北条氏康第十五回

十四

 まずは氏綱(うじつな)に帰着の挨拶をしなければ、と思ったが、生憎、氏綱は城にいなかった。日暮れまでには戻る、と小太郎は聞かされた。
 奈々に会うのも久し振りだったが、伊豆千代丸(いずちよまる)と同じように奈々も動揺しており、落ち着いて話ができる状態ではなかった。伊豆千代丸と奈々、それに平四郎(へいしろう)の三人はお福に連れられて奥に入った。怪我をしている様子はなかったが、念のために医師の診察を受けるためである。心配な点がなければ、その後は休憩を取ることになった。
 小太郎は控えの間に通された。侍女が白湯(さゆ)を運んできたが、それきり放置された。
 別に小太郎は気にしなかった。足利(あしかが)学校にいるとき、一日に一度は座禅を組んだ。心の中を空っぽにして、何も考えず、ただ坐るのである。学問に励みすぎて頭の中が混乱したときや、心に迷いが生じてどうしていいかわからなくなったときには何度でも何時間でも座禅を組んだ。これも宗瑞(そうずい)の教えであった。
 今も座禅を組んだ。足利学校での学問を切り上げ、小田原にやって来た。これからの生活は今までの生活とは、まるっきり違ったものになるはずだ。その点に何の不安も感じていないわけではないし、いくらか心細さも感じている。
 そういうときにこそ座禅を組むのだ。
 どれほど時間が経ったものか......。
 板戸の引かれる音がして、
「小太郎、よく戻ったな」
 十兵衛が小太郎の正面にあぐらをかいて坐り込む。
 小太郎は座禅を解いて顔を上げる。
「お久し振りでございます」
 丁寧に頭を下げる。
「立派になったではないか、小太郎。見違えたぞ」
「その姿は......。どうなさったのですか、緑雲(りょくうん)さま?」
 小太郎は十兵衛の法号を口にした。
 四年前、宗瑞が亡くなった直後に十兵衛に会ったとき、宗瑞の菩提を弔うために出家したと十兵衛は言い、剃髪して墨染めの衣をまとっていた。
 ところが、小太郎の前に現れた十兵衛は武士の格好をしている。髪も伸びているし、とても出家には見えない。
 氏綱の手で箱根湯本に早雲寺(そううんじ)が建立され、そこに宗瑞の墓も作られているから、てっきり十兵衛も早雲寺にいると思い込んでいた。
「それはよせ」
 十兵衛が手を振って苦笑いする。
「おまえが青渓(せいけい)でなく小太郎に戻ったように、わしも緑雲でなく伊奈十兵衛に戻ったのだ」
「いや、それは......」
 足利学校で学ぶ者は僧形でなければならないという決まりがあるので、小太郎も在校中は僧服を身にまとっていたものの、本当に出家したわけではない。十兵衛とは事情が違う。
「出家なさったのではないのですか?」
「正式に得度はしなかった。早まったことをするなと以天(いてん)和尚に止められてな」
「和尚さまにですか?」
「出家遁世して早雲庵さまの菩提を弔うのも大切なことだが、それは自分に任せて、伊奈十兵衛にできることをするべきではないのか、とな。そう言われてみれば、まともに読経もできないわしにできるのは墓守くらいだが、伊豆・相模を奪おうと虎視眈々と狙う敵が四方にいて、国を守るために御屋形さまが苦労されているときに、のんびり墓守などしていられない。箱根に行くのは早雲庵さまの祥月命日だけで、それ以外のときは小田原か韮山(にらやま)にいる。上杉との戦が始まれば、わしも兵を率いて出陣するつもりでいるから、今は、その支度で忙しい」
「戦になるのですか?」
「戦になるかならぬかという話ではない。いつ戦が始まるかという話だ。年が明ければ、すぐに戦になるだろう。上杉の方から攻めてくれば明日にでも戦が始まっても不思議ではない」
「大きな戦になるのでしょうか」
「そうなるだろう。御屋形さまも並々ならぬ覚悟でおられる。連日、大道寺(だいどうじ)殿を伴って各地に出かけておられるのも、すべて戦支度のためだ」
「やはり、そうでしたか」
「やはりとは、どういうことだ?」
「庠主(しょうしゅ)さまが、そうおっしゃいました」
「さすが足利学校の庠主だな。耳が早い」
「長い戦になるだろうともおっしゃっていました。わたしを小田原に呼び戻したのも、何年も先を見据えて経験を積ませるためであろう、と」
「御屋形さまは、おまえに大きな期待をかけておられる。何だか浮かぬ顔をしているな。戦が嫌なのか、それとも、怖くなったのか? 誰でも初めて戦に出るときは恐ろしい。震えるのが当たり前だ」
「そうではありません。ただ......」
「ただ、何だ?」
「戦になって、民が苦しむのが哀れなのです。戦を始めるには、村から人手を集めなければなりません。村から大切な働き手を奪うことになります。敵国に攻め込めば、村や田畑を焼くこともあります。敵軍を苦しめるためです。しかし、敵軍よりも、もっと苦しむのは、敵国の民です。民を苦しめることなく敵軍を打ち破る方法がないものかと考えましたが、そんな方法を見付けることはできませんでした」
「そんなことが言えるとは大したものだ。一回りも二回りも大きくなったな。おまえの話を聞いて、わしは早雲庵さまの言葉を思い出したよ」
「早雲庵さまの言葉?」
「早雲庵さまは何十度という合戦をなさったが、一度として敗れたことがない。そんな御方だから、てっきり早雲庵さまは戦が好きなのだろうと思って、それを口にしたことがある。すると早雲庵さまは笑いながら、それは違うぞ、十兵衛、わしは戦が大嫌いだから戦をするのだ、とおっしゃった。そんな禅問答のようなお答えだったから、わしにはその言葉の意味がよくわからなかったが、今になってみると、その言葉の意味がわかる気がする。伊豆を見よ、相模を見よ。戦で家や田畑を焼かれることもないし、代官や地侍が好き勝手に年貢を取り立てることもない。民の暮らしは、昔よりもずっと楽になっている。飢え死にしたり、他国に逃げ出す者もいない。早雲庵さまは、こういう国を作るために戦をしておられたのだな、とわかるようになってきた」
「戦をなくすために戦をする。それで民が安心して暮らすことができるようになる......」
 小太郎が難しい顔でつぶやく。
「御屋形さまが伊勢氏から北条氏へと姓を改められたのは、ご自分が管領(かんれい)になろうという覚悟の現れだ。管領になれば、関東諸国に号令し、北条家の家法を真似るように命令できる。そうすれば、武蔵や上野(こうずけ)、下野(しもつけ)などの民も伊豆や相模の民と同じように楽な暮らしができる。武士どもが互いに争うこともなくなる。決して負けるわけにはいかない戦いだぞ。御屋形さまが上杉に負ければ、伊豆と相模の民は昔の苦しい暮らしに戻り、他の国々の民も救われることがない。御屋形さまが上杉を倒し、関東に号令するようになれば、そのときこそ関東から戦火が消える。そのための戦いだ」
「......」
 小太郎は呆然とした。そこまで遠大な理想を氏綱が掲げているとは知らなかった。
 しかし、十兵衛が熱く語るのを見れば、その理想がしっかり家中に浸透していることがわかる。
(早雲庵さまの志を引き継ぎ、関東のすべての国々を伊豆や相模のように民が暮らしやすい国にする。そうすれば戦もなくなる。そうか。上杉との戦いは、戦をなくすための戦なのか......)
 亡くなって四年経った今でも、宗瑞に対する小太郎の尊敬の念は少しも薄れていない。生涯の師と言っていい。氏綱が宗瑞の志を受け継ぐというのなら、十兵衛と同じように自分も全力で氏綱に力添えしなければならない、と小太郎は思った。胸の中にもやもやと蟠(わだかま)っていた迷いが晴れ、明るく視界が開けたような気がした。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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