Interview著者インタビュー

「わしは、もうやらぬ。決してやらぬ。そう十兵衛(じゅうべえ)に申し伝えよ」
 悔し涙を浮かべながら、伊豆千代丸(いずちよまる)が乳母のお福にまくし立てる。
 剣術の稽古で屈辱を味わったのだ。
 そもそも伊豆千代丸は剣術稽古が好きではない。苦手なのである。棒で人を打つのも嫌だし、打たれるのも嫌なのだ。学問も好きではないが、剣術ほどではない。
「若君も元服なされば、いずれ戦に出ることになりましょう。しっかり剣術の稽古に励んでおかなければ自分の身を守ることができませぬぞ」
 と、十兵衛に諭されても、
「十兵衛が守ってくれればよいではないか」
 と平気な顔をしているほどなのである。
 父の氏綱(うじつな)がいくら厳しく育てようとしても、どうしても大名の若君として甘やかされた弱々しさや浮き世離れしたのんきさが出てしまう。
 仕方がないと言えば仕方がない点もある。
 祖父の宗瑞(そうずい)は、備中の荏原郷(えばらごう)に高越(たかこし)城主の子として生まれたが、次男だったこともあり、さして大切に育てられたわけではない。それどころか継母に嫌われ、命を狙われたこともある。京都に上って室町幕府に仕えたものの下級官吏に過ぎず、官を辞して駿河に下ったときは身ひとつであった。
 氏綱が生まれたのは、宗瑞が興国寺(こうこくじ)城の主となった年である。城と言っても大して大きな城ではなく、砦と言った方がよさそうな小さな城だったし、宗瑞も今川の家臣という立場だった。
 その後、宗瑞は伊豆に攻め込んで堀越公方・足利茶々丸を追い払い、伊豆の守護となったが、戦に次ぐ戦の日々で、氏綱も元服してからは宗瑞に従って合戦に明け暮れた。
 つまり、宗瑞にしろ氏綱にしろ、その立場は盤石とは言い難く、伊勢氏など吹けば飛ぶような存在に過ぎなかった。
 それに引き替え、伊豆千代丸が生まれたときは、まったく違っている。
 伊豆は完全に制圧され、宗瑞の支配の下で平穏な国となり、三浦氏を新井城に追い詰め、相模の支配も着々と進んでいた。伊勢氏は伊豆と相模という二ヵ国を領する大名にのし上がり、周辺国から怖れられるようになっていたのだ。氏綱が子供の頃は、いつ敵に攻められるかもしれぬという危険と常に隣り合わせだったが、伊豆千代丸にそんな危険はない。小田原城でぬくぬくと育ってきたのだ。良くも悪くもお坊ちゃま育ちなのである。
 そんな伊豆千代丸に氏綱が苛立ちを覚えたとしても、そもそも生まれ育った環境が宗瑞や氏綱とはまるで違っているのだから、どうしようもないのである。
 午前中、勝千代(かつちよ)と一緒に学問して、伊豆千代丸は恥をかいた。伊豆千代丸がきちんと読むことができなかった『孫子』を、勝千代はすらすら読んだのである。悔しくて腹が立ったものの、勝千代は自分と同い年だというし、今までどれくらい学問してきたのかもわからなかったから、
(まあ、やむを得ぬ)
 と自分を慰めた。
 ところが午後の剣術稽古でとんでもないことが起こった。
 勝千代には歯が立たなかった。
 何度立ち合っても伊豆千代丸が負かされた。腹立たしいのは勝千代が全力を出し切っていないことが明らかだったからだ。間違いなく、伊豆千代丸より腕が上だったのだ。
 腹は立ったものの、学問で負かされたときと同じように、これまでよほど学問と剣術稽古に励んできたせいだろう、と諦めることができた。
 とんでもないことというのは、それではない。
 何と伊豆千代丸は弁千代(べんちよ)にも勝てなかったのである。勝千代のように完敗というわけではない。三度立ち合えば、一本か二本は伊豆千代丸が取った。
 だが、伊豆千代丸は九歳、弁千代は四歳である。まだ幼児といっていい年齢だ。背丈も伊豆千代丸より頭ひとつ分は低い。目方も少なく、腕も細い。
 伊豆千代丸が勝って当たり前なのだ。
 しかし、そうはならなかった。
 せいぜい互角、厳しく見れば、伊豆千代丸の方が分が悪かった。誰もそんなことは口にしなかったが、伊豆千代丸にはわかった。それが屈辱なのである。
 あまりにも腹が立ったので、稽古を終えて自分の部屋に戻るなり、伊豆千代丸は、お福に怒りをぶちまけたというわけなのである。
「あの兄弟と一緒に剣術稽古をするのが嫌なのですか?」
「うむ、もうやらぬぞ」
「十兵衛殿が許しますまい」
「十兵衛のことなど知らぬ。とにかく、わしは嫌なのじゃ。そう決めたのじゃ」
「とりあえず十兵衛殿に話してみましょう」
「学問もだぞ」
「え?」
「もう勝千代とは共に学ばぬ」
「それは......宗真(そうしん)さまが、どうおっしゃいますか」
「そう伝えよ」
「御屋形さまがお怒りになるやもしれませぬが。それでもようございますか?」
「......」
 御屋形さまという言葉を耳にして、伊豆千代丸は咄嗟に懐の金時に手をやった。以前、伊豆千代丸を懲らしめるために、氏綱は金時を奪ったことがあるのだ。それが今でも傷となって心に残っている。
「構うものか」
 伊豆千代丸は強がった。氏綱への恐怖心よりも、今は勝千代や弁千代に対する憎しみの方がずっと強いのだ。
「わかりました。宗真さま、十兵衛殿、そして、御屋形さまにもお話ししてみましょう」
 お福がうなずく。

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