北条氏康第三十六回

 夕方、耳八が慌てた様子で木樵小屋に戻ってきて、
「会うそうです。日が暮れたら屋敷に来てくれってことでして」
 と、慎吾と小太郎に告げる。
「もう話がついたのか?」
 慎吾が驚いた様子で訊く。
 初めて調略の手を差し伸べるとき、相手もあれこれ疑ってかかるので、思うように事が進まないのが普通である。何度も書状を送って、少しずつ相手の警戒心を解いていくしかないのだ。それには時間がかかる。今回もじっくり腰を据えてかからなければならないだろうと慎吾は覚悟していた。
 にもかかわらず、こうもあっさり相手が会うというのだから慎吾が驚くのも当然であった。
「屋敷の小者に金を握らせて、さっきの手紙を主に渡してくれるように頼んだんですが、すぐに奧から主が出てきて、日が暮れたら訪ねてくるように青渓に伝えてくれ、と。いやあ、びっくりしました」
 額の汗を拭いながら、耳八が言う。
「そんな簡単にいくものなのか?」
「こんなことは初めてですよ」
「怪しいのではないか。まず、おれが一人で会おうか?」
 慎吾が小太郎の顔を見る。
「いや、心配ないだろう。周徳さまは足利学校の先輩だ。お人柄は、よく知っている。おかしなことをする人ではない」
「おまえがそう言うのならいいが......。話し合いの席には、おれも同席するぞ。万が一、ということがあるからな」
 どうやら、慎吾は小太郎の用心棒役を務めるつもりでいるらしい。

 その夜......。
 闇夜に紛れて、小太郎と慎吾は耳八の案内で岩付の城下に入った。周徳の屋敷に着くと、すぐに奧に通された。
「まるで客人扱いではないか。こんなことは初めてだ」
 板敷きに腰を下ろすと、慎吾が首を捻る。狐狸(こり)の類(たぐ)いに化かされている気がするのである。
 さして待つこともなく、周徳が現れ、二人の前に腰を下ろす。
「おおっ、青渓、久し振りだな。よく訪ねてくれた。嬉しいぞ」
 人のよさそうな三十男である。
「お懐かしゅうございます」
 小太郎が丁寧に頭を下げる。
 周徳は小太郎が足利学校に入る何年も前から在校していた大先輩である。
 思うように学業が進まず、二年も経たないうちに、あっさり小太郎に抜かれてしまった。その頃になると、周徳の方が小太郎に教えを請(こ)うような立場になっていた。
 しかし、そんな自分を卑下することもなく、小太郎を嫉(そね)むこともなく、
「青渓、おまえは若いのにすごいなあ」
 と素直に感心し、小太郎が何か教えてやると、お礼に饅頭(まんじゅう)や焼き芋を食わせてくれた。優等生ではなかったが、とびきり人のいい男だった。
 小太郎が小田原に戻る半年ほど前に、周徳は卒業を断念して退校し、故郷の岩付に戻った。成績が優秀であれば、小太郎の友・養玉(ようぎょく)(曾我冬之助(ふゆのすけ))のように扇谷上杉氏の軍配者になる道も開けたであろうが、中退したことで、その目は消えた。
 とは言え、足利学校で学んだという経歴があれば、田舎豪族の軍配者くらいにはなれる。周徳が渋江一族の出だということを小太郎は知っていたから、岩付城で軍配者として奉公しているのではないか、と推測した。
 城主の資頼でなく、城代の渋江三郎に調略を仕掛けるべきだ、と小太郎が氏綱に進言したのは、
(周徳さまを説得できれば、きっと渋江三郎殿を味方に引き込むことができる)
 という見通しがあったからである。
 しばらく小太郎と周徳は、足利学校時代の仲間たちの消息について語り合った。かつて同じ釜の飯を食った親しい仲間が久し振りに再会したときの最も大きな喜びであろう。
 やがて、二人の話題は北条氏と扇谷上杉氏の戦いに関することへと移っていく。軍配者にとって最大の関心事は、やはり合戦沙汰なのである。
「高輪では、最初はこっちが勝っていたのに、次の日には、こっちが負けていた。あっさり江戸城まで奪われてしまった。おまえも、あの戦に出ていたのか?」
「軍配者として同行したのではなく、実戦を間近で経験せよという御屋形さまの指図で同行しただけです」
「ふうん、そうか。おまえが北条の軍配者として戦に出ていたら、高輪で養玉と手合わせしていたのになあ。それなら面白いなあと期待していたのだが」
 もちろん、最後には扇谷上杉に勝ってほしかったのだが、と周徳が笑う。
「え」
 小太郎が驚く。
「あの戦で軍配を振ったのは養玉さんなんですか?」
「そうだよ。すべての策を養玉が考え出した。すごい奴だよな。今だから正直に言うが、扇谷上杉の者だって、まさか勝てるとは誰も思っていなかった。時間稼ぎをして、北条が相模に引き揚げるのを待てばいいという者ばかりでな。山内(やまのうち)上杉が加勢してくれれば話は別だが、御屋形さまが病で臥せっているから援軍を出してもらうことができない。自分たちだけで北条と戦えば、まず負けるだろうと皆が考えていた。実は、おれも、そう思っていた。だからこそ驚いた。ものすごく驚いたよ。一流の軍配者とは、こういうものかと感心もした」
「養玉さんがひっくり返したわけですね?」
「ああ、そうだ。次の策も考えていたらしいから、太田三兄弟の裏切りがなければ、北条もただでは済まなかったはずだぞ」
「そう思います」
 小太郎がうなずく。周徳の言う通りだ。高輪で大敗を喫した後、すぐさま氏綱が江戸城攻めを決断したからこそ、北条氏は九死に一生を得た。ぐずぐずと夜が明けるのを待っていたら、冬之助がまたもや恐ろしい罠を仕掛けてきたに違いない。高輪の戦いに続いて、またもや敗北するようなことになれば、北条氏は滅んでいたかもしれないのだ。それを思うと、小太郎は背筋が寒くなる。
「扇谷上杉の御屋形さまが河越(かわごえ)城から動かないのが、わたしには不思議です。すぐにでも江戸城を奪い返そうとすると思っていましたから」
「軍配者がいなくては兵を動かすこともできまいよ」
「軍配者が? 養玉さんがいるじゃないですか」
「ん?」
 周徳が怪訝な顔になる。
「ああ、知らないのか。養玉だが、危うく命を落とすところだった」
「え」
「流れ矢が胸に当たってな。大変な重傷だった。よく助かったものだ。死んでも不思議はなかった。今も養生しているはずだ」
「そうだったのですか」
 冬之助が無事であれば、江戸城を奪い返す策を捻り出していたはずだ。頼りにしている軍配者が重傷を負ったせいで、朝興は兵を動かすことができなかったのであろう。
「......」
 慎吾は目を丸くしながら二人の会話を聞いている。
 当然であろう。
 小太郎と周徳は敵と味方なのだ。北条と扇谷上杉の新たな戦いが明日にも起こるかもしれないという状況なのである。そんなときに、双方の軍配者同士が、何の隠しごともしようとせず、ざっくばらんに腹を割って楽しそうに話し合っているのだから、慎吾が驚くのも無理はない。
 足利学校で学んだ軍配者同士だけが持つことのできる独特の友情なのである。
「さて、そろそろ話を聞こうか。まさか、わしを懐かしんで小田原から来てくれたわけではあるまい?」
 周徳の表情が引き締まる。
「遠回しな言い方はしません。北条に味方して下さいませんか」
 小太郎が言う。
「扇谷上杉を裏切れというのか?」
「周徳さまにとっても渋江一族にとっても、大切なのは岩付を守ることではありませんか。戦になれば、村も田畑も焼かれ、岩付は荒廃してしまいます」
「北条に味方すれば、そうならないと言うのか?」
「なりませぬ」
 小太郎がうなずく。
「扇谷上杉としては、何よりも江戸城を取り戻すことを第一に考えなければならぬはず。岩付城は後回しです」
「江戸城を御屋形さまが奪い返せば、岩付城も奪い返されることになる。御屋形さまは裏切り者を容赦せぬ。渋江一族は根絶やしにされてしまうではないか」
「今の扇谷上杉に、江戸城を奪い返すだけの力がありますか?」
「......」
「小田原の御屋形さまは、渋江一族が北条に味方してくれれば、いずれ城を与えると申されております。遠い話ではありませぬ。恐らくは年内に」
「城だと? まさか岩付城を預けるとは言うまい?」
「渋江一族が岩付城を望んでいるのは承知しておりますが、さすがに彦六殿を差し置いて岩付城を与えるとは言えませぬ。代わりに蕨(わらび)城を預けましょう」
「蕨城だと? あれは扇谷上杉の城ではないか」
「今はそうですが、近々、北条の城になります」
 小太郎がにこっと笑う。
「自信満々だな」
「扇谷上杉と北条の力を比べて、最後にはどちらが勝つと思われますか? 忠義を尽くして故郷を追われるか、新たな主に仕えて父祖の眠る土地を守っていくか、よくよく考えるべきではないでしょうか」
「青渓、おまえの言いたいことはわかる。わしなど三流の軍配者に過ぎぬが、そのわしの目から見ても、今の扇谷上杉では北条に歯が立たぬことくらいはわかる。山内上杉と武田が味方してくれなければ、どうにもならないだろう。そして、両家共に援軍を送ってくれそうにない」
「そもそも山内上杉と武田は不仲ですから、力を合わせて扇谷上杉を助けようとは考えないでしょう」
「わしら渋江一族が北条に味方すると決めても、彦六殿が納得するとは限るまい。それでなくても御屋形さまや曾我殿から疑われているのだし、そう簡単には首を縦に振るまいよ」
「何をおっしゃいますか。周徳さまさえ覚悟を決めれば、何も難しいことなどありませぬ」
「ふうむ......」
 周徳が険しい表情で腕組みする。
(この男、もう寝返るつもりでいる)
 慎吾は黙って二人の話を聞いていたが、いつの間にか周徳が小太郎に丸め込まれ、扇谷上杉を裏切るつもりになっていることに驚いた。これほどすらすらと容易に調略が成功したことなど今まで一度もない。
 もちろん、小太郎と周徳が足利学校における先輩後輩という親しい間柄だからこそ、話し合いが円滑に進むのであろうが、それにしてもあり得ない展開と言っていい。自分の目で見ているのでなければ、とても信じられなかったであろう。
 その驚きは、小太郎に対する驚きでもある。
(ただのお人好しだったくせに、いつの間にこんな駆け引きを身に付けた?)
 相手を利で釣るだけでなく、こちらに味方しなければ、先祖代々住み慣れた土地を追われ、一族が滅びることになるぞ、と優しげな表情を崩すことなく、さりげなく恫喝しているのだ。厳しい現実を突きつけた上で、北条に味方せよ、と説いている。
 周徳の心は北条に傾いているが、そう簡単に決断できない事情がある。岩付城を預かっているのは太田彦六資頼であり、周徳と同族の渋江三郎は、その補佐役に過ぎない。
 まず資頼を説得しなければならない。
 しかも、資頼を説得できても、もうひとつ大きな障害がある。岩付城には曾我兵庫の腹心・陣内掃部介が二百人の兵と共に駐留している。
 曾我兵庫は資頼の謀反(むほん)を疑い、万が一、謀反の兆しが見えたら、資頼を殺せと陣内掃部介に命じている。そういう事情を資頼も察しているから、どちらも扇谷上杉支配下にあるとはいえ、まるで敵と味方のようにいがみ合い、城内で喧嘩刃傷沙汰が絶えないのだ。
 難しい状況に置かれているのだと訴える周徳に対し、小太郎はにこにこ笑いながら、苦境を脱する策を授けた。それを聞いて、慎吾は、一瞬、背筋が寒くなり、
(こいつは昔の小太郎とは違う)
 と思い知らされた。
 この数年で慎吾も変わったが、それ以上に小太郎も大きく変わっていたのだ。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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