北条氏康第四十六回

 小太郎は盛んに首を捻(ひね)りながら、馬の背で揺られている。扇谷上杉軍の不可解な動きが気になって仕方がないのである。
 すでに、白子原に達した先鋒の軍勢と扇谷上杉軍との間で戦いが始まっているという。
 敵軍は、およそ三千。
 北条軍の先鋒も三千だから兵力は互角である。
 中軍の松田顕秀も、行軍速度を上げて白子原に向かっているから、恐らく、あと半刻(一時間)もすれば到着するはずである。中軍は五千で、先鋒と合流すれば八千になる。それだけでも扇谷上杉軍を圧倒しているが、更に氏綱の後軍七千もそれに加わる。
 戦の素人であっても、扇谷上杉軍に勝ち目がないことはわかる。
 金石斎が言ったように、世間に見栄を張るために南下の素振りを見せたのであれば、今頃は、とっくに河越城に逃げ帰っているはずだ。
 しかし、そうはならず、扇谷上杉軍は白子原に布陣し、北条軍を迎え撃っている。
(もしや総大将だけが逃げたのでは?)
 側近の曾我兵庫あたりに采配(さいはい)を任せ、朝興は河越城に逃げ帰ったのではないか、と疑ったが、大道寺盛昌からの報告では、敵の本陣には、朝興がいることを示す旗が翻(ひるがえ)っているという。
(なぜだ? なぜ、みすみす負けるとわかっている戦をする)
 それが小太郎にはわからない。自分が扇谷上杉軍の軍配者だったならば、何としてでも朝興を止めるはずであった。
 ふと、
(養玉(ようぎょく)さんは、どうしているのだろう......)
 足利(あしかが)学校で共に学んだ曾我冬之助のことを思い出した。
 冬之助は小太郎とまったく違う考え方をする軍配者である。
 小太郎は、いい意味でも悪い意味でも優等生であり、兵法の常識に従った作戦を立案する。
 冬之助は、まるで違う。
 天才肌なのである。
 兵法の常識をいくら積み重ねても、決して出てこないような奇抜な策を生み出す力がある。それが見事にはまったのが去年一月の高縄原(たかなわはら)での合戦だ。その戦いで、北条軍は完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされ、氏綱は命からがら戦場から逃れるという屈辱を味わった。
 合戦で大敗したにもかかわらず、江戸城を奪うことに成功したのは太田三兄弟が扇谷上杉氏を裏切ったからである。北条氏が得意とする調略が威力を発揮したのだ。太田三兄弟の裏切りがなければ、勢いに乗る扇谷上杉軍は相模(さがみ)に雪崩(なだ)れ込み、小田原(おだわら)に迫ったかもしれない。そこまで北条氏を追い詰めた立役者が冬之助なのである。
(本当にすごい人だ。まだ傷の養生を続けているのだろうか)
 高縄原の合戦の翌日、冬之助が命に関わるほどの重傷を負ったことを、小太郎は知っている。
 しかし、その後の消息はわからない。恐ろしい敵ではあるが、誰よりも信じられる友でもある。何とか傷を癒やして復帰してほしいと願わずにいられない。
 もし冬之助が復帰して朝興のそばにいれば、白子原で北条軍に決戦を挑むような愚かな真似を決してさせないだろう、と小太郎は思う。まさか、それが冬之助の立案した作戦だとは夢にも想像できない。優れた軍配者というのは、まず敵方の軍配者の狙いは何かということを考える。
 小太郎も考えている。
 しかし、わからない。
 冬之助が復帰していないとすれば、朝興のそばにいる曾我兵庫が軍配者の役目を果たしているのだろうが、小太郎は、これまでに曾我兵庫がどういう戦い方をしてきたか知らない。
 だから、曾我兵庫の狙いがわからない。
 ただ、兵法を少しでも学んだことのある者なら絶対にやらないようなことを曾我兵庫と朝興はやろうとしている。なぜ、そんなことをするのか、いくら考えても小太郎にはわからない。
 もしかすると、白子原の朝興は囮(おとり)で、どこかに伏兵を隠しているのではないか、とも疑った。
 しかし、白子原には三千近くの扇谷上杉軍が布陣しているという。それは蕨城を包囲していたのと同じ数である。つまり、伏兵などいないということだ。
 もちろん、それでも安心できないから、慎吾に頼んで白子原周辺に風間党の忍びを多数放ち、念入りに偵察してもらっているが、今のところ伏兵は見付かっていないという。
(なぜだ、いったい、何が狙いだ?)
 馬の背で揺られながら、小太郎は思案を続けている。
 突然、馬ががくっと崩れる。ぼんやりしていたので馬から落ちそうになる。慌てて姿勢を直す。
 何が起こったのか、と周囲を見回す。道がぬかるんで、それに馬が足を取られたのだとわかった。前後にいる馬たちも体勢を崩している。
 道は森に入っていくが、片側は沼地で足場が悪い。道が狭くなっているので、慎重に馬を進めなければならない。小太郎のようにぼんやりしていると、道を踏み外してしまいかねない。うっかり沼地に落ちてしまったら、そこから馬を引っ張り出すのが大変だ。
(沼地、森......。まさか......)
 小太郎がハッとする。
 恐ろしい想像をして背筋がゾッと寒くなる。
「おい、ちゃんと前を見ていないと、また落馬するぞ」
 背後から声をかけられる。振り返ると、小走りに慎吾が近付いてくるところだ。
「どうした、何だか顔色が悪いぞ。あ......そうか。合戦を前にして、びびっているんだろう」
「......」
「ふんっ、冗談だよ。そんなに怒るな。また知らせが届いた。やはり、伏兵などいそうにないぞ。何も見付からない」
「罠だ」
「あ?」
「これは扇谷上杉が仕掛けた罠だ」
「おいおい、何を言ってるんだ」
「ここから白子原まで、森と沼地に挟まれた細い道を進まなければならない。どこかで待ち伏せされて不意を衝(つ)かれたら防ぎようがない」
「何度も言うが、伏兵などいない。まあ、わずかの兵であれば、われらの目をごまかすこともできるかもしれないが、少しくらいの兵で襲ってきても大したことはないだろう。悪あがきに過ぎぬ。どうせ戦には勝てぬさ」
「戦に勝つつもりはないのだ」
「何だと?」
「一万五千と三千だぞ。どうあがいても勝てぬことは子供にもわかる。だから、合戦に勝つつもりはないのだ。しかし、たとえ合戦に勝てなくても、他のやり方で勝つ手立てがないわけではない」
「戦で勝てないのに、どうやって......」
 そこまで口にして、慎吾の顔色が変わる。
「まさか、御屋形さまのお命を!」
 恐ろしい想像である。万が一、総大将の氏綱が討ち取られれば、その瞬間、北条軍は崩壊する。もはや数の勝負ではなくなる。
 歴史を俯瞰(ふかん)すれば、総大将の死によって戦局が大きく変わった事例は枚挙(まいきょ)に遑(いとま)がない。
「すぐに人を集められるか?」
「周りにいくらでもいるではないか」
「いちいち説明している暇がないし、こんなところで立ち往生したら、それこそ危ない。何の説明もせず、おまえが命じたことに黙って従う者は、どれくらいいる? 今すぐに、という意味だ」
「四十人くらいかな。風間党だけなら二十人くらいだ。偵察に出かけて戻っていない者が多いから」
「それでいい。その四十人を集めて御屋形さまのそばに来てくれ」
「おまえは、どうする?」
「先に御屋形さまのところに行く。白子原に向かってはならないと進言し、一里ほど戻って、開けた場所に布陣していただく。白子原の戦は大道寺さまと松田さまに任せておけば心配ない」
「承知した」
 大きくうなずくと、慎吾が駆けていく。
(くそっ、おれとしたことが)
 小太郎が舌打ちする。
 なぜ、氏綱のそばにいなかったのかと悔やまれる。そばにいれば、これが罠だと気が付いた時点で、すぐに氏綱に知らせることができた。
「すまぬ、通してくれ。御屋形さまに申し上げることがある」
 兵や馬たちを押(お)し退(の)けるように、小太郎が前に進もうとする。
 しかし、なかなか思うように進むことができない。
 兵たちが意地悪しているわけではなく、道が狭いので、小太郎に道を譲(ゆず)ることが難しいのだ。
(これなら走った方が速い)
 そう見極めると、そばにいた兵に、
「風摩(ふうま)小太郎だ。この馬を頼む」
 と乗っていた馬を預け、徒歩で進むことにした。しばらく進んだとき、うおーっというどよめきが聞こえた。前方から聞こえる。
 それを聞いた小太郎は、
(しまった)
 と唇を噛(か)む。
 扇谷上杉軍の伏兵が氏綱に襲いかかったのに違いなかった。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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