北条氏康第九回

 一刻(二時間)ほど後、氏綱と十兵衛は、お福から報告を受けた。
「うまくいきましたな」
「ぬか喜びにならねばよいが」
 氏綱は渋い顔だ。伊豆千代丸が勝千代や弁千代と学問や剣術稽古を一緒にするのは嫌だとわがままを言ったとき、いつもの氏綱であれば頭ごなしに怒鳴りつけたであろう。それをこらえたのは、
「若君さまの方から、また一緒にやりたいと言わせるようにしなければ無駄でございます」
 と、十兵衛に釘を刺されていたからである。
 いくら周りから強制されても、自分からやる気にならなければどうにもならない......伊豆千代丸がそういう性格だと十兵衛は見切っているのだ。
「若君は甘やかされすぎなのです。少し厳しくした方が今後のためかと思います。そのためには、競い合う仲間がいた方がよいのです。かといって無理強いすれば駄々をこねる。それ故、策を弄して、自分から一緒にやりたいと言うようにしたのです」
「今までにもいろいろやってきたぞ。厳しくすれば、すぐにめそめそと泣く。意気地のない子よ。先が思いやられるわ」
 氏綱が溜息をつく。
「ご心配には及びますまい」
「なぜ、そう言える?」
「以前、宗瑞さまからうかがったことがあるのです。子供の頃は学問が嫌いで、遊び呆けてばかりいたそうです。悪さばかりするので、いつも叱られていたとか。実は、わたしもそうでした」
「おまえもか」
「はい。剣術の稽古は好きでしたが、学問が嫌で嫌で仕方ありませんでした。そんなわたしでも、今は伊奈衆を率いて殿にお仕えしております」
「伊豆千代丸も変わってくれればよいが......」
「きっと変わってくれるはずです」
「そう願いたいものよ」
「話は変わりますが」
「何だ?」
「小太郎(こたろう)を呼び戻すというのは本当ですか? ちらと小耳に挟んだのですが」
 小太郎というのは奈々の兄で、今は下野(しもつけ)の足利(あしかが)学校で学んでいる。宗瑞に見出され、将来、伊豆千代丸の軍配者となるべく教育されているのである。
「うむ、そうしようと考えている。小太郎が足利学校に行って、かれこれ四年になる。それで十分なのか、まだ学び足りないのか、わしにはわからぬ。しかし、北条には小太郎が必要だ。書物で学び足りぬところは実戦で学んでもらうしかない」
「では、いよいよ武蔵に?」
 十兵衛の目がきらりと光る。
「こちらが行かねば、向こうからやって来るであろうよ。扇谷(おうぎがやつ)上杉と山内(やまのうち)上杉が和睦の話を進めているらしいのだ」
「あの不仲な家同士がですか?」
「背に腹は代えられぬのであろう。いがみ合ったままでいると、いずれ北条にやられるとわかっているのだ。たとえ憎み合っていようと、元を辿れば同じ上杉一族なのだから、北条の軍門に降(くだ)るよりは手を結ぶ方がましと考えたのであろう。奴らが手を結び、支度を調(ととの)えて相模に攻め込んでくる前に、こちらから武蔵に攻め込むのだ」
「いつ頃でしょうか?」
「年が明けたら、と考えている」
「それまでに小太郎を呼び戻すわけですな?」
「両上杉との合戦で軍配を振るわせようとは考えておらぬ。さすがに荷が重かろう。しかし、戦には連れて行くつもりだ。軍配者としての小太郎の器量を見極めることもできようしな」
「なるほど」
 十兵衛がうなずく。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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