北条氏康第二十五回

 四郎左と小太郎が部屋で話し込んでいると、
「兄ちゃん」
 廊下から奈々の声がする。
「奈々か。入りなさい」
 襖が開き、奈々が部屋に入ってくる。
「あ、これは」
 小太郎が慌てて姿勢を正す。伊豆千代丸も一緒だったからだ。その後ろに平四郎とお福もいる。
「若君です」
 四郎左に咎(とが)めるような視線を向ける。あぐらをかいたままでいるからだ。
「うむ」
 面倒臭そうに正座をする。
「おおっ」
 伊豆千代丸が驚きの声を上げながら、四郎左の前にぺたりと坐り込む。まじまじと四郎左の顔を見つめながら、
「その方(ほう)、名は何という?」
「山本勘助と申します」
「山本勘助か......。勘助と呼んでもよいか?」
「はい、もちろん」
「では、勘助。教えてくれぬか。なぜ、そのように醜い顔をしているのだ? わしは今まで、おまえのような醜い人間に会ったことがないぞ」
「若君! 失礼なことを訊いてはなりませぬぞ」
 お福が鋭い声で伊豆千代丸をたしなめる。
「そうか、訊いてはならぬことだったか。済まぬことをしたのう、勘助」
「いいえ、一向に構いませぬ。顔のことでとやかく言われるのには慣れているのです。好きでこんな不細工な顔になったわけではありませぬが、今ではまったく気になりませぬし、案外、自分では気に入っているのです......」
 そう言って、四郎左は、なぜ、これほど醜い顔になったのか、ということを伊豆千代丸に説明する。
 そもそもの原因は、十歳のとき、重い病に罹って生死の境をさまよったことである。かろうじて一命を取り留めたものの、ひどいあばた面になり、右目もほとんど視力を失った。聴力も弱くなった。
 今は、その当時よりも顔が崩れている。蒸し上げた蟹のような赤ら顔になり、右目は肉が盛り上がってほとんど潰れている。肉が盛り上がった分だけ頬の肉が引っ張られているので、右の口の端が攣(つ)り上がっている。
 なるほど、これほど醜い人間は広い世間にも滅多にいるものではない。伊豆千代丸が驚くのも無理はない。
「ふうん、そうか。病でそんな顔になったのか」
 伊豆千代丸がまじまじと四郎左の顔を見つめる。
「作り物ではございませぬ。本物でございますぞ。何なら触ってみますかな?」
「よいのか?」
「ええ、どうぞ」
「......」
 伊豆千代丸が恐る恐る四郎左の顔に手を伸ばす。まさに手が触れようとした瞬間、いきなり四郎左が口を大きく開けてにやりと笑う。
「ひっ」
 その笑いが、あまりにも不気味で迫力があったので、思わず伊豆千代丸が尻餅をつく。
「若君、いい加減になさいませ。青渓殿に何かお願いがあったのではないのですか?」
 お福が言う。
「ああ、そうであった」
 伊豆千代丸が小太郎に体を向ける。
「実はのう......」
 学問の時間を増やしたいのだ、と言う。勝千代が回復し、病床で学問に励む姿を見て、うかうかしていると、また勝千代に先に進まれてしまう、と焦りを感じたらしい。
「なるほど、それは結構な心懸けでありますな。しかし、何どきくらいにやるのがよいでしょう」
 勝千代と一緒に学べばよさそうなものだが、まだ勝千代は正座ができない。小太郎と二人だけのときには無礼講だから、時には寝たきりで学問することもあるが、まさか伊豆千代丸と同じ席で寝たきりというわけにはいかない。そうなると別々に教えるしかないが、今は軍法やしきたりを学ぶことにも時間を取られているので、案外、小太郎には暇な時間がない。とはいえ、伊豆千代丸の頼みを断ることもできない。小太郎の困惑顔を察したのか、
「差し出がましいことを申しますが、よろしければ、わたしが講義をして進ぜましょう」
 四郎左が口を開く。
「え、勘助が?」
 伊豆千代丸が驚いたように四郎左を見る。
「こんな醜い姿をしておりますが、わたしは青渓と共に足利学校で学びました。その後、思うところがあって京に上り、建仁寺でも学びました。金石斎先生の弟弟子に当たります。実戦の経験こそありませんが、どこぞの大名に召し抱えられれば、すぐにでも軍配者として役に立つ働きをする自信を持っております」
「ふうん、そうだったのか。何が得意なのだ?」
「何が得意といっても、兵法以外は大したことはありませんな」
「兵法のう......『孫子』か......それなら、もう学んでおるのう」
 伊豆千代丸がつまらなそうな顔になる。
「ふふふっ、青渓の教える兵法は『孫子』をしっかり読むことなのでしょうが、わたしは違いますぞ」
「どう違うのだ?」
「書物を使いません」
「ん? では、何を使う?」
「コマでございます」
「コマ?」
「白と黒のコマを使い、それを敵と味方に見立てて、大きな絵図面の上で戦わせるのです」
「勘助さん!」
 小太郎が慌てて止めようとする。四郎左がやろうとしているのは、つまり、図上演習である。足利学校では、軍配者になるための最終段階の教科として行われる。兵法書の内容を己の血肉として身に付け、和漢の軍記物を広く読み終えた上で、初めて図上演習が許される。兵法の基礎ができていない者が行えば、ただの遊びになってしまいかねない。
「心配するな。そう難しいことをするわけではない。いかがですかな、若君?」
「面白そうじゃな。やってみたい。構わぬであろう?」
 伊豆千代丸が小太郎を見る。
「はあ」
 うなずかざるを得ない。
(困った人だ)
 小さな溜息をつきながら、四郎左を見る。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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