前兄上は必ず止めようとするはずだ」
 麻呂はうなずいた。房前はそういう男なのだ。
「そのときは、房前兄上にはすべてを伏せておいた方がいいかと思います」
「気が合うな。わたしもそれがいいと思っていたのだ」
「兄弟ですから」
「房前兄上は深く傷つくだろう」
「仕方ありません。それもまた、房前兄上が自ら選んで歩いた道の行く先なのですから」
「ときに、房前兄上が羨ましくて仕方がなくなるときがある」
「わたしもありますよ。房前兄上は我ら四兄弟の中で、だれよりも自由に生きておりますからね」
「だから、ときに憎くてたまらなくもなるのだ」
 麻呂はうなずいた。
「房前兄上はそういう人です」
「父上がここにおられたらなんと言うだろうか」
「決まっています。我ら四人が四人とも叱られるのです」
 麻呂の言葉に、宇合は何度もうなずいた。

十二

 年が明けて、県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)が皇子を産んだ。安宿媛に続く慶賀として朝堂は喜びに満ちあふれた。
 だが、房前はみなと同じように喜ぶ気にはなれなかった。
 広刀自は三千代に連なる一族の出だ。これまで、ふたりの内親王を産み、長女の井上内親王(いのえないしんのう)は斎王(さいおう)となって伊勢(いせ)へ下向している。
 不比等と三千代は、天皇に嫁がせた藤原の娘が産む男子を皇太子に、県犬養の娘が産む女子を斎王にするという新しいしきたりを作ろうとしていたのだ。
 その県犬養の広刀自が皇子を産んだ。
 もし、安宿媛が生んだ皇太子に万一のことがあれば、広刀自の産んだ皇子が玉座に就くかもしれない。
 武智麻呂はそれを恐れるだろう。
 三千代にとっては、娘の安宿媛が産んだ皇太子、一族の血を引く皇子、どちらが玉座に就いても喜ばしいのだ。
 もうひとりの皇子の誕生を喜んでいるのは長屋王も同じだろう。
 もし、長屋王と三千代が手を結べば、倒すのは容易ならざる相手となる。
 武智麻呂がまた、策を巡らすのではないか――房前にはそれが心配でならなかった。
 長屋王が皇太子への拝謁に出向かなかったことを天皇は咎(とが)めなかった。それもあって、朝堂は落ち着きを取り戻しつつある。今は波風を立てるべきではないのだ。
 武智麻呂の心の内を確かめなければ。
 武智麻呂の詰める曹司へ赴こうと腰を上げかけたところで配下の者が長屋王の来訪を告げた。
「これは左大臣殿。用があるのなら、わたしの方から出向きますものを」
「近くを通ったついでです」
 長屋王はそう言って、房前の向かいに腰を下ろした。顔つきは穏やかだった。
 もうひとりの皇子の誕生のせいだろう。
「それで、ご用の向きは」
「首様が明日、我々をお呼びです。おそらく、このたび生まれた皇子の祝儀に関するお話があるのでしょう」
「なるほど。心得ました」
「長らく生まれなかったのに、立て続けに皇子が生まれた。実にめでたいことです。武智麻呂殿もさぞお喜びなのでは」
 やはり、長屋王がわざわざ立ち寄ったのは武智麻呂の動向を知りたかったからだ。
「もちろん、大いに喜んでおります」
「そうでしょう。では、わたしはこれで失礼します」
 長屋王は優雅に微笑み、退室していった。房前は太い息を吐き出し、腰を上げた。武智麻呂のもとへ足を向ける。
 武智麻呂は政務に勤しんでいた。顔を上げ、房前の顔を見ると苦笑する。
「顔が険しいぞ、房前。なにか心配事があるのか」
「このたびお生まれになった皇子のこと、どうお思いですか」
 房前は腰を下ろした。
「めでたい」
「もし、長屋王と三千代殿が手を組んだら、皇太子を脅かす存在になるかもしれません」
「そうはならん」
 武智麻呂は切り捨てるように言った。
「首様の安宿媛に対する情にはだれも割って入ることはできん。さらに、すでに皇太子は決まっているのだ。おまえが言うように、長屋王と三千代殿が手を組んだとして、首様の気持ちを変えることはできん。それにだ――」
「安宿媛は三千代殿が腹を痛めて産んだ娘ではないか」
 房前は武智麻呂の言葉を引き取った。
「あの女人の心の内はわからん。なにしろ、我らが父と手を携え、この国の根本を変えてきたのだからな。それでも、一族の栄華のために娘を切り捨てることはあるまい。考えてもみろ。玉座にだれよりも近いのは皇太子なのだ。三千代殿の孫だ。わざわざ長屋王と手を組む必要がどこにある」
「それはそうなのですが......」
「また、わたしがよからぬことを企むのではと心配になってやって来たのか。少しはこの兄を信用したらどうだ」
「信用はしています。ただ、今は朝堂にいらぬ波風を立てるべきではないと思いまして」
「その思いはわたしも同じだ。長く待ち望んでいた皇子が生まれ、立太子もなった。今は皇太子の成長を待つときだ。要らぬことをして敵を刺激すべきではない」
「敵ですか」
「そう。長屋王は我らの敵だ」
「共に首様を支え、この国を導いていく同志と考えることはできませんか」
「まだそのように甘いことを考えているのか、房前」
 武智麻呂の頬がかすかに赤らんだ。
「我らと長屋王は進んでいる道が違うのだ。宮子(みやこ)様の尊称に長屋王が横槍を入れてきたあのときから、我らは倒すか倒されるかの敵になった。それがわからんのか」
「話し合いの余地はありませんか」
「そもそも長屋王は、皇太子への拝謁すら拒否したのだぞ。わたしにそのつもりがあっても、向こうにはあるまい」
「そうですね」房前は肩を落とした。「今しがた、長屋王がわたしのもとを訪れ、新しい皇子のご誕生を兄上はどう思われているかと探りを入れにきました」
 武智麻呂が笑みを浮かべた。
「そうであろう。わたしが長屋王の立場でも同じ気持ちになる。敵の腹の内を知りたくてたまらないのだ。しかし、わたしなら敵の弟のところへ出向いたりはしない。長屋王はよほど焦っているのか、あるいは、おまえを相当甘く見ているのか」
「兄上は大変喜んでいるとだけ伝えました」
「それでよいのだ」
 武智麻呂の笑みが広がった。穏やかな笑みだ。
「では、わたしはこれで失礼いたします」
「いずれ、兄弟顔を揃えて酒でも酌(く)み交わそう」
「はい」
 房前は一礼し、武智麻呂のもとを辞した。
 廊下を歩きながら振り返る。
 なにかが胸につかえていた。以前なら、長屋王と手を携えよと口にした途端、苦い顔をするのが武智麻呂の常だった。
 それが、今日は穏やかな笑みを浮かべるだけだった。
 皇太子の存在が武智麻呂に余裕を持たせているのか。
「それほど安宿媛が皇子を産み、その皇子が皇太子になることを願っていたのだ」
 房前は自分に言い聞かせるように独りごち、先を急いだ。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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