もぐら新章 波濤第二回

第1章

 十月半ばの連休、安達竜星(あだちりゅうせい)は東京へ来ていた。志望している大学が複数、オープンキャンパスを開催していたからだ。
 竜星は各校に出向いて学内を見て回り、雰囲気をつかんで、夕方ごろ、JR中央線武蔵境駅に戻ってきた。かえで通りをゆっくりと歩き、住宅地に入った。
 煉瓦調の壁の瀟洒な戸建ての前で止まり、インターホンを押す。
 ──はーい、ちょっと待ってね。
 はつらつとした女性の声が聞こえてきた。
 まもなく鍵が外され、木目調のドアが開く。
 益尾愛理(ますおあいり)が顔を出した。
「おかえり、竜星君」
 笑顔で招き入れる。
 竜星は会釈をして、中へ入った。きれいに掃除された玄関を上がり、手前のリビングに入る。
 リビングのテーブルには、ショートカットで陽に灼けたジャージ姿の女の子がいた。
「あ、おかえり」
 竜星に笑顔を向ける。
 益尾の娘・木乃花(このか)だ。十二歳、今年中学一年生になった。愛理に似て、小顔で目が大きく、すらっとした美少女だ。
 竜星とは小さなころから面識があり、兄妹のような関係だった。
「ただいま」
 竜星は木乃花に笑顔を返し、歩み寄る。テーブルには教科書とノートが広がっていた。
「何してるんだ?」
「数学。もー、わかんなくて、死にそう」
「何がわからないんだ?」
 竜星は隣の椅子に座った。
「このさあ、変数とか変域ってなんなのよ。わけわかんない」
 木乃花はため息をついて、シャープペンシルをノートの上に放った。
「木乃花、ちゃんとしなさい! 今、理解しないと、ついていけなくなるよ!」
「何よ。お母さんだって、中学の時なんか、ろくに勉強してなかったんでしょ」
「そうよ」
 愛理はすんなりと認めた。
「だからこそ、今の時期に何をしなきゃいけないのか、よくわかってる」
 まっすぐ娘を見つめる。
 木乃花は返せなくなり、目を逸らした。
 少し気まずい空気が流れる。
 竜星は木乃花が放ったシャープペンシルを手に取った。
「木乃花ちゃん。数学がわからなくなるのは、ほとんどが数学用語と数学記号についていけなくなるからなんだ」
 教え始める。
 木乃花は竜星の手元に目を向けた。
「変数というのは、変わる数。変域というのは、数が変わる範囲のこと。木乃花ちゃん、短距離走をやってるよね」
「うん」
「百メートル走のラインがこれだとするよね」
 竜星は線を一本引っ張った。
「ここは?」
 スタート地点を指す。
「0」
「うん、そうだね」
 0を書き込む。
「じゃあ、ここは?」
 ゴールを指す。
「100」
「そうそう」
 頷きながら、100と数字を書き込んだ。
「じゃあ、ここからここまでは何から何となる?」
 シャープペンシルの先でスタートとゴールを交互に指した。
「0から......100?」
 木乃花が自信なさげに答える。
「そういうこと。でも、100以上はないよね? だから、数が変わる範囲は0から100となる。これが変域ね。で、木乃花ちゃんはこの100メートルのラインの間、何メートル走るかわからないとしよう。その何メートルの〝何〟を〝x〟とする。このxが変わる数。変数というやつ。木乃花ちゃんが30メートル走れば、x=30となるし、50メートル走れば、x=50となる。走らなければ?」
「x=0?」
「正解」
 竜星が言うと、木乃花の顔に笑みがこぼれた。
 初めは椅子の背にもたれていた木乃花も、いつしか身を乗り出していた。
「じゃあ、xがなり得る数字は、いくつからいくつかな?」
「0から100だよね」
「そう。100以上も0以下もないからね。それを式で表わすと、0≦x≦100となる。0~x~100と考えとくといいよ。この≦記号に=があるかないかは、0とか100が入るか入らないかだけのこと。わかったかな?」
「うん、なんかわかった!」
 木乃花がうれしそうに言った。
「数学だからって身構えると難しくなるんだけど、用語も記号も自分のわかりやすい言葉に置き換えちゃえばいいんだよ。そうすれば、理解できるようになるから。ついでだから、他の問題もやってみて」
 竜星が言う。
 木乃花は宿題を再開した。先ほどとは打って変わって、すらすらと解き始める。
 横で木乃花の手元を見ていると、愛理が紅茶を持ってきた。
「どうぞ」
 カップを手前に置く。
「いただきます」
 竜星は上体を起こし、カップを取って紅茶を啜った。甘くてほろ苦い薫りが鼻に抜ける。
「教え方、上手だね。先生になるといいんじゃない?」
「竜星君が担任なら、がんばって勉強するよ!」
 木乃花が顔を上げる。
「あんたは、誰が担任でもがんばりなさい!」
 愛理がピシッと言う。
 木乃花はふくれっ面をしながらも、宿題を続けた。
 竜星が微笑む。
「疲れたでしょ。部屋で適当に休んでね。徹(とおる)君、今日は早く帰ってくると言ってたから」
「ありがとうございます」
 竜星は会釈し、木乃花の勉強を見守った。


「じゃあ、先に寝るね」
 風呂上がりの愛理は、リビングにいる益尾と竜星に声をかけた。
「おやすみなさい」
 竜星が言う。
 愛理は笑顔を向け、二階へ上がっていった。寝室のドアが閉まる音が聞こえた。
 静かになる。
 午後十一時を回ったところだった。
「もう十一時か。遅くまで付き合わせたね」
「いえ。普段はまだ起きていますから」
「そうか。がんばるなあ」
 益尾は笑みを覗かせた。
 さっきまで、食事を終えた後、愛理や木乃花も含めて、あれこれ話していた。
 そのうち、木乃花が自室に引っ込み、愛理も片づけを済ませて風呂に入って床に就き、益尾と二人になった。
「やはり、東京の大学はあきらめるのか?」
 益尾が訊いた。
「はい。いろいろ回ってみたけど、特に東京へ出る必要はないかなと思って」
「金の話じゃないのか?」
 益尾は二人きりになり、忌憚(きたん)なく切り出した。
 竜星は一瞬、口を噤んだ。手元のカップに視線を落とし、やおら顔を上げる。
「正直、それもあります」
「君なら、給付型の奨学金も取れるだろうし、学費免除の特待生にもなれる。そうした道を考えてもいいんじゃないか?」
「学費はただになっても、東京はやっぱり生活費がかかりすぎます。さすがに、母さんにそれを負担させるのは心苦しい。母さんの勤め先も、今大変みたいで、これ以上苦労かけたくないし。楢(なら)さんや節子(せつこ)さんが援助してくれるというんだけど、それもなんだかしのびなくて......」
 竜星はぬるくなった紅茶を口に含んだ。ゆっくりと飲み込む。
「うちに下宿してもかまわんぞ」
「それも遠慮します」
「居心地悪いか?」
「いえ、ここは落ち着きます。けど、住むとなるとは話は別です。生活リズムの違いはお互いストレスになるでしょうし、木乃花ちゃんも思春期だから、いろいろ思うところも出てくるでしょうし」
「君は大人だな」
 益尾が微笑む。
「もっと周りを頼っていいんだぞ」
「これまで、たくさんの人にお世話になりました。だから、高校を卒業したら、自分のことは自分でしたいと思って。それに、頼らないことで見えてくるものもあるのかな、と」
 竜星がふっと遠い目を見せた。
「竜司(りゅうじ)さんか?」
 益尾は感じたまま訊いた。
「それもあるのかな。わかりませんけど」
 竜星は言葉を濁し、紅茶を飲んで立ち上がった。
「ごちそうさまでした。僕も寝ます」
「ああ、お疲れさん。明日、何時に出るんだ?」
「十時には出ようと思っています」
「そうか。僕は仕事で出るから、紗由美(さゆみ)さんや楢山(ならやま)さんによろしく言っておいてくれ」
「はい。おやすみなさい」
 竜星は階段を上がっていった。
 益尾は竜星の残像を見つめた。
「やっぱり、竜司さんの影は濃いな」
 独り言ち、微笑んだ。

もぐら新章 波濤

Synopsisあらすじ

最強のトラブルシューター「もぐら」こと影野竜司の死から十年余。生前の父を知らぬ息子・竜星は沖縄で高校生になっていた。ひょんなことから、暴力団組織・座間味組が手がける犯罪に巻き込まれ、かつて父・竜司とともに数々の難事件にあたってきた仲間たちとともに事件解決に乗り出した竜星は、度重なる危機の中で亡き父から受け継いだ「最強の血」を覚醒させる。(『もぐら新章 血脈』2018年3月刊)

座間味組を解散に追い込んで一年余、高校三年生の竜星は平穏な日々を送っていた。ところがそこに、かつて座間味組の武闘派グループを率いていた最凶の男・綱村啓道が刑務所から出所しようとしていた……

Profile著者紹介

1964年兵庫県生まれ。文芸誌編集などを経て、小説家へ転向。「もぐら」シリーズ(小社刊)が100万部を突破しブレイクした。他の著書に、「リンクス」シリーズ、「D1」シリーズ、「ACT」シリーズ、「カミカゼ 警視庁公安0課」シリーズ、『コンダクター』『リターン』『AIO民間刑務所』などがある。

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