持続可能な魂の利用第2回

 いくらでも寝ていられた。
 驚くほどだった。うっすらと目を開け薄暗い部屋を確認するでもなく確認すると、また目を閉じた。目を閉じると、意識はすぐまた遠のいた。驚くほどだと、まるで自分自身の主治医であるかのようにその短い間に自分が考えたことを、敬子は心のカルテに記録した。
 それともそれは夢だったか。
 夢だったかと後で思ったのは、その後見た短い夢の一つに医者が出てきたからだった。白衣を着た医者は、ベッドで眠っている患者を見下ろしていた。その背中を夢で見た。患者を静かに見つめている背中を。それとも、自分が考えたことが、そのまま夢になったのだろうか。
 敬子は旅行中の洗濯物と一緒に五日間着たままだったスウェットパンツと長袖のTシャツを洗濯機に放り込み、洗面所の下の物入れから液体洗剤を出す。キャップで適量を量ると、洗濯機の隅にある注ぎ口に流し込んだ。ほとんど中身の残っていないプラスティックの容器を床に下ろす。蹴ったら、遠くに飛んでいってしまいそうな軽さ。
 スタートボタンを押すと、洗濯機はゴンゴンと音を立てはじめた。
 私の洗濯機。
 ジタバタ暴れるように振動している洗濯機を見下ろしながら、敬子は思った。
 私の洗濯機。
 一人暮らしをはじめてから二十年以上経つ。
 その二十年以上前のこと、敬子はまず、半信半疑で部屋を一つ手に入れた。半信半疑ではあったが、容れ物として、その小さな部屋はしっかりと機能したので、敬子は次の段階に移った。容れ物に容れる物を買うことにした。
 敬子は冷蔵庫を買った。テレビを買った。
 テーブルを買い、イスを買った。
 大きなものを、小さなものを買った。
 一回の給料で生活に必要なものをすべて揃えることは不可能だった。敬子は時間をかけて、買った。
 買うたびに、そして使うたびに、敬子は「私の冷蔵庫」だと、「私の茶漉し」だと、「私のトースター」だと思い、考え、その事実に深く驚いた。それは単純な事実だったが、今一度考えてみると、とてつもないことに思えるのだった。
 敬子は洗濯機を買った。
 目の前でガタガタと振動しながら働いている洗濯機を見ながら、敬子は「私の洗濯機」だと思った。
 ちょうど今と同じように。
 洗濯機はこれまでに二度買い換えた。敬子は洗濯機置き場のある洗面所から出ると、洗濯機でも洗える絨毯が敷かれたリビングに入る。テレビはもう今の敬子の部屋にはなかった。
 敬子は体を投げ出すようにして、六年前に買ったソファに寝そべった。ひさしぶりに一仕事したことに満足した体がもう休みたいと言っていた。
 この五日間、敬子はひたすら寝続けていた。
 時差ボケ、というには、あまりに凶暴なそれは、敬子をベッドに縛り付け続けた。長時間のフライトは誰にとっても疲れるものであろうが、空港から最寄り駅になんとかたどり着いた時点で、敬子はもう気力だけで動いているようなものだった。年齢的なものもあるかもしれなかった。
 電池が切れる。
 敬子は思い、自分の部屋で心置きなく電池が切れるに任せるために、コンビニで菓子パンやゼリーなどの軽食を手にいれることを忘れなかった。
 敬子の予定では、一ヶ月のリフレッシュを経て、次の日にはばっちりと目が覚め、再び起動をはじめるはずだった体は、予想とは大幅に反して眠りを欲した。排泄と食事のために起き上がるたびに、これで新たなスタートを切れると敬子は思ったが、体はまたふらふらとベッドに引き寄せられた。食料が早々に底をついた後は、枕元に置いた、トロントの空港で買った凄絶に甘いメープルタフィーが敬子の生命を維持した。
 無職でよかった。どこかのタイミングで、敬子は思った。それも心のカルテに残っていた。
 ソファでうとうとしていたのか、ピーっという慌ただしい音で敬子は我に返った。
 玄関のチャイムの音、追い炊きが完了した音、洗濯機の行程が終わった音。日常の作業に戻れと告げる音はみんな機械の音だ。鳴った瞬間何かが妨げられた気がして皮膚がかすかに泡立つのだが、すぐに忘れてしまえる音。
 立ち上がろうと視線を床に落とすと、中身を出し、換気のために開いたまま置きっ放しにしているスーツケースが目に入った。旅の間はあんなにも頼もしかったのに、空っぽになると、途端にぺらぺらと頼りない。
 一ヶ月間繰り返し袖を通し、すっかり飽き飽きしていた少しばかりの服を敬子はハンガーにかけ、ひとまとめにしてベランダに出る。ろくに皺も伸ばしていない。
 ひさしぶりに見た外の世界、ベランダから見える世界が、ほんの一瞬しっくりこなかった。けれど、十年近く暮らしてきた街の日常は体に染み込んでいる。一ヶ月の外国の記憶は太刀打ちできるはずもない。敬子はすぐに順応した。何も変わらない。ここから見える範囲内で、歯科医が三軒あるのも変わらない。明らかに多い。
 埃がうっすらとたまった物干しのポールに洗濯物をかける。洗濯物のかかったハンガーたちは風を受け、一様に斜めに傾ぐ。
 これがすべて乾いたら、また一からはじめられる。
 きっともう一度がんばれる。私は準備万端だ。
 敬子はまるで一つの儀式が終わったように清々しく感じながら、中に入り、窓の鍵を閉める。鍵を閉め忘れたことはない。窓を開け、網戸にして換気をしている間は別だが、窓を閉めるときは必ず鍵を閉めた。それはもう、社会人としての敬子のDNAに組み込まれていた。
 以前働いていた会社で、後輩の男性社員から、一人暮らしの部屋の鍵をかけずに出社していると聞いたことがあった。そうなんだと軽い笑い話にして済ませたが、心の中では衝撃を受けていた。敬子の目の前にある、日常を恐ろしいと感じていない健やかな心に、そんな自分が情けなかったが、敬子は少し傷ついた。
 そして続けて、敬子が二十代半ばのある時期付き合っていた恋人のことを思い出した。彼は近所のコンビニに何か買いに出ると、敬子が部屋の中にいるのに、鍵を開けっ放しにしていった。それに気づいた敬子は、毎回鍵を閉めた。
 帰ってきて、ドアが開いているだろうと疑いを持たず、ノブをがんがんと引っ張った彼は、敬子による解錠後、どうして少しの間なのに鍵を閉めるのか、と不思議そうにしながら、中に入ってきたが、不思議なのは敬子のほうだった。
 世の中では、女性は男性がいると安全とされていた。女性は男性に守ってもらうものだと。独身の、一人暮らしの女性はあらゆる意味で危険に身を晒していると。
 確かに危険はある。けれど、敬子が普段から築いている防御の壁が、男性といるからこそ崩れ、弱まると感じられることがあった。敬子が感じる危険を感じない相手に、敬子を守ることがはたして可能なのだろうか。
 わたし、一人でいるほうが強いんじゃないか。
 敬子はコンビニの袋をごそごそと開けている恋人の呑気な顔を見ながら思った。寒いなか、アイスとおでんを買ってきてくれたことがとてもありがたかったのに、そう思った。こんな日常の出来事の最中に、強さについて思いをはせている自分だけが宙に浮かんでいるような気がした。
 どうして言えなかったのだろうと、同じように呑気な後輩の顔を見ながら、あのとき敬子は考えた。実際に犯罪はあるから、少しの間でも不安だから、こわいから、鍵を閉めて欲しいと、どうして言えなかったのか。
 当時の敬子は同じくらいこわかった。自意識過剰じゃないかと、考えすぎじゃないかと、相手に思われるのが、面倒くさい女だと思われるのが、こわかった。敬子は若かった。
 リビングに入ると、床の上のスーツケースが再び目に入った。もういいだろうと敬子は中の匂いを確かめもせず、ぺかっとしたスーツケースの蓋をえいと閉じ、物入れに押し込んだ。

 敬子が寝ぼけながら食べ尽くしたメープルタフィーのかわりに、カナダの街の写真が転写された薄い長方形のマグネットを手渡された香川さんは、冷蔵庫につけます、とにっこりした。全体的に前時代的なテイストが漂っているマグネットだ。
 こんなのでごめんね、と敬子が言うと、
「いや、ほんとにうれしいです。最近美術館めぐりにハマってるんですけど、行くと必ずあるじゃないですか、有名な名画をマグネットにしたのがミュージアムショップに。このかたちとおんなじやつ。何度も見てるうちにかわいく思えてきて、今集めてるんですよ。記念にもなるし」
 と、香川さんは、持っているマグネットの名画コレクションを羅列しはじめた。
 近所以外の街に出かけるのがひさしぶりで、敬子はいまだ落ち着かない気持ちのまま、観葉植物がたくさん置かれた天井の高い空間を眺めた。
 このカフェに落ち着く前、敬子は香川さんとの待ち合わせの時間よりもだいぶはやく出てきてしまったので、同じ街にある人気のセレクトショップに入って時間を調節しようとした。
 広い店内をうろうろしているだけで、店員さんたちが、
「ありがとうございます」
 と敬子に声をかけてきた。まだ何も買っていないのに、お店の中にいるだけなのに、移動するたびに次々と繰り出される、
「ありがとうございます」
 に頭がぼんやりしてしまい、服や雑貨を見て回る気分ではなくなった敬子は入り口にあるベンチに座って、しばらく時間を潰した。
 こんなことばかり考えている自分が嫌になったが、外国から帰ってきたばかりの敬子は、その国の人たちのコミュニケーションの取り方や生き方といったものと、自分の住んでいる国のそれがまるで違うということを痛感する現場に遭遇するたびに、現実が歪むような感覚を覚え、クラクラしていた。
 どうしてこんなに違うのだろう。
 どうしてこんなに不自然なんだろう。
 敬子は心の底からその理由を知りたくなった。
 買う側と売る側が対等な関係で、日常会話の延長に過ぎないやりとりを交わすことに一度慣れた身には、店員と客とを上下に分断する過剰な接客は、どちらにとっても不幸せに感じられた。何か大切な、明るいものが失われているように思えた。
 そう、この不幸せは帰ってきた日本の空港からすでにはじまっていた。コミュニケーションの、日常の違いをまざまざと思い知らされて、敬子の胸はあのとき一瞬えぐられた。開いた心が再び閉じた。そして、これがここでの普通だったのだと、思い出さないわけにはいかなかった。
 それに、若い世代がたくさん集まる街にやって来たことで、再び、女の子たちへの違和感がぶり返した。違和感は街中に溢れ、笑い、おしゃべりに花を咲かせていた。
 敬子は、カフェの店内でも、気づくと女の子たちについつい目を向けてしまっていた。内側にカールした、シャンプーのコマーシャルみたいに天使の輪ができている前髪。カップを包むように持つ華奢な手。その爪に塗られた柔らかい色。「えー」と笑うと現れる小さな白い歯の列。
「この前、宇波ちゃんが、あ、敬子さんの後に入ってきた子なんですけど、その子が貯金がぜんぜんないって、何の話だったか忘れたんですけどそう言ったんですよ。そしたら吉田のおっさんが、それまでその話に参加していたわけでもないのに、何そんなに無駄遣いしてんの? 俺、貯金一千万くらいあるよ、とか急に横から言ってきて。給料や待遇が一緒だとでも思ってるんですかね。もし本気でそう信じてたらやばくないですか。無駄遣いしてるんじゃないですよね。貯金できるほどもらってないだけなのに」
 香川さんが、眉間に皺を寄せながら、やってられないという調子で言った。
「通常運転って感じだね」
 言うと、敬子は惰性でストローから飲み物を吸い上げたが、今から自分が何を飲もうとしているのか一瞬わからなくなった。うっすらと甘い味の液体が口の中に入ってきた。アイスティーだった。
「ただただ通常運転です。おっさんたちが意味不明にいばってて。なんなんでしょうね、毎日会社に行くたびに思うんです、わあ、なんだ、このおっさん地獄は、って。だから」
 一息置くと、香川さんは敬子の目を覗き込むようにして続けた。
「だから、あんなことがあって大変だったのはもちろんわかってますけど、でも、敬子さんがあのおっさん地獄を抜け出すことができてよかったと本当に思うんです」

 日が暮れるのがはやくなったと、早足で駅に向かいながら香川さんが言う。風も少し冷たくなったと。
 まだ現実に戻りきっていない気分の敬子は、速度は香川さんに合わせながらも、心の中はどこかのんびりしていた。
 前からスーツ姿の男性が歩いてきたので、敬子は香川さんの後ろに入るようにして、道を譲った。せかせかと揺れる、香川さんの細い肩が目の前にあった。
 男性が通りすぎたので、敬子はまた香川さんの横に並んだ。
「ねえ、香川さん、まだあのピンクのスタンガン持ってるの?」
「いつも持ってますよ」
 香川さんはまっすぐ前を向いたまま、何でもないことのように言った。
 駅に近づくと、人混みが増え、行き交う人たちの会話や街頭演説などで、一気に騒がしくなった。
 中でも、場を圧するような大きな音を出していたのは、ビルの三階の高さに取り付けられた街頭ビジョンだった。その音の大きさに、敬子は思わず顔を上に向けた。
 映っていたのは、一目でアイドルグループだとわかる女の子たちの姿だった。週間ランキングが発表されているらしく、彼女たちが激しく歌い踊っているミュージックビデオの左上には小さく、「1位」という文字の横に、グループ名と曲名が浮かんでいた。知らない名前だった。スピードを緩めない香川さんの後を追おうと敬子が視線を戻そうとした瞬間、一人の女の子の顔がアップになった。
 彼女は冷たい、射るような眼差しをして、敬子を見ていた。相手の心を竦ませるような、まっすぐな目。媚びていない、なんてレベルではなかった。まるで世界に喧嘩を売っているようだった。短い黒髪の毛先が、彼女の胸に宿った棘を表すかのように、小さな白い顔の周りでピンピンと跳ねている。
 敬子は歩くことをやめ、彼女を呆然と見上げていた。
「どうしたんですか?」
 敬子がついてきていないことに気づいて戻ってきた香川さんが、怪訝そうな顔をして、横に立っている。
 敬子は香川さんの細い腕をなかば無意識で強くつかむと、こう口にしていた。その声は夢を見ている人から発せられたようにひそやかだったが、有無を言わせない強さがあった。
「香川さん、あれだれ?」

持続可能な魂の利用

写真:岩倉しおり

Synopsisあらすじ

ある日、カナダから帰ってきた敬子は気づいてしまった。日本の女の子たちが〝最弱な生き物〟であることに――!「アンデル 小さな文芸誌」にて連載された、松田青子による「持続可能な魂の利用」がWebBOCにお引っ越し&再スタート。日本にはびこる悪しき因習に切り込み、世界を呼吸のしやすい場所にする。人生を楽しくパワフルに変身させる物語の誕生です。

Profile著者紹介

松田青子(まつだ・あおこ)

1979年、兵庫県生まれ。同志社大学文学部英文学科卒業。著書に『スタッキング可能』『英子の森』『ワイルドフラワーの見えない一年』(以上、河出書房新社)、『おばちゃんたちのいるところ』(中央公論新社)、翻訳書に『狼少女たちの聖ルーシー寮』『レモン畑の吸血鬼』(以上、カレン・ラッセル/河出書房新社)、『AM/PM』(アメリア・グレイ/河出書房新社)『問題だらけの女性たち』(ジャッキー・フレミング/河出書房新社)、エッセイ集に『読めよ、さらば憂いなし』(河出書房新社)、『ロマンティックあげない』(新潮社)などがある。

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