男じゃない 女じゃない 仏じゃない第14回

 初めて刺青(いれずみ)を入れたのは小学校の頃だった。私の背中に刻まれた模様は、桜吹雪でも、仁王でも、龍でも虎でもなく、二匹のトンボだった。
 小学二年生の夏休み。ラジオ体操を終えて駆け足で帰宅すると、夏の日差しが一直線に差し込む縁側で、スイカを切り分ける準備をしている祖母の姿があった。我が家の畑で久しぶりに採れた大物である。裏庭の方では、麦わら帽子をかぶった祖父が、自分で育てたご自慢の菊の花の手入れに余念がない。床の間の前では、ランニングシャツ一枚の父が、広げた新聞紙の上で足の爪をパチンパチンと切っている。母親がいなくても、家に多額の借金があろうとも、夏の日の家族の平和な風景がそこにはあった。
 縁側に腰掛けた私は、足をブラブラさせながら、お目当てのスイカを今か今かと待ちわびていた。見上げた空には八月の入道雲が我が物顔で居座っている。まさに夏真っ盛りといったところだ。その時、突然二匹のオニヤンマが家の中に突撃してきた。まるでドッグファイトをしている戦闘機のように、部屋の中を我が物顔で飛び回っている。その様子を見ていた私は「僕も空を飛んでみたいな」と、子供なら誰しもが一度は夢見ることを口にした。
 爪を切り終えた父は、「ふぅぅぅ!」と大きく息をして、納屋(なや)から虫捕り網を取ってきた。大きな体に似合わぬ巧みな網さばきで、あっという間にオニヤンマたちを捕獲する。「お父さん、トンボ見せて!」と私は父のもとへと無邪気に駆け寄った。すると、父は私の体を正面から受け止め、反り投げのような形で後ろに投げ飛ばした。さすが大学時代にアマレスのオリンピック候補になりかけただけのことはある。現役さながらの素晴らしい投げだった。あまりの衝撃で畳に突っ伏したまま動けなくなる私。そんな私の服の中に、父は、先ほど捕まえたばかりのオニヤンマを解き放った。「ブルブルブルブルブルッ!」と形容しがたい音を立てて暴れ出す二匹の悪魔。私の背中で小さな戦争が起きているかのようだった。経験したことのない恐怖に泣き叫ぶ私。そんな息子の様子を見ながら、「どうや、空を飛ぶのも大変やろう? それが分かったら簡単に空が飛びたいとか言うなよ」と、父は冷たく言い放った。
 畳の上を転がり回ったせいで、哀れ、オニヤンマは私の背中に潰されて死んでしまった。祖母が、涙も涸れて放心状態になっている私のシャツを脱がした時、潰されたオニヤンマが押し花のように綺麗に背中に貼りついていた。それを見た父は「おぉ、刺青みたいになっとるがな。綺麗なもんや」と嬉しそうに笑い、冷蔵庫から取ってきた瓶ラムネを一気に飲み干した。「可哀想にねぇ」と言いながら、祖母はオニヤンマの死体をかさぶたを剥がすようにペリペリッと剥ぎ取った。
 超体育会系育ちの父は、母親がいなくても強い男に育って欲しいと、少々行き過ぎたスパルタ教育を私に課した。父からすれば、精神教育の一環だったのだろうが、このオニヤンマ事件により、私は小学二年生にして「空」への憧れを捨てることとなった。「空を駆け回りたい」とか「パイロットになりたい」という子供らしいことは口が裂けても言わなくなり、蝉(せみ)やトンボのような空を飛ぶ虫の類が大の苦手になった。
 だが、この件について親父を恨んだりはしていない。今になって思えば、あの時の親父は余裕がなかったのだろう。嫁に逃げられ、手元に残ったのは多額の借金だけ。それを返すために朝から晩まで働き詰めだった親父。そのことを加味すれば、多少は同情の余地もある。それに、反抗期を迎えた頃の私に、親父もひどい目に遭わされたのだ。フロント部分に五寸釘を装着した改造ミニ四駆で命を狙われたり、就寝時に枕元でバルサンを焚かれ、白煙から逃げ出した所をエアガンで狙撃されるといった、テロと呼ぶにふさわしい攻撃を受けていた親父。そのことを思うと大変申し訳ない気持ちになる。あの親あってこの子供ありといったところだが、ここは痛み分けということにしておきたい。

 大人になった今も、虫による苦労は絶えない。特に夏は最悪の季節である。キャンプ、ロックフェスティバル、花火大会など、夏の代名詞ともいえる野外イベントには、なにひとつ足を運ぶことができない。仕事の行き帰りも地獄だ。虫に遭遇しない経路を選んで遠回りしていると、通勤時間がいつもの倍はかかってしまう。
 虫のせいで、住職のお寺にも気軽に行くことができない。寺の境内(けいだい)にはたくさんの木々が生い茂っており、いつ行っても耳をつんざくほどの蝉時雨(せみしぐれ)である。そんな死地に足を踏み入れるわけにはいかない。住職のことは大切だが、蝉を我慢してまで会う価値はない。
 いろいろと思案した結果、夏の間は近所のパチンコ屋で住職と落ち合うことにした。正確に言えば、事前に会う約束などしていないが、そこに行けば高確率で住職がいるだけだった。住職の大好きな『CR海物語』のシマが私たちの待ち合わせ場所だ。静かなお寺で落ちついて話すのもいい。だが、パチンコ屋という雑多な場所で、隣り合わせに座り、煙草の煙をくゆらせながら玉遊びに興じるのもまた趣深い。
「夏になるとお顔を見ないと思ったら、まさか虫が怖いとは」
「全部親父のせいなんです。私の背中で死んでいったオニヤンマの呪いなんです」
「トンボの供養(くよう)ならお断りいたしますよ。この前あなたの飼ってたアサリの供養をしたばかりですからね」
「アサリはできてトンボができないというのは、道理が通らないですけどね」
「殺生(せっしょう)は仏教においてはもっとも重い罪です。でもトンボの件は、どちらかといえばあなたは被害者ですからね。呪いをもらうとしたら、お父様だと思いますね」
「じゃあオニヤンマの呪いで親父は前科者になったんですね」
「それはお父様自身の問題だと思いますが」
「そうですよね。なんでもかんでもトンボのせいにしちゃいけませんよね。」
「はい」
 私は煙草を深く吸い込み、ため息をつくのと同時に煙をぶわっと吐き出した。大当たり中の住職は新しい煙草に火を点けて、こちらを向き直す。
「いや、しかしですね」
「はい」
「あなたとパチンコを打つと、私、勝つんですよ」
「そういえばいつも勝ってますね」
「パチンコ屋にかぎって言えば、あなたは私にとっての仏様ですね」
「じゃあ私のことを崇め奉りなさい」
「それはもちろんです」
 そう言って住職は私に向かって雑に手を合わせた。
「嫌いな虫を避けてパチンコ屋に来たら、住職のお役に立ててよかったですよ」
「ええ、そういう意味では、あなたを虫嫌いにしてくれたお父様とトンボにも感謝ですね」
 その時、私の座っている台も大当たりを引いた。自然にグータッチを交わす私と住職。
「住職、今日はいい日ですね」
「ええ、とっても」
 私たち二人には、蝉時雨よりパチンコ屋の騒音の方が心地いい。

 夏の夜道は、死にかけの蝉の特攻を受けることが多くて困ってしまう。私は細心の注意を払いながら、オカマバーへと続く一本道を急ぐ。虫は虫でも「夜の虫」であるオカマたちのことは嫌いになれない。夏のトリケラさんはキャミソール中心のコーディネート。「新入りのオカマが全然似合っていないショートパンツを穿いているのがムカつくから殺してやりたい」と、今夜も絶好調である。
「虫が嫌いなのはいいとしてもさぁ。飛行機に乗れないのは困るわよね」
「そんな遠出することないし。電車でのんびり行くから大丈夫だよ」
「お前な、電車より飛行機の方が事故に遭う確率少ないんだぞ」
「確率の問題じゃないんだよ」
「一生海外行けないじゃないの」
「海外旅行は全然興味ないんだよなぁ」
「相変わらず、私の言うことなんでもかんでも否定しやがって。殺すぞ」
「へいへい、すみませんでした」
「いつかお前と沖縄でも行ってみたかったのになぁ。残念だ」
「沖縄かぁ、行ったことないや。そんなにいい場所? 島田紳助(しまだしんすけ)はよく褒めてたけど」
「教えねえよ。バカ」
「船で行こうよ。船で」
「てめえ、海を舐めんじゃねえぞ」
「オカマが海を語るなよ」
 いつも通り、私とトリケラさんの会話は気持ちの良い平行線を辿る。気を遣って変に話を合わせてもらうよりも、こっちの方が気楽でいい。
「お前は、どうせ死んだように生きてんだから、死ぬつもりで飛行機乗ろうぜ」
「まぁ、そう言われたらそうなんだけど」
 頭の中で想像してみる。乗っている飛行機が突如急降下をはじめる。パニックに陥る機内をよそに、私の心は波一つない海のように落ち着いている。隣で微笑むトリケラさん。私もにっこりと笑い返す。二人はそっと手を握り合い、笑顔で人生の最後をいっしょに迎えるのだ。
 悪くないな。
 うん、悪くない。
「トリケラさん。今年は無理だけど、来年の夏辺り、沖縄行こうか」
「今年って言わないのがお前らしいな。まぁ、期待しないで待っとくよ」
「もし飛行機が落ちたら、住職にお経をあげてもらおう」
「いいね。あの坊さんなら安心だ。暇してるだろうし」

 一緒に死んでくれるオカマと、死んだ時にお経をあげてくれる坊主がいる。人生にこれ以上のことはもう望まない。声を大にして言える。私は今、幸せだ。

男じゃない 女じゃない 仏じゃない

Synopsisあらすじ

6年間同棲した彼女と別れ、仕事も辞めた著者。孤独な日々の中で出会ったのは、由緒あるお寺のお坊さんと、オカマバー勤務の筋骨隆々なオカマだった。歩む道は違えど信頼できる2人に、著者は人生相談を持ちかける……。仏の教えとオカマの人生経験。2人のアドバイスに振り回される著者は、本当に悩みを解決できるのか!? 『死にたい夜にかぎって』著者による元気をくれるエッセイ。

Profile著者紹介

つめ・きりお

1979年生まれ。2014年『夫のちんぽが入らない』のこだま氏とユニットを組み、同人誌即売会・文学フリマに参加。2018年、webサイト「日刊SPA!」で驚異的なPVを誇った連載をまとめたエッセイ『死にたい夜にかぎって』でデビュー。自身の恋愛と苦い人生経験をポジティブに綴った本作はネットを中心に話題沸騰。以来、書店イベントから夏フェスまで多種多様なイベントに出演し、注目を集める。

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