北条氏康第十六回

十五

 勝千代(かつちよ)は城下に与えられている屋敷ではなく、小田原城に運ばれて治療された。城にいれば、手厚い治療を受けることができるし、容態が急変しても即座に医師が対応できるからであった。
 警護の武士たちも負傷したが、いずれも命に関わるほどの重傷ではない。
 勝千代の傷が最も重かった。
 猪の突進をまともに食らって牙で刺された。その傷から大量に出血している。突き上げられて放り上げられ、地面に落下したが、そのときに全身を強く打ったせいで、腕や足を骨折した。とにかく、ひどい大怪我なのである。
 しかも、城に運ばれてから高熱を発した。
 勝千代は昏睡状態で、時折、
「ううっ、うっ......」
 と苦しげな呻き声を洩らす。
 手当てした医師は、
「手や足の怪我は、時間はかかりましょうが、いずれ治るので、さほど心配はいりませぬ。心配なのは腹の傷でございますな......」
 と小首を傾げ、その傷から毒が体内に入ったかもしれぬ、勝千代の発熱は、そのせいではないか、というのであった。
 小太郎に倒された猪も小田原城に運ばれたが、子牛ほどの大きさもあり、その牙も並の猪のそれとは比べものにならないほど大きかった。全身が泥だらけで、牙も薄汚れていた。その汚れに何らかの毒性があり、その毒が勝千代の体内に入ったのではないか、というのが医師の見立てであった。実際、猪の牙に突かれた武士たちの傷も腫れて化膿し、中には勝千代と同じように熱を出している者もいる。
「父上、勝千代は助かりましょうな?」
 伊豆千代丸は涙目で氏綱を見上げる。
「勝千代は強い子だ。猪などには負けぬ」
 氏綱が大きくうなずく。
 しかし、その表情の険しさを見れば、勝千代の容態が少しも楽観できないのは明らかだ。
「勝千代は、わたしを助けようとしてこんなことになったのです。勝千代の身に何かあれば、わたしはどうすれば......」
「今はそんなことを考えてはならぬ。勝千代がよくなることだけを祈るがよい」
「病室で勝千代のそばについていてやりたいのですが......」
「それは、ならぬ」
 氏綱が首を振る。
「今は医師が懸命に手当てしている。病室に行ってはならぬ。勝千代が目を覚ますのを待つがよい」
「でも......」
「ならぬ」
 氏綱がじっと伊豆千代丸を睨む。
 伊豆千代丸は黙り込んでしまう。
 氏綱はお福に、頼むぞ、と声をかけると部屋から出て行く。
 伊豆千代丸の部屋には、お福の他に平四郎と奈々もいる。
 怪我をしたのは勝千代だけで、伊豆千代丸、平四郎、奈々は無傷だった。
 しかし、三人とも血まみれで城に運ばれる勝千代の姿を見て動揺している。
 勝千代のそばに付き添いたいという伊豆千代丸の願いを氏綱が許さなかったのは、そのせいである。万が一、勝千代が死ぬようなことになれば、伊豆千代丸がどれほど大きな衝撃を受けるかわからないと危惧したのである。
「大丈夫なのだろうか?」
 伊豆千代丸が心配そうにお福を見遣る。
「きっと大丈夫でございますよ」
「弁千代(べんちよ)や志乃は病室にいるのでしょうか?」
 奈々が訊く。
「いいえ、御屋形さまがおっしゃったように、病室には医師だけしか入ることを許されていないようでございます。弁千代や志乃は病室の隣の部屋にいるのでしょう」
「二人だけでは心細いであろうな。そこに行ってはダメかのう?」
 伊豆千代丸が訊く。
「二人きりではございませんよ。乳母や大黒(おおぐろ)殿もいるはずです。十兵衛殿もいるでしょうし、他にも誰かいるはずです」
「そんなに多くの者がいるのならば、わしらも行っても構わぬのではないか? 父上は病室に行ってはならぬとはおっしゃったが、病室の隣の部屋に行ってはならぬとはおっしゃらなかったぞ」
「それは......」
 お福が困惑する。氏綱とすれば、勝千代が助からなかったとき、その死に姿を伊豆千代丸に見せたくないという配慮から病室に行くことを許さなかったのである。要は今の勝千代の姿を伊豆千代丸に見せたくないわけだから、病室であろうと、病室の隣の部屋であろうと、勝千代のそばに行くことは許されないのだ。
 お福には、氏綱の気持ちがわかっている。それでなくても伊豆千代丸は心が優しく、何かあるとすぐに泣き出してしまうような女々しいところがある。自分のために勝千代が死んだとなれば、どれほど嘆くか想像もできない。
 とは言え、それを正直に勝千代に言うわけにもいかないので、お福は困ったのである。
「若君、わがままを言ってはなりませぬぞ」
 そこに十兵衛がやって来た。
 十兵衛は伊豆千代丸の前に坐ると、
「勝千代は必死に怪我と戦っております」
「助かるか?」
「わかりませぬ」
 十兵衛が首を振る。
「明日の朝まで持ちこたえれば大丈夫だろうと医師は申しております。今夜が峠ということでしょう」
「わしは何をすればよい? 勝千代のために何かしたいのだ」
「勝千代は、若君を守ろうとして脇差し一本で猪に立ち向かいました。無茶なことをするものです。刀や弓を持った武士たちですら歯が立たなかったというのに脇差しでは勝てませぬ。しかし、そうせざるを得なかったのでしょう」
 十兵衛はじっと伊豆千代丸を見つめると、
「若君、もっと稽古に励みなさいませ。ご自分を鍛えるのです。自分の身を自分で守ることができるようになれば、このようなことは起こりませぬ。それが勝千代のためでございますぞ」
「わかった」
 伊豆千代丸が立ち上がる。
「稽古をする。勝千代が助かるよう神仏に祈りながら素振りをするぞ」
「よき心がけでございます」
 十兵衛が頭(こうべ)を垂れる。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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