もぐら新章 波濤第五回

第1章(続き)


 午前十時に三鷹の益尾の家を出た竜星は、午後四時を回った頃、沖縄の自宅マンションに着いた。
「おかえりー」
 奥から、母の声が聞こえてきた。
 竜星は自室にリュックを置いて、リビングに行った。右手のキッチンでは、母の紗由美と古谷(ふるや)節子が夕食を作っていた。
 竜星はキッチンに入り、冷蔵庫から冷えたさんぴん茶を出して、コップに注いだ。
「母さん、今日は早いね」
「ちょっといろいろあってね。益尾君たち、元気だった?」
「うん、愛理さんも木乃花ちゃんも元気だよ。益尾さんが、母さんたちによろしくって」
「あとで電話しておく」
 紗由美は言い、料理に戻った。
 鍋から甘い醤油と香ばしい肉の匂いがしている。今日はラフテーのようだ。
 ラフテーは豚の三枚肉を泡盛や醤油、黒砂糖で甘辛く煮詰めたもので、角煮のようなものだ。ごはんのおかずにもなるし、ソーキそばに載せてもおいしい。竜星の好物だった。
 竜星はリビングに座り、テーブルにあるサーターアンダギーを一つ摘まんだ。カリッとした表面と中のスポンジを噛みしめると、黒砂糖の甘味がにじみ出る。それをさんぴん茶で流す。爽やかな甘さが口の中いっぱいに広がった。
 くつろいでいると、紗由美が手を止めて、リビングに来た。竜星の対面に座り、サーターアンダギーをつまむ。
「会社で何かあったん?」
「うちの会社が新しい部門を創設することになってね。そっちに行かないかと言われてるのよ」
「どんな部門?」
「サービス業の人材派遣。主にホテルの従業員を手配する部署なんだけど、そこの創設スタッフに入ってほしいと言われてるのよ」
 紗由美が話す。
 今、沖縄県は観光客の増加を受けて、本島だけでなく、離島まで観光用ホテルの建設やリフォームのラッシュを迎えている。
 再開発やインフラ整備は、建設労働者不足が叫ばれる中でも順調に進んでいる。
 が、深刻なのは、できたホテルで働く従業員の不足だ。
 リゾートを売りにしたホテルで重要視されるのは質の高い従業員だが、そうした人材はすでに取り合いになっている。
 さらに、清掃や配膳を請け負う従業員の不足は深刻さを増していて、いくら補充してもすぐに辞められ、新たな人材を送り込むといった消耗戦を強いられていた。
 条件が低いわけではない。高時給、週休二日を謳っても、人が集まらない状態だ。
 県の収入の大きなウエートを占める観光業の存続危機に対し、沖縄県は官民共同で優良な人材の長期確保対策に乗り出していた。
 そうした情勢の中、紗由美が勤める会社にも県担当者からの協力要請があり、会社側は検討の結果、人材派遣部門を新設することになった。
「いいじゃないか。創設スタッフって、なかなかなれないよ」
「そうなんだけどさあ。人材派遣業って、なんだか違う気がして」
「めずらしいね。母さん、新しい仕事は自分から飛びつくタイプだったのに」
「そうなんだけどねー」
 紗由美が煮え切らない様子でため息をつく。
「母さん、やりたいことないの?」
 竜星が訊いた。
「昔はね、作業療法士を目指したこともあったの。そのために、高卒認定試験の勉強もしてたんだけどね。いろいろあって、やめちゃった」
「ひょっとして、僕ができたから?」
「違うよ」
 紗由美は笑って、サーターアンダギーを口に放り込んだ。食べながら、ポットの温かいさんぴん茶を湯呑みに注ぎ、口の中に残ったスポンジを飲み込む。
「子供ができたくらいだったら、あきらめなかった。断念するまでには、ほんとにいろいろあったから」
 紗由美は言い、隣部屋の仏壇に目を向けた。竜司の遺影を見つめる。
「なんだか、いろいろありすぎてね。何をしたいのかわからなくなったのかな」
「疲れちゃったのよ」
 キッチンから節子が出てくる。節子は紗由美の隣に座った。
 紗由美が湯呑みにさんぴん茶を入れ、節子に差し出す。節子は微笑んで、温かいお茶を啜った。
「生きるって、それだけで疲れるからね」
「それって、やっぱり僕のことが負担に──」
 竜星が言いかける。
 節子は深い笑みを竜星に向け、言葉を止めた。
「親が子供を育てるのは当たり前。手のかかる頃は、疲れることはあっても楽しいものなの。逆よ、竜星」
「逆?」
「そう。手がかからなくなった分、自分の時間ができて、自分のことを考える余裕ができたの。そうしてふっと自分を振り返った時にね。気づかなかった人生の疲れが出てくるものなのよ」
「そんなもんなん?」
「そんなもの。長く生きなきゃ、わからないことだけどね」
 節子は微笑み、紗由美に顔を向けた。
「紗由美ちゃん。新しい部署に行きたくなかったら、行かなくていいのよ。心が動かない時って、疲れている時だから。無理に前に進む必要はないのよ」
「ありがとう。ちょっと考えてみる」
 紗由美が返す。節子は深く頷いた。
「まあ、好きにしてくれたらいいよ、僕は」
 竜星は言い、立ち上がった。
「あんたは生意気」
 紗由美が竜星の尻を叩こうと手を振った。
 竜星はサッと避け、そのまま自室へ引っ込んだ。
「まったく......息子にまで気をつかわれるなんて、なんだかなあ......」
 紗由美はテーブルに伏せて、大きなため息をついた。
「心配してるのよ、紗由美ちゃんのこと。本当、この頃は目に見えて大人になってきたわね、竜星も」
「親離れってこと?」
「子離れの時も来たということよ」
「でもまだ、大学もあるし」
「あの子、大学の費用を頼るつもりはないんじゃないかしら」
 節子はちらりと竜星の部屋の方に目を向けた。
「そこまでは親の義務だから、なんとかするつもりだけど」
「それは紗由美ちゃん側、親の考え。竜星は、高校を卒業したら負担をかけないよう自立したいと思ってるわよ、きっと」
「どうして、わかるの?」
「うちがそうだったから」
 節子が言う。紗由美は瞳を開いた。
「涼太(りょうた)は進学の時、奨学金を得て、下宿代はアルバイトで稼いでた。学費くらいは私が出すと言ったんだけどね。それは老後に残しとけって。弟の哲夫(てつお)は悪い世界に入ってしまったけれど、あの子も高校を卒業した後に出て行って、それ以降、私にお金の無心をしたことはなかった。兄の涼太にはお世話になっていたようだけどね」
 節子が微笑む。
「でも、哲夫も涼太と同じ思いだったそうよ。主人が死んだ後、女手一つで苦労していた私を見て、ずっと楽にさせたいと思ってくれていたそう。私は、二人が生きていてくれたら、それでよかったんだけど」
 節子は仏壇に飾った息子の遺影に目を向けた。
「紗由美ちゃんもこれまでがんばってきたんだから、ここから先、何がしたいのか、どう生きていくのかを考えるいい機会かもしれないわね」
「節子さんはどうだったの?」
「私は、あの子たちが帰ってくる場所を残すことだけを考えてたかしら。そのために、家を守っていただけね。それでよかったんだけど、二人がいなくなった後は、生きる指針を失った。帰ってくる人はもういないんだもの。家を守る意味もわからなくなって。だから、竜司さんに、妊娠中のあなたのお世話をしてほしいと言われた時は、正直救われた思いだった。それからは、あなたを支えて、竜星の成長を見守ることが、私の生きがいになったの。ありがとうね」
 節子が軽く頭を下げる。
「こちらこそ」
 紗由美も頭を下げる。
 顔を上げて、互いを見つめる。自然と笑みがこぼれた。
「流れに任せて、ゆっくり生きればいいのよ。ここは沖縄なんだから」
「うん」
 紗由美は首肯した。
 玄関のドアが開いた。
「ただいま」
 野太い声が聞こえてくる。楢山の声だった。杖をつく音と大きな足音が近づいてくる。
「早いね」
 紗由美が楢山を見上げた。
「稽古が早く終わったんでな」
「飲んでないみたいね。これから来るの?」
「今日は飲みなし。いや、ちょっとみんなで飲みは控えようって話になったんだ」
 楢山が話しながら、紗由美の前に座り、杖を脇に置いた。節子がさんぴん茶を入れ、湯呑みを楢山の前に差し出す。楢山は茶を啜った。
「急にどうしたの?」
「俺も金武も歳だからな。体が動かせるよう、ちょっと節制しようって話になって」
「ほんとにー?」
 紗由美は怪訝(けげん)そうに目を細め、楢山をじっと見つめた。
「ホントだって」
 楢山がたじろぐ。
「まあ、いいじゃない。健康に気をつかうのはいいことだから。じゃあ、ちょっと早いけど、夕飯にしましょうかね」
 節子が茶を飲み干して、立ち上がる。
「さすが、おばあ。よくわかってくれる」
「私だって、心配してるよ」
 紗由美は楢山の頭を平手で軽く叩いて、立ち上がった。
 楢山が頭をさする。
「どこまで続くかわかんないけど、ストレスがたまらない程度にね」
 紗由美が微笑む。
「おう」
 楢山は笑みを返した。
 節子は、紗由美と楢山の様子をキッチンから窺い、目を細めた。

もぐら新章 波濤

Synopsisあらすじ

最強のトラブルシューター「もぐら」こと影野竜司の死から十年余。生前の父を知らぬ息子・竜星は沖縄で高校生になっていた。ひょんなことから、暴力団組織・座間味組が手がける犯罪に巻き込まれ、かつて父・竜司とともに数々の難事件にあたってきた仲間たちとともに事件解決に乗り出した竜星は、度重なる危機の中で亡き父から受け継いだ「最強の血」を覚醒させる。(『もぐら新章 血脈』2018年3月刊)

座間味組を解散に追い込んで一年余、高校三年生の竜星は平穏な日々を送っていた。ところがそこに、かつて座間味組の武闘派グループを率いていた最凶の男・綱村啓道が刑務所から出所しようとしていた……

Profile著者紹介

1964年兵庫県生まれ。文芸誌編集などを経て、小説家へ転向。「もぐら」シリーズ(小社刊)が100万部を突破しブレイクした。他の著書に、「リンクス」シリーズ、「D1」シリーズ、「ACT」シリーズ、「カミカゼ 警視庁公安0課」シリーズ、『コンダクター』『リターン』『AIO民間刑務所』などがある。

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