北条氏康第二十二回

二十二

 廊下を歩いていると、背後で廊下を踏み鳴らす音が小太郎の耳に聞こえた。何の気なしに振り返った瞬間、目から火花が飛ぶ。声を上げる間もなく、廊下に転がる。鬼のような形相をした金石斎が仁王立ちで小太郎を見下ろしている。
(あ......)
 金石斎に殴られたのだとわかった。
「金石斎先生、これは、いったい......?」
「やかましい!」
 金石斎が小太郎の脇腹に蹴りを入れる。
 小太郎はエビのように体を折り曲げて呻(うめ)き声を発する。
「出過ぎた真似をしおって。身の程をわきまえよ」
「そ、そんなつもりは......ただ、御屋形さまに問われたので......」
「わしは、出陣の日取りを決めるために精進潔斎し、何度となく卦(け)を立てた。神が告げて下さった卦の意味を考え抜いて御屋形さまに申し上げた。おまえは、どうだ? 身を清めて卦を立てたか?」
「いいえ、それは......」
「おまえは思いつきを口にしたに過ぎぬ。わしを愚弄(ぐろう)したのだ。最初に申したはずだぞ。御屋形さまの軍配者がこの金石斎であることを忘れるな、とな。なぜ、余計な口出しをする?」
「わたしは、ただ......」
「うるさい!」
 金石斎がまた蹴りを入れる。うげっ、小太郎が身をよじる。
「できることなら、この場で、おまえを殺したい。八つ裂きにしてやりたい。だが、早雲庵さまの弟子であることに免じて一度だけは許してやろう。だが、覚えておくがいい。次は、殺す」
 またもや金石斎が蹴りを入れる。
 小太郎は意識を失った。

 どれくらい時間が経ったであろうか......。
 小太郎が薄く目を開けると、傍らに誰かが坐っている。
「だ、だれだ......?」
「ひどくやられたな。同情はしない。いい気になってつけあがるから、人の恨みを買うんだ」
「おまえ、慎吾(しんご)か?」
 体が一回り大きくなり、顔つきも大人びているが、それは間違いなく慎吾である。小太郎と同い年の従兄弟だ。六蔵(ろくぞう)の長男、あずみの兄である。
「久し振りだな。かれこれ四年振りか......」
「おれは、いったい......?」
「覚えてないのか? 金石斎にひどく痛めつけられたじゃないか。おれが運んでやったのさ。ここは、おまえの部屋だ。ゆっくり寝ていればいい。御屋形さまたちは、まだ大広間で宴を続けている。おまえたちが争ったことは誰も知らないはずだ」
「争ったわけではない」
「そうだな。おまえがやられただけの話だ。どうする、御屋形さまに訴えるか?」
「そんなつもりはないが......」
「そうだな。やめた方がいい。これ以上、金石斎に憎まれたら本当に殺されるぞ。殺し合いをするつもりなら、おれは止めないがね」
 ふふふっ、と慎吾が笑う。
「もういい」
 小太郎は体を起こそうとするが、うっと呻(うめ)き、顔を顰(しか)める。
「無理をするな。寝ていろ」
 慎吾が小太郎の胸を軽く押すと、小太郎はまた仰向けに横になる。
「なぜ、おまえがここにいるんだ?」
「上杉との戦が近いから、武蔵や甲斐に多くの仲間が忍び込んでいる。仲間から報告が届くと、それを知らせるために城に来る。父御の代わりを務めているんだ。普段は屋敷にいる」
「では、おれのことも......?」
「もちろん、知っていた。風間(かざま)村に向かう姿も遠くから眺めていた。おまえが気付かなかっただけのことだ」
 慎吾が肩をすくめる。
「叔父御にも言ったが、おれは伊豆千代丸(いずちよまる)さまの軍配者になるために小田原に帰ってきた。風間党の棟梁(とうりょう)になるつもりは......」
「心配するな。おまえを殺すつもりなどない。その気があれば、さっき廊下に倒れていたときに殺していた。おまえを殺して、その罪を金石斎になすりつけることもできた。この四年、おまえは足利学校で学問に励んだのだろうが、おれだって遊んでいたわけじゃない。忍びとして御屋形さまに仕えるために自分なりに励んできた。父御に連れられて武蔵や下総(しもうさ)にも旅をした。昔より成長しているつもりだ。人の殺し方もうまくなったぞ。韮山(にらやま)ではしくじったが、今ならへまはしない」
 慎吾が目を細めて、じっと小太郎を見つめる。かつて韮山で暮らしているとき、慎吾は小太郎を憎み、小太郎を殺そうとしたことがあるのだ。
「......」
「ふふふっ、おれが命を狙ったのは風間小太郎だ。風摩(ふうま)小太郎ではない」
「知っているのか?」
「おまえが小田原に戻る前に御屋形さまから聞かされた。御屋形さまは、父御とおれに風間党を任せるとおっしゃった。小太郎には風摩の姓を与え、別に家を立てさせる、とな」
「それで納得したのか?」
「おまえが風間党でなくなれば、おまえを殺す理由もなくなる。納得できないのは、おまえの方じゃないのか? 風間党から追い出されるわけだからな」
「おれは伊豆千代丸さまの軍配者になって、北条家が支配する国を守っていきたいと思っている。風間であろうと風摩であろうと、どうでもいい。ただの小太郎でいい」
「それが本心なのか?」
「疑うのか?」
「いや、信じるよ」
 慎吾が立ち上がる。
「おまえの言葉を疑い、おまえの命を奪おうとしたりすれば、今度はおれが命を狙われる。妹に殺されるのは真っ平だ」
 慎吾ががらりと襖(ふすま)を開ける。暗い部屋の真ん中にあずみが蹲(うずくま)っている。両手で短刀を握っている。
「小太郎との話は終わった。まだ動けないだろうから、おまえが世話をしてやれ」
 慎吾はあずみに言うと、小太郎を振り返り、
「頼もしい用心棒だな」
 と笑う。
 慎吾が部屋から出て行くと、
「そこで何をしていた?」
「兄者が小太郎に悪さをしようとしたら、兄者を刺すつもりだった」
 あずみが顔を上げずに答える。
「慎吾を刺すだなんて......。実の兄ではないか。なぜ、そんなことを......?」
「小太郎は伊豆千代丸さまの軍配者になる人だ。北条のためになくてはならない人だもの。奈々にとっても、わたしにとっても......」
 あずみが顔を上げる。その顔は涙に濡れている。
「兄者よりも小太郎の方が大切だもの」
 あずみがわっと声を上げて泣き出し、小太郎の胸に体を投げ出す。
「あずみ......」
 その感情の激しさに驚きながらも、小太郎はあずみの背中を優しく撫(な)でてやる。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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