北条氏康第三十一回

 翌朝早く、十兵衛は一千の兵を率いて出発した。
 小太郎と四郎左(しろうざ)が同行する。
 それに先立って、多くの斥候(せっこう)を放ち、武田軍の動きを探るように命じた。
 昼過ぎ、武田軍が居座っている場所まで三里に迫ったところで、十兵衛は兵たちに休息を与えた。その場所に続々と斥候が戻ってきて、武田軍に関する情報を伝える。
「さて、どうすればいい? おまえたちの考えを聞かせてもらおう」
「わたしもですか?」
 四郎左が驚いたように十兵衛を見る。北条家の家臣ではなく、ただの部外者である。戦に口出しできる立場ではない。
「構わぬ。二人で武田退治の妙案を捻り出してもらおう。こっちは一千、向こうは五千だ。どうする?」
「五千といっても、やはり、まやかしだったではありませんか」
 なあ、と四郎左が小太郎に同意を求める。
 予想通りというか、予想以上に武田軍はひどい状態なのである。指揮を執っているのは信虎だが、武田軍と呼べそうなのは二千ばかりで、あとの三千は農民で、ろくに武器も持っていない。老人や女子供まで交じっている。
 数では劣るが、一千の精兵が不意を衝(つ)いて襲えば、武田軍を粉砕するのは、さして難しいことではないはずであった。
「まやかしだろうが何だろうが、その連中が御屋形さまが治めている国を荒らしているのだ。武田に食い物を奪われれば、相模の民が飢える。ここで思い知らせておかないと、味を占めて何度でも同じことをするだろう。盗人どもめが」
 十兵衛が吐き捨てるように言う。
「おっしゃる通りだと思います。しかし、まともに戦うことすらできない者たちを攻撃すれば、多くの者を死なせることになります」
「それが盗人の定めというものだ。他人のものを盗めば、たとえ殺されても文句など言えない」
「でも......」
「年寄りや女子供を助けるために武田兵だけを選んで戦うということもできまい。戦になれば、こっちも必死に戦うだけだ。下手に手加減などすると、手痛いしっぺ返しを食うことになる」
「戦になれば、武田軍は村に火をつけます。村人も殺されるでしょう。武田の農民ばかりでなく、相模の民も死ぬことになりますよ」
「やむを得まい」
「他に手立てがないのならやむを得ないかもしれませんが、無駄に人を死なせなくて済むのなら、その方がいいんじゃないですか?」
「そんなうまい策があるのか?」
「ふたつ、お願いがあります」
「言ってみろ」
「ひとつは、夜が更けるまで武田軍を攻撃しないことです」
「夜更けまで?」
「明日の朝までということになるかもしれません」
「なぜ、そんなに待つのだ? 武田軍は三里先にいる。一刻(二時間)もあれば辿り着けるぞ」
「小太郎の話を最後まで聞いてはいかがですか?」
 四郎左が口を挟む。
「そうだな、続けろ」
「道々、気になっていたのですが......。あの雲を見て下さい」
 小太郎が北の空を指差す。国境付近にそびえる山々の上に黒っぽい雲が浮かんでいる。
「あれを滝雲(たきぐも)といいます。あたかも水が滝を落ちるように、山々の稜線に沿って流れる雲です。小田原を出るときには、そうでもありませんでしたが、国境に近付くにつれて、滝雲が大きくなってきたような気がするのです」
「それが何だ?」
「これから天気が崩れそうだと小太郎は言いたいんですよ」
 四郎左が仏頂面で言う。
「雨になるのか?」
「すぐではありません。しかし、明日の朝までには間違いなく雨になるはずです」
「おれも気が付いた。空気が湿ってきているし、山道に入ってから雷鳥(らいちょう)を何羽も見ている」
 四郎左がうなずく。
「雷鳥?」
 十兵衛が怪訝な顔になる。
「空気が湿って風が強くなると、雷鳥が餌にする虫がたくさん飛ぶようになるんですよ。それを狙って、雷鳥が元気に飛び始める。普通、雷鳥は人間の前に姿を現さないものなんです。雷鳥の姿が目に付くようになると、雨が近いと言われています」
 小太郎が説明する。
「雨が降れば村を焼くことができないから、それまで攻撃するなということか。もうひとつは?」
「武田軍が逃げ始めたら、後を追わないでほしいのです」
「盗人どもを見逃せというのか?」
 十兵衛が舌打ちする。気に入らないらしい。
「われらが追えば、逃げ遅れるのは足腰の弱い年寄りや女子供です。そんな者たちを殺してどうなるのですか」
「わかった、わかった。おまえは百姓の味方だったな。武田軍を追い払うことができれば、それでいい。後を追うことはしない」
「約束ですよ」
「おい、おれを誰だと思ってるんだ?」
 十兵衛がじろりと小太郎を睨む。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー