北条氏康第六回

 数日後、伊豆千代丸が学問部屋に入ると、見知らぬ少年がいた。
 いつもは上座に宗真が坐り、それと向かい合う位置に伊豆千代丸の文机が置かれている。一対一の学問なのだ。
 ところが、今日は文机がふたつ並べられており、そのひとつの前に少年が坐っている。
「......」
 廊下からじっと少年を見つめていると、
「どうなさいました。お入りなさいませ」
 宗真が声をかける。
「うん」
 伊豆千代丸が腰を下ろすと、
「初めてお目にかかります。今川家の家臣・福島上総介の嫡男、勝千代と申しまする」
 勝千代は姿勢を正し、両手を畳について伊豆千代丸に挨拶する。いきなりのことなので伊豆千代丸は言葉を発することもできず、ぽかんとしている。
「何か、お言葉を」
 宗真が促す。
「あ......ああ、わしは伊豆千代丸じゃ。よろしく頼む」
「挨拶はそれくらいにして、早速、学問を始めることにいたしましょう。二人が揃って学ぶのは、これが初めてですので、おさらいも兼ねて、『孫子』を最初から読み直すことにいたします。若君、まずは、お手本を示して下さいますか?」
「う、うむ、いいぞ」
 伊豆千代丸が冊子を開く。隣に見知らぬ少年がいるので、いくらか緊張した様子で、大きく深呼吸してから、

 孫子曰く
 兵は国の大事
 死生の地
 存亡の道
 察す......
 察す不可......

「察せざるべからず」
 宗真が言う。

 察せざるべからず
 故にこれを経するに......

「故にこれをはかるに」
 また宗真が言う。

 故にこれをはかるに五事を以てし......

 そこで伊豆千代丸の声が消える。その先を読むことができなくなってしまったのだ。
 伊豆千代丸が黙り込むと、
「若君、何度も読み直さなければ身に付かぬと申し上げたはずです。怠けてしまったようですね」
「......」
「勝千代、そなたはどうか?」
「大丈夫です」
「では、続きを」
「はい」

 故にこれをはかるに五事を以てし
 これをくらぶるに計を以てし
 その情けをもとむ

 勝千代は、すらすらと流れるように読み下していく。よほどしっかり学んだことは明らかであった。
 伊豆千代丸は、真っ青な顔で唇を噛んでいる。
 一刻(二時間)ほど経って、
「では、今日は、これまでにいたします。次までに、今日のおさらいと、この先のところをきちんと下調べしておいて下さいませ」
 宗真が一礼し、講義が終わる。
 勝千代は、宗真と伊豆千代丸に向かって深く頭を下げたが、伊豆千代丸はそっぽを向いたまま、不機嫌そうな顔で席を立つ。
 午前中に学問を終えると、午後には剣術の稽古をしなければならない。
 その時間になって、支度を調えた伊豆千代丸が庭に出ると、いつもは十兵衛一人だけなのに、他にも二人いた。一人は勝千代である。もう一人は小さな男の子だ。
 伊豆千代丸が問いを発する前に、
「勝千代のことは、もうご存じでございますな。こちらは勝千代の弟・弁千代でございます」
 十兵衛が紹介する。
「弁千代にございます」
 地面に片膝をつき、頭を垂れて弁千代が挨拶する。
「うむ、伊豆千代丸じゃ。しかし......」
「何か?」
 十兵衛が訊く。
「この子も一緒に稽古するのか?」
「さようでございます」
「小さすぎるのではないか? 弁千代、おまえはいくつだ?」
「四歳でございます」
「四歳か......。一緒に稽古するのは無理であろう」
「大丈夫でございます」
 気の強そうな顔で、弁千代が伊豆千代丸を見上げる。
「勝千代と弁千代がこれまでにどれくらい剣術稽古に励んできたか、わたしが確かめております。心配には及びませぬ」
 じっと伊豆千代丸の目を見つめながら、十兵衛が言う。
「......」
 伊豆千代丸は十兵衛が苦手である。言葉遣いは丁寧だし、家臣としての礼儀もわきまえているが、こうと決めたことは何があろうと譲ろうとしない。頑固者の石頭なのだ。それがわかっているので、
「ふんっ、もうよいわ。好きにせよ。その子が怪我をしても知らぬからな」
 伊豆千代丸は、ぷいっとそっぽを向く。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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