持続可能な魂の利用第15話

 いつからこうなったのだろう。
 考えてみるものの、答えは明らかだった。
 ずっと。
 ずっとずっとこうだったのだ。
 ただ、世の中はいい方向に進んでいくのだと、それは歴史が証明しているのだと、過ちは繰り返すものではないのだと、敬子は昔確かに学校で習った。
 その感覚は敬子の体内に染みついていて、だから、疑うことなどなかった。社会はいい方向に進んでいくのだと。それが社会というものなのだと。悪い部分は、公正ではない部分は改善されていくのだと。
 まさか、本気で昔に戻りたい人たちがいるなんて、思いもしなかったのだ。その人たちが時間をかけて、時計を逆戻りさせる準備を整えているなんて。そもそも一度も良くなってもいないのに、すべてはまだ過程だったのに。


 降水確率30パーセント。
 午後はやくににわか雨が降ったが、その後はセメントみたいな空が持ちこたえている。どっちにしろ気持ちはゆるがなかったし、かばんの中にはちゃんと紺色の雨合羽が入っている。
 敬子は空と同じ色をした会社のエントランスから出ると、駅に向かった。
 今日は雨に備えて、ゴム素材のフラットシューズをはいてきた。備えすぎたのか、社内には数人、長靴をはいてきている人もいたが、敬子の靴はローファータイプなので、レインシューズであることはほとんどわからない。昔にくらべてレインシューズの選択肢が増え、格段に過ごしやすくなった。
 ヒールの靴をはかなくなって、もうだいぶ経つ。
 学生時代の短期バイトのオリエンテーションで渡された、「望ましい」格好のイラストを敬子は覚えている。
 プリントには男女のイラストが描かれていて、男性は白いシャツにスーツ、黒い革靴、黒い髪。女性は白いシャツにスーツ、膝丈のスカート、ストッキング、ヒールの高さが指定されたパンプス、黒い髪。
 そのイラストは、働くとはこういうことなんだと、敬子の脳裏に素早くインプットされた。
 とはいえ、ヒールの高さを指定されたところで計るわけもなく、イトーヨーカドーの靴売り場で売られていた、安い合皮のパンプスを買ってはいていった。
 お金が必要だから働くのに、働くためにお金がかかる、というのは不思議なことであるように思ったが、まあ、そういうものだと言われたらしかたない。社会のルールやマニュアル通りにやってみるのが、物珍しくて面白い時期でもあった。言われるままにすると、自分が問題なく社会に収まることが面白かった。
 バイトの初日、同じように集められた敬子よりもだいぶ年上の女性たち、いわゆるおばちゃんたちが、現場の担当者に、スカートじゃなくてもいいですか、ヒールのある靴でなくてもいいですか、とわらわら詰め寄って掛け合うのを、まるで自分には関係ないことのように、少し離れたところから敬子はぼんやり見ていた。
 本部に連絡した後に、オッケーですと両手でまるをつくりながら担当者が戻ってくると、彼女は拍手で迎えられた。
 黒いスーツは持ってないんです、と紺色や灰色のスーツで貫き通すおばちゃん。ごめんね、ごめんね、足が痛くてねと、黒いスニーカーでやってくるおばちゃん。敬子のスーツのポケットに飴を突っ込んでくれるおばちゃん。ストッキング着用と言われていても、小花柄の靴下で現れるおばちゃん。
 彼女たちの姿を見て、働くとはこういうことなんだと、覚えたことを敬子はさらに上書きした。
 働くとは、「望ましい」格好のイラストをなあなあにすることだ。
 その〝学び〟はあながち的外れでもなく、その後も、どこの職場にいても同じような感じでなんとかなったし、周囲の女性も同様だった。目立たないようにルールを曲げ、それで何か言われたなら、明日から気をつけますと謝るが、数日すればまた元通り。
 正直なところ、ヒールをはいてないだの服装が規定に反しているだの化粧が濃いだの薄いだのと、とがめてくる人は、暇なだけに見えた。この世には暇な人が多すぎるのだ。
 それに、今ならわかることがある。
 あの頃の敬子は、おばちゃんたちがそうするのは、お金がもったいないからだろうと、本当に「望ましい」アイテムを持っていないのだろうと思っていた。それもそうだが、彼女たちは、ルールに従う気がはなからなかったのだ。
 もう一つ思い出すのは、二十代の終わり頃、友人が所属している吹奏楽クラブの発表会を見に、知らない街の市民会館まで行った時のことだ。
 舞台でピッコロを吹いている友人の勇姿をしっかりこの目に納めてやらなければと思うのだが、全員が黒いボトムスに白いシャツで統一している中に、一人だけ真っ赤なシャツを着て、軽快にホルンを吹き鳴らしている女性がいて、敬子の目はついつい彼女に引き寄せられた。
 終演後、ロビーに出てきた友人に赤シャツの女性のことを思わず訊ねると、シャンデリア型の照明の下で達成感をにじませた友人は笑いながら、「なんか白いシャツを持ってなかったみたい」と答えた。
 白いシャツなど当時でも二千円ぐらい出せば買えただろうし、シャツがなくても手持ちの白いTシャツやカットソーを着たら目立たなかっただろうに、シャツであることを最重要視した、シャツ着てるんだからいいだろうとでもいうような、発表会といえども新たに服を買うという考えが毛頭なかったホルンの女性のことを考えながら、敬子ははじめて来た今後二度と来ることもなさそうな街を後にした。駅前に大きなソテツの木があったことも覚えている。


 人々はすでに集まっていた。
 デモに参加するのははじめてだったが、「デモ」という言葉で以前敬子が想起していたような物々しさは特に感じられなかった。若い世代や同世代が多かったからかもしれない。
 いたるところで楽器の音がし、プラカードやバナーが溢れる空。どこかお祭りのような雰囲気があった。真剣なお祭り。
 最寄りの駅や官邸前の周辺には警官たちがずらっと立っており、SNSで先に注意喚起してくれていた通り、封鎖されていて遠回りさせられるというルートを避けて歩いてきたので、ここまで混乱せずにたどり着くことができた。それでも、肩にかけたかばんのひもを握る手にぎゅっと力がこもった。
 音楽とともに先頭から発せられるコールが、無数の人々の声に支えられて、力を失うことなく敬子のいる後ろのほうまで運ばれてくる。映像でしか見たことはないが、ライブで観客たちを信頼している証として、客席にダイブしたバンドのメンバーがそのまま観客の手に運ばれて後ろまで移動していくように。
 運ばれてきた言葉を消さないように、敬子も声を出す。
 怒りを帯びた音は思いのほか、明るかった。それとも、それを明るさと敬子が受け取れるようになったのか。
 人の群れがゆらゆらと揺れ、プラカードの上でも言葉が踊っている。
 気候の変化に対応できる服装を整え、飲み物を携帯し、地面とがちっと一体化する靴をはき、ここまでやって来た人たちがこんなにもいることに、敬子は今更ながら驚いた。
 仕事帰りだとわかる人たちも多い。
 仕事帰りにカジュアルにデモに寄る、そういう日常を敬子よりもずっと前にはじめていた人たち。通勤バッグから慣れた手つきで厚紙を出し、頭上高くに広げる姿は頼もしかった。
 自分は今、抗う人たちを見たかったのだ、と敬子は気づいた。抗う人たちの中にいたかった。
 確かに、「なあなあ」も一つの戦い方だった。一つの防御方法だった。
 でも、「なあなあ」にしているだけでは、いいところで折り合いをつけているだけでは、こちらの意思がまったく伝わらないのだと、残念ながら、そう認めるしかない状況だった。いや、伝われよ。普通にわかれよ。そう思う。それに尽きる。わからないほうがどうかしてる。でも、本気でわからないらしい、もしくはわからないふりをし続けてこのまま突っ切ろうとしている相手に対してどうすればいいのか。敬子はその答えを探していた。ここにいる人たちはみんなそうだろう。
 夜が降りてくる。
 参加者たちが発光している。
 100円ショップで売っているサイリウムや懐中電灯など、持ってくることを推奨されていた光りモノだ。
 敬子もスマートフォンの画面を空にかざすが、しばらくするとすぐにブラックアウトしてしまうので、またホームボタンを慌てて押す。
 その動作をもたもたと何度か繰り返していると、横にいた若いカップルの男の子が見かねたように、「こっちのほうが明るいですよ」と、スマートフォンの懐中電灯の機能を教えてくれた。途端に光源が強く大きくなり、敬子は高々と光を掲げた。光の数はどんどん増えていく。
「ねえ、後ろすごい」
「ほんとだ、すごい」
「最後が見えないね」
 そう高揚した声で話しているさっきのカップルにつられて振り返ると、いつの間にか後ろも人で溢れかえっていて、はじめは後方だったはずの敬子たちの位置は、今や中間あたりになっているようだった。
 ひときわ大きいコールが起こり、反射的に向き直ろうとした瞬間、敬子の目は彼女を捉えた。
 斜め後ろのほうで、大きめの黒いパーカーのフードを深めにかぶったショートカットの女の子が、敬子と同じようにスマートフォンを光らせている。ほかの人たちのように腕を空に向かって伸ばすのではなく、彼女は光を胸のあたりでぎゅっと抱いており、敬子がよく知っている白い顔が静かに照らし出されていた。
 ××だ。
 そう確信に貫かれた敬子が目を見開いたその時、前方で怒号と歓声が渾身の力でぶつかり合ったような音の塊が発生し、人々が突然前に向かって走り出した。
 けっかい、けっかい、という耳慣れない言葉が四方から聞こえてくるが、敬子はしばらく、その言葉にどんな漢字も当てはめることができない。
 結界?
 (陰陽師?)
 血海?
 (血の海は嫌だ。)
「前へ!」
「前へ!」
 誰もが叫んでいる。
 駆けていく人々に追い越されながら、邪魔にならないよう小走りで前に進みつつ必死に目で探したが、もうあの黒いパーカーの女の子は見当たらない。
 でも、敬子の目には彼女の姿が焼き付いていた。間違うはずがなかった。ここまで一途に見つめてきた相手を、間違うことなどあるものか。
 敬子は走った。

持続可能な魂の利用

写真:岩倉しおり

Synopsisあらすじ

ある日、カナダから帰ってきた敬子は気づいてしまった。日本の女の子たちが〝最弱な生き物〟であることに――!「アンデル 小さな文芸誌」にて連載された、松田青子による「持続可能な魂の利用」がWebBOCにお引っ越し&再スタート。日本にはびこる悪しき因習に切り込み、世界を呼吸のしやすい場所にする。人生を楽しくパワフルに変身させる物語の誕生です。

Profile著者紹介

松田青子(まつだ・あおこ)

1979年、兵庫県生まれ。同志社大学文学部英文学科卒業。著書に『スタッキング可能』『英子の森』『ワイルドフラワーの見えない一年』(以上、河出書房新社)、『おばちゃんたちのいるところ』(中央公論新社)、翻訳書に『狼少女たちの聖ルーシー寮』『レモン畑の吸血鬼』(以上、カレン・ラッセル/河出書房新社)、『AM/PM』(アメリア・グレイ/河出書房新社)『問題だらけの女性たち』(ジャッキー・フレミング/河出書房新社)、エッセイ集に『読めよ、さらば憂いなし』(河出書房新社)、『ロマンティックあげない』(新潮社)などがある。

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