北条氏康第四十九回

十三

「若君」
 宗真(そうしん)が伊豆千代丸(いずちよまる)に呼びかける。
「......」
 伊豆千代丸は、ぼんやりしたまま、宗真の言葉にも気が付かないようだ。
「若君、先生が......」
 横に坐っている平四郎(へいしろう)が伊豆千代丸の膝に手を当てる。
「え」
 伊豆千代丸がハッとしたように顔を上げる。
「お気持ちはわかりますが、若君が普段と変わりなく学問に励むことが御屋形(おやかた)さまを元気づけることになるのではないでしょうか」
「は、はい......」
 うなずいた伊豆千代丸の目から、いきなり涙が溢れる。
 宗真も、そして、共に学んでいる平四郎と勝千代(かつちよ)も大いに驚く。
「わたしは......わたしは父上のことが心配でならぬのです。もしや、父上はすでに身罷(みまか)られているのではないかと......」
「まさか、そのようなことはございません。あるはずがない」
 宗真が首を振る。自信を持って打ち消したというのではなく、そう信じたいという思いが言葉に滲(にじ)んでいる。
 白子原(しらこはら)に向かう途中、冬之助(ふゆのすけ)の待ち伏せ攻撃を受け、氏綱(うじつな)は重傷を負った。かなりの重傷で、一時は生命すら危ぶまれたほどである。
 実際、
「御屋形さまが亡くなられた」
 という噂が流れ、家臣たちは動揺した。
「そんなことはない。御屋形さまは生きておられる」
 と重臣たちが必死に打ち消したが、肝心の氏綱が皆の前に姿を見せないので、噂が消えることはなかった。
 北条氏の動揺を 衝(つ)くように、扇谷(おうぎがやつ)上杉(うえすぎ)軍が攻勢をかけてきた。氏綱の死を信じた武蔵の豪族たちが寝返ったこともあり、衰亡の危機に瀕していた扇谷上杉氏は息を吹き返したのである。
 兵力では北条軍が上回っていたが、氏綱が動くことのできない状態では積極的に打って出ることもできず、どうしても守勢に回らざるを得なかった。
 本来であれば、江戸城で治療して養生させるべきだったが、氏綱を船に乗せて小田原に運んだのは、江戸城を攻められ、万が一、江戸城を落とされるようなことになったら、北条氏が滅びるかもしれないからであった。絶対安静が必要な氏綱を小田原に運ぶのは危険だが、江戸城にいるのは、もっと危険だったのである。
 頼りになる後継者がいればいいが、嫡男の伊豆千代丸はまだ十一歳の少年で、元服もしていない。氏綱の身に何かあったとき、伊豆千代丸では北条氏を支えることはできない。
 それ故、どんなことがあっても氏綱の命を守らなければならないというのが重臣たちの一致した考えだった。
 小田原に戻ってからも、氏綱は家臣たちの前に姿を見せなかった。家臣どころか、家族にも会っていない。氏綱の病室に入ることを許されているのは、医師、身の回りの世話をする小姓と女房、それに大道寺(だいどうじ)盛昌(もりまさ)と松田顕秀(あきひで)の二人だけである。
 当然ながら、家臣たちは、
「御屋形さまのお加減は、いかがでございますか?」
 と、盛昌と顕秀に訊くことになるが、
「ううむ、何とも言えぬ。今しばらく養生していただかねば」
 などと曖昧なことしか言わない。
 氏綱に口止めされているのか、それとも、正直に口にできないほど氏綱の容態が悪いのか、その判断もつかず、家臣たちは気を揉むしかなかった。
 嫡男の伊豆千代丸ですら見舞いを許されていないということが事の深刻さを雄弁に物語っている。
 伊豆千代丸は何度となく、
「父上を見舞わせて下さいませ」
 と、盛昌と顕秀に頼んだが、
「なりませぬ」
 と二人は首を振るだけで、詳しい事情を何も教えてくれない。そのことが、かえって伊豆千代丸の不安をかき立てることになる。氏綱のことが心配でたまらず、学問にも身が入らないのだ。
「そうご心配なさいますな。御屋形さまは、日々、よくなっているに違いありませぬ」
 勝千代が伊豆千代丸を励ますように言う。
「なぜ、そんなことがわかるのだ?」
「なぜなら......。わたしが、そう信じているからでございます」
「わしとて信じたい。信じたいが、武蔵から戻ってから、一度もお目にかかっていないのだ。本当のところ、どうなっているのか......」
 伊豆千代丸の表情が曇る。
 そこに、
「お邪魔いたします」
 廊下から小太郎(こたろう)が声をかける。
「おお、青渓(せいけい)さま、どうなされた?」
 宗真が顔を向ける。
「御屋形さまが若君に会いたいと申しておられます。大切な学問の最中ではありますが、中座させていただけませぬでしょうか」
 小太郎が言うと、えっ、という声を発して伊豆千代丸が跳(は)ねるように立ち上がる。
「父上が?」
「はい」
「先生、構いませんか?」
「ええ、もちろんですとも。早くお行きなさい」
 宗真がうなずくと、伊豆千代丸が廊下に走り出る。
「さあ、青渓先生、早く」
 伊豆千代丸が小走りに先になって進む。気が急(せ)いて仕方がないといった様子である。
「若君、最初に申し上げておきますが、御屋形さまはひどい様子をしておられます。どうか驚かないで下さいませ」
 小太郎が沈んだ表情で言う。
「そんなにひどいのか......?」
 伊豆千代丸が不安そうな目で小太郎を見る。
「はい、わたしも、ついさっきお目にかかったばかりですが、正直なところ、とても驚きました」
 氏綱が小田原城に戻ってから、小太郎も目通りがかなわなかったので、氏綱の容態については何もわからなかった。十兵衛(じゅうべえ)がいれば、何かしら情報を得られたかもしれないが、その十兵衛自身、白子原の合戦で深手を負い、今もまだ出仕していないという状態なのである。
 氏綱を心配し、気を揉んでいたところ、今朝になって呼び出しがあった。病室に入って氏綱の姿を見て、小太郎は愕然とした。自分と同じような驚きを感じさせないために、伊豆千代丸の衝撃を少しでも和(やわ)らげるために、あらかじめ心の準備をさせようと思ったのである。
「御屋形さまは生死の境をさまよい、必死にがんばって、この世に戻って来られたのです。たとえ、どのようなひどい姿であろうと、今は生きておられる......それが何よりも大切なことだと存じます」
「わかった。もう何も言うな。わしが驚いたり泣いたりすれば、父上が悲しむ。そう言いたいのであろう?」
「はい」
「心配ない。わしとて北条家の嫡男だ。女々しい姿を見せはせぬ」
 伊豆千代丸は胸を張ったが、小太郎にはそれが虚勢に過ぎないとわかっていた。それでもよかった。何の心構えもしないで氏綱に会うよりは、ましだと考えたからだ。
 病室の前には小姓たちが控えている。
 伊豆千代丸は大きく息を吸うと、
「父上、伊豆千代丸でございまする」
 と声をかける。
 小姓たちが襖(ふすま)を引く。
(あ)
 思わず足が止まり、瞬きも忘れてしまう。
 病床に横たわっている氏綱は、全身を晒(さら)しで巻かれている。顔にも巻かれ、わずかに鼻と口、目が出ているだけだ。晒しは頻繁に取り替えられているはずなのに、それでもかなり血と膿(うみ)が滲んでいる。
 傍らに医師が坐り、氏綱の脈を取っている。
「......」
 氏綱が伊豆千代丸に顔を向け、左手をわずかに持ち上げる。横に坐れ、と言いたいらしいが声を出すことができないのだ。
「若君、そこに」
 小太郎が伊豆千代丸の肩に手を置いて、坐るように促す。
「うむ」
 伊豆千代丸が氏綱の傍らにちょこんと坐る。覚悟してきたつもりだったが、それでも、氏綱のひどい有様を目(ま)の当たりにして平静ではいられないらしく、今にも泣き出しそうに顔が歪(ゆが)んでいる。
「泣くな」
 氏綱がかすれるような声で言う。
「は、はい」
「泣いてはならぬぞ」
「はい」
「強くなれ。わしも......」
 氏綱が咳(せ)き込む。
「わしも......」
「何でございますか?」
 伊豆千代丸が氏綱の口許に耳を近付ける。
 やがて、顔を離すと、承知しました、と小さな声で言い、一礼して腰を上げる。
 氏綱は満足げにうなずくと、目を瞑(つむ)る。疲れてしまったらしい。
 病室を出て、廊下を歩き始める。
 渡り廊下で足を止め、小太郎を振り返ると、
「父上は、こうおっしゃった。強くなれ。わしも強くなる。強くなって、必ず生きる、とな」
「そうでしたか」
「わしは強くなるぞ、小太郎。わしが強い男になれば、父上も安心して養生できるだろう。父上に何かあったときは......」
 伊豆千代丸の目に涙が溢れる。
「そのときは、わしが北条の家を守っていかなければならぬ」
「立派なお心懸けでございます。どうか、わたしにも手伝わせて下さいませ」
 小太郎の目にも涙が滲んでいる。
 小太郎は伊豆千代丸の祖父・宗瑞(そうずい)に見出され、伊豆千代丸の軍配者となるべく教育されてきた。それは小太郎が選んだ道ではない。他に選ぶべき道などなかったのだ。
 だが、このとき初めて、小太郎は自らの意思で、
(生涯をかけて、おれは若君に尽くそう。若君のために生きるのだ)
 と己の運命を決めた。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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