持続可能な魂の利用第5回

「レディースクリニック」という言葉に、違和感と安堵感を同時に覚えるのはなぜだろう。内科や耳鼻科など、普段当たり前のように、日常的に受診している病院は「女性の」ものではなかったのだろうかと思わず考えてしまうほどの引っ掛かりとインパクトが「レディースクリニック」という言葉にはあったし、同時に、「女性の」ものであると明確に定義された病院があることは、ある意味、安心することでもあった。
 白い待合室の白い合皮のソファーに座った敬子は、なんの気なしに、白い周囲を見渡した。
 観葉植物に、小さなラックに並んだ数冊の女性誌や情報誌。オルゴール調のBGMが脱力気味に流れるなか、スマートフォンに顔を落とした女性たち。
 スマートフォンが普及してからというもの、こういう待合室で雑誌を読んでいる人が減った気がする。ラックから動くことのない表紙の女性たちの笑顔は、どれも妙にはっきりし過ぎていた。人気のトートバッグを肩にかけたその中の一人のポーズは、昔の少年漫画のバンカラな先輩を思わせるものがあった。整った白い歯の先輩。
 午後の早い時間だというのに、すでにソファーは埋まっていて、この「婦人科・美容皮膚科」に入ってすぐの受付カウンターには、診察なしで低容量ピルを処方してもらう女性たちの列ができていた。
 ピルの処方については、一度医師の診察を受けさえすれば、その後は再診が必要になることはなかった。
 はじめに診察されたこのクリニックの男性医師の顔を、敬子はもう忘れてしまっていた。嫌な感じのする男で、こちらの話をおざなりに聞くと、まあ、あなた次第ですけどね、と最後になぜか馬鹿にしたような口調で言った。この男が「レディースクリニック」の医師であることに矛盾はないのだろうかと敬子は思った。
 が、それ以来、数ヶ月に一度通っては、ピルを処方してもらっている。通院しているほとんどの女性が、ピル目当てだった。
 これが一パーセントの列か。
 並んでいる女性の列を目にすると、敬子は毎度、畏敬の念に打たれる。
 日本の低容量ピルの普及率はわずか一パーセントであると、以前ネットの記事で読んだことがあった。記事では、その年のほかの国の普及率として、フランス四十一パーセント、ドイツ三十七パーセント、イギリス二十八パーセントが挙げられていた。
 コンビニや薬局で手軽に、安価な値段で低容量ピルを買うことができる国もあるのに、無料で配布される国もあるというのに、敬子の国では、取り扱いのあるクリニックに通い、数千円を払わなければならない。そのアクセスの悪さや値段の高さに、躊躇したり、諦めたりする女性がたくさんいてもなんの不思議もなかった。
 そもそも、その存在を知らなくてもおかしくない。日本社会は、女性が楽をすることに、快適に暮らすことに、選択をすることに、なぜか厳しい目を向ける社会だった。女性が自分の力で自分の体をコントロールすることを教えない社会だった。
「いそがしい女性のために、土日も開院しています」
 クリニックの開院時間等が記されたホームページには、そうピンク色の文字で、優しげに書き添えられていた。
 病院へのアクセスを最初に確認した時、その言葉は敬子の頭の中でチカチカと発光するようだった。
 ページを閉じる頃、発光の原因は、ほんの少しの押し付けがましさだと敬子は思い至った。
 いそがしくない女性なんているのだろうか。
 まるでこの世には、「いそがしい女性」と「いそがしくない女性」がいるみたいだ。「いそがしい男性のために、土日も開院しています」と書かれることがないだろうことは、敬子には容易にわかった。男性はそもそも「いそがしい」ものだから。その考えが根底にあるのが薄く透けて見え、そして、「レディースクリニック」という女性のために特化しているはずの場所だからこそ、余計に目立った。
「女性限定です」
 ガールフレンドに付き添っていた若い男性が、クリーム色のタイトワンピース型の制服を着た受付の女性の一人に注意を受けている。ワンピースは腰をきゅっと細い茶色のベルトで締められ、唇はつやつやとしたコーラルピンクだ。
 二人が怪訝そうな表情を見せたので、受付の彼女は言い直した。
「ノー、メン、プリーズ」
 若い男性はハッとした様子でうなずくと、ガールフレンドに何事か小さな声で言い、外に出ていった。しばらく時間を潰して戻ってくるのだろう。
 婦人科を受診する恋人につき添おうと一緒についてくる男性の姿は、ここではたまに目にする光景だ。そして、
「女性限定です」
 と注意され、否応なしに放り出される光景も。
 同じアジア圏からの留学生、それとも旅行中だろうか。残された若い彼女は、別段気にする様子もなく、スマートフォンをいじりだした。
 やっぱりさっきの女の子がいないな。
 敬子はそう思ったが、半ばわかっていたことではあった。
 午後の診察時間をなぜか勘違いした敬子は、その日、二十分ほどはやくクリニックに到着してしまった。
 新宿南口の高層ビル、三階の隅に位置したガラス張りのクリニックは、どこか無機的な印象を与えるクリーム色のカーテンが閉められ(ドレープの部分に影ができて灰色に見えるせいかもしれない)、開院時間が書かれた小さなプレートがかかっていた。
 先客がいた。
 まだ二十代に足を踏み入れたばかりに見える男女だった。男の子と女の子と呼んだほうが幾分かしっくりくる。
 そして、男の子は怒っていた。
「なんで開いてないんだよ、馬鹿にしやがって」
「クソ、はやく開けやがれ」
「さっさと開けやがれ」
 普段なかなかお目にかかれない、まるでギャグのようなわかりやすい怒り方で、彼は毒づき続けていた。
 敬子と同じように時間を間違ってしまったらしいのだが、それでここまで怒っていられるというのは驚きに値した。
 どういう頭の構造になっているのだろう。
 敬子は感嘆した。
 男の子は敬子に見られていることに、気がついてもいないようだった。それとも、見られていても、気にならないのかもしれない。なので、敬子も気兼ねなく、二人の様子をまじまじと観察した。
 女の子のほうはというと、苛立ちを幼稚なかたちで爆発させている男の子を、何の感情も出さずに見ていた。なすすべなし、という静かなる態度だった。こういうことは、よくあるのかもしれない。
 ロングヘアーの、スリムジーンズをはいた今時の女の子に見えた。男の子は顎や肘がやたらと尖っていて、全体的にダボダボした服装。女の子のほうが少しばかり背が高い。
 怒っている男の子と黙っている女の子。
 学校でも、会社でも、これまでに同様の関係性を何度も目にしてきた。
 怒っている男と黙っている女。
 敬子もその中の一人だった。だから、若い二人がその関係性を再生産していることが、悲しかった。
 女の子が、一言でもいいから、男の子を諌めてくれたらいいのに。やめなよ、と言ってくれたらいいのに。うるせえよ、と頭をぶっ叩いてくれたらいいのに。
 敬子は祈るような気持ちで、若い二人を見ていたが、何も変わらなかった。目の前にいるのは、まぎれようもなく、怒っている男の子と黙っている女の子。
 見ていられなくなって、敬子はエレベーターで地階に降りると、ビルに入っているコンビニで時間を潰した。
 新商品をしみじみと一つ一つ眺めているうちに、やるせない気持ちが少し薄らいだ。物質は力だ。
 しばらくしてから、敬子はクリニックに戻った。その間に、四、五人の女性たちの列が新たにできていたが、さっきの二人の姿は見当たらなかった。二人は忽然と姿を消していた。
 馬鹿みたいにキレていた男の子がその場を去りたがり、女の子が仕方なく従った流れは簡単に想像できた。
 低容量ピルが本当に必要なのは女の子のほうだろうに。
 敬子は情けなかった。女の子のために、何もできなかった自分のことが。敬子こそ、黙っている女の子、黙っている女だった。さっきも、これまでも。
 彼女がピルにアクセスする機会は再び訪れるのか、敬子にはわからなかった。
 悪く想像すれば、避妊なしでセックスができると間違った知識で浅はかに考えた男の子が女の子を連れてきたとも考えられた。恋人が怒っている様子を無表情で見ていた彼女が自主的に低容量ピルを求めてここに来たとは、残念ながら、考えにくかった。彼女の体なのに、まるで彼女の体じゃないみたいだった。
 コーラルピンクの唇が、敬子の名前を呼んだ。その美しい色と柔らかい音に誘われるように、敬子はソファーから立ち上がると、敬子の体を生きやすくしてくれる薬を受け取りに受付カウンターに向かった。
 クリニックの受付には、女性たちが次々に現れ、列をつくっていた。
 これが本当に一パーセントなんだろうか。これは本当に、一パーセントの女性だけが求めているものなのだろうか。
 そんなはずがない。
 敬子は確信していた。
 途切れることのない列は、その紛れもない証拠に思えた。

持続可能な魂の利用

写真:岩倉しおり

Synopsisあらすじ

ある日、カナダから帰ってきた敬子は気づいてしまった。日本の女の子たちが〝最弱な生き物〟であることに――!「アンデル 小さな文芸誌」にて連載された、松田青子による「持続可能な魂の利用」がWebBOCにお引っ越し&再スタート。日本にはびこる悪しき因習に切り込み、世界を呼吸のしやすい場所にする。人生を楽しくパワフルに変身させる物語の誕生です。

Profile著者紹介

松田青子(まつだ・あおこ)

1979年、兵庫県生まれ。同志社大学文学部英文学科卒業。著書に『スタッキング可能』『英子の森』『ワイルドフラワーの見えない一年』(以上、河出書房新社)、『おばちゃんたちのいるところ』(中央公論新社)、翻訳書に『狼少女たちの聖ルーシー寮』『レモン畑の吸血鬼』(以上、カレン・ラッセル/河出書房新社)、『AM/PM』(アメリア・グレイ/河出書房新社)『問題だらけの女性たち』(ジャッキー・フレミング/河出書房新社)、エッセイ集に『読めよ、さらば憂いなし』(河出書房新社)、『ロマンティックあげない』(新潮社)などがある。

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