北条氏康第三回

 氏綱は襖(ふすま)の横に坐り、腕組みして目を閉じている。
「殿」
 十兵衛が声をかけると、氏綱は目を瞑(つむ)ったまま人差し指を口の前に立てる。声を出すな、というのだ。
 十兵衛は黙ってうなずくと、部屋の隅に腰を下ろす。静かに耳を澄ましていると、襖の向こうから子供の声が聞こえてくる。伊豆千代丸の声だ。
 伊豆千代丸は氏綱の嫡男で、九歳になる。
 ちょうど手習いの時間なのであろう。

 善く兵を用うる者は
 役は再びは籍せず
 糧は三たびは載せず

(ふうむ、『孫子』か......)
 十兵衛は、さして学問は得意ではないが、それでも『孫子』くらいは読んでいる。先代の宗瑞は家臣に学問を奨励し、学問のある者を重く用いた。それを氏綱も踏襲しているから、氏綱に仕えるには、好むと好まざるとにかかわらず、ある程度の学問はどうしても必要なのだ。
 伊豆千代丸も幼い頃から学問を始めている。毎日、決められた時間、しっかり学ばなければならない。それが日課である。学問だけでなく、剣術の稽古もしなければならず、たまに十兵衛も稽古をつけてやる。氏綱の後継ぎだからといって甘やかされることはまったくない。むしろ、人並み以上に厳しく教育されている。
 伊豆千代丸は四書五経のうち、すでに『論語』『孟子』『大学』『中庸』という四書を学び終えており、一年ほど前から五経、すなわち、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』を学び始めている。子供が理解するには、なかなか難しい内容で、十兵衛など、いくら読んでもさっぱり理解できない。伊豆千代丸が五経を学んでいることは知っていたが、そこに『孫子』まで加わっていることは知らなかった。
 四半刻(三十分)ほどして......。
「今日は、ここまでにしておきましょう」
 宗真(そうしん)の声が聞こえる。
 宗真は韮山にある香山寺(こうざんじ)の住職・以天宗清(いてんそうせい)の弟子で、二十四歳の青年僧である。大徳寺系の僧侶には法号に「宗」の一字が入るのが習わしだ。
 宗真は、僧侶になるための当たり前の修行をしただけでなく、京都にいる頃、兵書も多く読んだ。兵書は漢籍であり、漢籍を数多く所有しているのは大きな寺である。それ故、この時代、僧侶が兵書を読むのは珍しいことではなく、中には、軍配者として大名に召し抱えられる者もいる。
 宗真は軍配者にはならなかったが、兵書の知識は豊富である。それを見込んで、氏綱は宗真を伊豆千代丸の兵書教授役に任じた。二日に一度、宗真は韮山から小田原にやって来て、伊豆千代丸に兵書を講義する。
 隣室に人の気配がなくなった。宗真も伊豆千代丸も退出したのであろう。
「待たせたな」
 氏綱が目を開けて十兵衛に顔を向ける。
「若君の学問は随分と進んでいるようでございますな。もう『孫子』を学んでいるとは驚きました」
「そうかのう」
 氏綱は渋い顔である。
「何か気になることでもあるのですか?」
「学問の進み方が遅すぎる。とっくに『孫子』を終えて『呉子』に入っていてよさそうなものなのに一向に進んでおらぬ。伊豆千代丸は学問に身が入っていないような気がする......」
 わしが伊豆千代丸と同じ年頃には、もっと、熱心に学問していた、と氏綱は更に渋い顔になる。
「御屋形さまと比べては、若君がかわいそうでございましょう。若君なりにがんばっているように見受けられますが」
「本当に、そう思うか?」
「はい」
「では、訊く。正直に答えるのだぞ」
「何なりと」
「伊豆千代丸は剣術の稽古に身を入れているか? 少しでも上達しようと努めているか」
「え」
「正直に、と申したぞ」
 氏綱が睨む。
「剣術は、あまりお好きでないようでございます」
「好き嫌いを言って、どうする? 学問とて同じではないか。この世には学問より楽しいことがたくさんある。難しい書物など読まず、同じ年頃の子供たちと野山を走り回ったり、双六(すごろく)や貝合わせをする方がよほど楽しかろう。そんなことは、わしにもわかっているのだ。わしとて、伊豆千代丸がかわいくないわけではない。できることなら、伊豆千代丸の好きなようにさせてやりたい。しかし、伊豆千代丸は、いずれ、わしの後を継がなければならぬ身だ。そのためには学問も必要だし、剣術も必要なのだ。もっともっと苦しい思いをしなければならない。わしは父上から、そう躾けられた。だから、わしも伊豆千代丸を厳しく躾けなければならぬ。伊豆千代丸が柔弱で愚かな主になれば、この家が滅びる。家臣たちも領民たちも塗炭の苦しみを味わうことになるのだ。そんなことはさせぬ」
「......」
 氏綱の口調の激しさに、十兵衛は言葉を失う。
「何か考えねばならぬ。今のままではよくない」
 己に言い聞かせるように、氏綱がつぶやく。
 ふと顔を上げて十兵衛を見ると、
「わしに用があったのではないのか?」
「ああ、そうでございました......」
 門前での出来事を簡単に説明し、懐から油紙の包みを取り出し、氏綱に渡す。
「父上の手紙を持ってきた駿河者のう......」
 訝(いぶか)しげな顔で氏綱が包みを開けて手紙を読み始める。やがて、
「その者たちに会おう。広間に通すがよい」
「よいのですか?」
「うむ」
「では」
 十兵衛が腰を上げると、
「福島上総介正成(まさなり)という今川の家臣を存じておるか?」
 と、氏綱が訊く。
「名前だけですが......。確か、武田との合戦で死んだように聞いた覚えがあります。それが何か?」
「門前にいるのは、福島殿の身内らしい」
 手紙を油紙に丁寧に包み直しながら、氏綱が言う。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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