2020 09/18
経済社会の学び方

第14回 歴史は重要だ(History Matters)ということ②――経路依存性について

■経路依存性(Path-dependence)

 これまで見てきた日本の雇用の歴史の事例は次のことを教えてくれる。社会現象について一般化された命題、例えば、「日本は終身雇用の国である」「日本の労働者は企業への忠誠心が強い」といった命題は、学問的探求のテーマとしては成立しにくいということだ。

 時代によって日本の労働者の企業への定着率は異なり、職種や企業規模、景気によっても大きく変動してきた。そして、労働者が定着するという現象は、「企業への忠誠心」などという曖昧で不確かな心情ではなく、長期的に見た何らかの合理的な計算と選択があって初めて続くものだ。ある現象とその現象を生み出している個人の行動の動機は、雇うものと雇われるもの双方に一定の(長期的な観点からの)便益が意識されない限り、簡単に結びつけられるものではない。一方的な忠誠心や企業への強い帰属意識だけで長期雇用が生まれるとは考えられない。

 江戸時代の奉公人の人事管理と類似の制度は、近代以降の日本企業内の選抜や昇進の慣行の中に一定程度存在している。物事や制度の歴史的な側面を十分に学んでいないと、観察結果を非歴史的に一般化してしまい、検証できないような「命題」を蔓延させることになる。こうした悪弊に陥らないためにも、現代の問題を現代の観察事実とデータだけから説明してしまうことには慎重でなければならない。

 高度経済成長期以降、さかんに議論された日本の労働者の長期雇用は、世界の相場から見ても(特にドイツやフランスなどの大陸ヨーロッパの国々と比較して)、決して特異な現象ではなかった。

 このように歴史を知ることが重要だという認識は、どれほどそれが実践を伴うものであるかは別にして、経済制度の研究者の間でも共有されるようになってきた。現在の状態を説明するのに、現在の要因だけでは全く不十分なのだ。個人のレベルの問題に引き寄せて考えても、現在の自分の状況、考えや行動が、いかに過去に起こった出来事やめぐり合った人から影響を受けているのかを、誰しも実感するはずだ。

 ただし「過去に規定されるところが大きい」という命題の理解が、歴史を重視する人々の間で完全に一致しているというわけではない。近年の経済史研究では、景気変動や経済の構造変化を、単に一つの運動として「決定論的に」「合理的に」説明することへの反省が見られる。変化には「初期条件」だけでなくある種コントロールのできない「攪乱(perturbation)」が存在し、両者が後の経路(path)を規定している点を強調するという考えが注目を集め始めた。人間社会には、その時点では「選択」できないような過去から引きずってきた要因が、その後の歴史経路に影響を与えるという考え方である。この考え方によると、すべての経済が、あるひとつの合理的なメカニズムを経て同型の経済構造や経済発展の軌跡を辿るのではなく、複数の変化の経路が生まれることになる。

 過去が現在を形作っているという考えには、大きく分けると二つのタイプがある。ひとつは、過去のある要素が、現在でも物事や体制を規定していると合理的に理解しようとするケース、もうひとつは、過去の要素がもはや現在の状況や制度にとって重要な働きを持たないにもかかわらず、過去の経験や事象に基本的に規定(拘束)されてしまっているケースである。

 後者は「過去、たまたまそうであったから」、現在もそれを「慣性(inertia)」で引きずってしまっている場合が挙げられる。社会変化のプロセスは、事前に決定された一つの均衡状態に向かっているのではなく、そのプロセスの途中で生起した事象によって、収斂する均衡状態が異なってくると考え、こうした現象には経路依存性(path-dependence)があるとみなすようになった。つまり、ありうる均衡は一つではなく、偶有的な要因によって複数存在し、それぞれの均衡が安定的に継続して存在すると捉えるのである。

■初期条件と攪乱要因

 経路依存性を具体的に理解するために、比較経済史はいくつかの事例研究を提示してきた。近年、米国を中心に、複数の専門分野の基礎訓練を受けた研究者たちが「歴史の自然実験」と呼ばれる方法を用いて多くの論考を発表している。探究の対象とする期間は極めて長いものが多く、中には比較経済史というよりも、「人類史」と呼ぶのが相応しいようなものもある。

 自然実験では、攪乱(perturbation)と初期条件の二つの要素が区別される。攪乱の違い(差)によって生じた結果が異なる、というのが、先に述べた経路依存性の分かりやすい例であろう。この場合、後で述べるように、初期条件の違いがどの程度結果の違いを生むのかという問題は残る。連載の第7回から第9回にかけて論じた「因果関係」としてどう解釈するのかという問題を無視することは出来ない。しかし差し当たっては、1)攪乱があった場合と無かった場合を比較するケース、2)異なる攪乱が加わったケース(次に紹介する「ハイチとドミニカ」の比較)、さらに3)攪乱の性格はどのケースも変わらないが、初期条件の違いによって異なる結果が生まれる場合(イースター島の事例)を区別する。

 こうした自然実験の手法を用いた歴史研究の論文が収められた論集Natural Experiments of Historyが2010年に刊行されている(邦訳『歴史は実験できるのか 自然実験が解き明かす人類史』ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン編著、小坂恵理訳、慶應義塾大学出版会、2018年。同書の編著者のひとり、ジャレド・ダイアモンドは生物学、生理学を修め、生物地理学、鳥類学、人類生態学を専攻するカリフォルニア大学(ロスアンジェルス校)教授で、12か国語を操る。彼は『銃、病原菌、鉄 一万三千年にわたる人類史の謎』によって日本にも愛読者が多い)。

 ダイアモンド自身は、Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed (2005年、邦訳『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの』楡井浩一訳、草思社)の中で、多くの生物や地理についての歴史的知識を総動員しながら、社会が崩壊する要因を、環境破壊、気候変動、敵対的な近隣集団の存在、友好的な交易相手からの支援の減少、環境問題への社会の対応の失敗、と5つに分け、崩壊の典型例を次々と紹介している。

 先に分類した3)の、「攪乱の性格は変わらないが、初期条件の違いによって社会や国家が、その後の環境や文化・経済・政治的な違いによって異なった経路(path)をたどることになった例」は、『文明崩壊』でも取り上げられているが、その大筋は『歴史は実験できるか』にも要約されている。

 事例のひとつにイースター島の「崩壊」がある。ポリネシア人が、南太平洋(ポリネシア)のイースター島に定住し始めたのは9世紀から10世紀にかけてといわれる。ポリネシアの各島の物理的環境は異なっていた。そこにポリネシア人の入植という動きが、それぞれ異なった時期と期間に「攪乱要因」として起こった。その結果、攪乱の内容は変わらないが、時期が異なったため島はそれぞれ社会的、政治経済的に複雑な違いを示す。

 イースター島の場合、18世紀初頭にオランダ人がこの島を発見するまで外界とのコンタクトは無かった。島にあった森林は16世紀ごろから破壊され始め、土壌流出による食糧危機が起こったと推測される。その結果、飢餓と人肉食が内戦をもたらし、人口減少が進行してイースター島は「崩壊」したという。

 入植の時期と期間が異なったため、同じ入植という攪乱が太平洋諸島の島々にもたらした影響は異なる。加えて、島々の初期条件(物理的環境)が異なったために異なる結果がもたらされた。面積や地質、気候などの物理的な環境が異なる島々へ、1)同じ民族(ポリネシア人)が移住した場合、それぞれの島の社会経済や政治の仕組みがどう変わるか、あるいは2)メラネシア人とミクロネシア人が移住した場合、初期条件が森林破壊にどのように異なった影響を及ぼしているのかも分析されている。島ごとの政治制度の違いがもたらす影響も今後の研究課題として重要だとダイアモンドは指摘する。

 これらの自然実験は、社会や体制が一つの均衡点に向かって収斂するのではなく、それぞれに加えられていく内的・外的条件によって別々の結果がもたらされることを示す事例である。もちろん、攪乱も初期条件も違うのに、似たような結果がもたらされるという例もあろう。この辺りの不確実性こそ、経路依存性を意識しながら「自然実験」の手法で人類史を探究する(面白さと)難しさがある。

■ハイチとドミニカの歴史の経路依存性

 ダイアモンドが行ったもうひとつの研究は、先に示した論集『歴史は実験できるのか 自然実験が解き明かす人類史』に収められた論文(「ひとつの島はなぜ豊かな国と貧しい国にわかれたか――島の中と島と島の間の比較」と題された第4章)でも要約された、ハイチとドミニカの比較史である(より詳しい解説は『文明崩壊』参照)。

 初期条件がほとんど同じ(降水量、傾斜、土壌は異なる)でも、異なった国による植民地支配(ハイチはフランス、ドミニカはスペインの植民地)と異なった政治体制という「攪乱」が、いかなる異なった帰結を生んだのかをダイアモンドは次のように分析している。

 カリブ海の西インド諸島のイスパニョーラ島には、島の西側のハイチと東側のドミニカ共和国という二つの国が存在する。かつては豊かで強大であったハイチは、いまやドミニカに比べると生活環境が極めて悪く、世界の最貧国とみなされるようになった。ひとつの島に境界が引かれたことによって、かつては似通っていたふたつの社会が全く異なった様相を呈するようになったのである。それは何故か。現在の格差は、その制度と歴史の違いを無視しては理解できない。

 両国の人口はほとんど同じである。島の西3分の1を占める旧フランス領のハイチの森林はほとんど伐採されて茶色の大地が露わになったのに対し、東3分の2を占める旧スペイン領のドミニカには木々が青々と茂る。イスパニョーラ島の東部は雨量が多く山も高く、水が豊富である。他方、ハイチの土地は農業に適さず、18世紀に大量の奴隷をアフリカから輸入して使役せざるを得なかった。

 この二つの国の現状を統計数字でダイアモンドは次のように比較しつつ要約する(邦訳 p.130)。ドミニカ共和国の一人当たり収入はハイチの6倍、森林の28%は保存され、民主政治も機能している。ハイチは、雇用労働者はドミニカと比べると5分の1、車やトラックの保有台数は5分の1、舗装道路の距離数は6分の1、高等教育を受けた人の数は7分の1、医者の人数は8分の1、石油の年間輸入・消費量は11分の1、一人当たり医療費は17分の1、発電量は24分の1、年間輸出額は27分の1、テレビの保有台数は33分の1だという。さらにハイチの乳幼児死亡率はドミニカの2.5倍、5歳未満の栄養失調の子供の人数は5倍、マラリアの症例は7倍、エイズの症例は11倍に及ぶという。

■逆転現象をもたらした要因

 島の西側のハイチは、かつては世界でも群を抜いて豊かな場所で、19世紀の前半には、ハイチはドミニカを征服・併合したほどであった。その後、長年にわたる独立戦争のために経済と社会が荒廃したものの、ドミニカより豊かな時代が続いた。しかし20世紀に入ると最初の数十年で逆転現象が起こる。ドミニカがハイチを追い抜くのである。それはなぜか。ダイアモンドは多くの原因の中から重要な要素として3つを挙げている。

 第一は環境要因である。島の西側はもともと乾燥していただけでなく、建築材が伐採され、降雨量も減少、それがさらに森林破壊を招くという悪循環が生まれた。森林破壊により川の流域の保護が不十分になり、水力発電の能力も低下した。
第二は、植民地としての歴史の違いである。17世紀から18世紀にかけて、フランスが次第にスペインの勢力を圧倒するようになり、大勢の奴隷を買い取り輸入するだけの経済力を持つようになる。そのためフランスの植民地となった島の西部(ハイチ)は奴隷が人口の85%を占めるほどになった。一方、スペインは、メキシコや南米など魅力的な投資先へと進出していたため、大勢の奴隷をイスパニョール島の東部(後のドミニカ共和国)に輸入する必要も余力もなくなっていた。したがって人口に占める奴隷の割合も、10%から15%程度の水準にとどまった。植民地時代のイスパニョーラ島では、奴隷を多く確保できた西部(ハイチ)の方が、東部より圧倒的に豊かだったのだ。

 ここで注目すべきは、この時期の西部(ハイチ)の豊かさは、環境面で豊かであったためではないという点だ。むしろ降雨量も少なく土地も痩せており、環境面では圧倒的に不利であった。にもかかわらず、ハイチは豊かになった。環境以外の要因、すなわち歴史上の出来事(スペインとフランスの奴隷貿易政策の違いなど)が決定的な影響を与えたのである。ハイチに多くの奴隷を移入してきたフランス船は、帰途、伐採されたハイチの森の材木を持ち帰った。

 第3の要因としての文化的な面でも、西部と東部では全く異なった現象が見られた。西部の人口の9割近いアフリカから連れて来られた奴隷たちの言語は様々であったが、次第にコミュニケーション手段として「クレオール語」を発達させた。一方、東部(現在のドミニカ共和国)では、クレオール語のような言語は発達せず、ほとんどの国民がスペイン語を話す。ダイアモンドが指摘するように、ハイチで生まれたクレオール語という言語の特異性が、欧米諸国とのコミュニケーションの障害になったことは否定できない。

 また、独立戦争における多くの奴隷とフランス軍との厳しい対立と戦闘の結果、先進国からの投資や技術援助に対してハイチの人々は極度に警戒的になり、さらなる経済の停滞と貧困をもたらすことになる。

 このようにハイチの経済的な衰退の説明は、歴史やその中で生まれた経済制度の違いを抜きには語れない。生物学や生態学、あるいは環境論は文明崩壊の原因の一部を説明しえても、ハイチとドミニカの例が示すように、富、森林の状況、人口、貿易政策などが、歴史的に(時間とともに)いかに変化し、政治経済システム、つまり「制度」が社会の行く末を大きく左右したかという点を無視することは出来ないのだ。政治や経済の制度、そしてその歴史的な変化がいかに一国の命運を決定するかは自ずと明らかになる。

■それでも残る問題点

 先に示したダイアモンドとロビンソンの編集した『歴史は実験できるのか』の「あとがき――人類史における比較研究法」を読むと、この開発途上にある歴史研究の手法への自負と謙遜が示されている。彼らは現段階での問題点を次のように率直に指摘しているのだ。

 それは先に示した「初期条件」と「攪乱」の分割が、それほど単純でも明解でもないというところにある。彼らの論集に収められている研究(8つのケーススタディ)はいずれも、「主に攪乱の違いによって異なった結果がもたらされたもの」と「初期条件の違いによって異なった結果がもたらされたもの」のいずれかに限定されている。双方の要因が作用する「それ以外のケース」もあり得るから、二種類のケースに限定していることにはおのずと限界がある。攪乱の影響を受けている社会や場所を比較研究するとき、攪乱が加えられる特定の社会や場所の選択がランダムになされたものではないとすれば、それがどのように選択されたのかという点には説得的な説明が必要であろう。研究室の実験では、実験者が加える何らかの攪乱以外は、実験対象の試験管と対照群の試験管は同じ状態である。したがって実験者は全く無作為でいられる。

 攪乱が観察される地域と観察されない地域の間に規則性が見いだせない状態で、これら二つの異なった地域の平均的な社会的相違が攪乱の有無による、という推論は説得力がある。しかし攪乱の存在する場所としない場所の地理的分布がある種の明確な規則性を持つ場合は、社会的相違を惹き起こす原因は攪乱の有無ではなく、むしろ地理的な相違によるものだという推論の方が説得力を持つのではないか。

 言い換えれば、攪乱が加えられた場所は、研究対象の結果とは無関係に選ばれたのかという点が問われるということだ。つまり、場所の選択が結果に対して「ランダムであったのか」が示されなければならない。つまり、歴史の「自然実験」においては、「得られた異なる結果は、本当に攪乱や初期条件の違いによって引き起こされたものなのか、他の違いが惹き起こした結果ではないのか」という疑問が付きまとうことになる。これは前に論じた「因果関係の把握の難しさ」という難問に帰結する。

■ひとつの均衡点には収束しない

 経路依存性という考えは、歴史研究者たちによって、社会が生み出した事物の多くには固有の惰性の力が働いている、として古くから注目されてきた。それが学術的な分析に堪えうる概念枠組みとして明確に捉えられたのは、経済史における技術選択の問題においてであった。早い段階で、技術の選択を経路依存性の観点から論じた研究者が、米国の経済史家で技術進歩に関する優れた業績を残したポール・デイヴィッド(Paul David、1935~)である。

 デイヴィッドが注目した命題は次のようなものであった。われわれを取り巻く世界の論理(あるいは非論理?)は、どうしてそうなってしまったのかを理解する以外、明らかにすることは時に不可能だということ。言い換えれば、最終的な結果に重要な影響を与えるのは、「システマティックな力」によるというよりも、偶然によって支配された「ハプニングス」を含む、「時間的に関係の薄い事象の継起」によって実現する、というものであった。これをデイヴィッドは「経済的変化の経路依存的なシークェンス(path-dependent sequence)」と呼んだ(“Clio and the Economics of QWERTY ”, AER May 1985)。

 この視点は、歴史的偶然(historical accidents)というものが無視できないばかりか、歴史の動的プロセスを経済分析のために切り取ったり、分離できないことを意味する。この認識は、歴史的偶然――その多くは「小さな偶然」なのだが――の存在が、動的なプロセスが必ずしも一つの点に収束することはないという考えにつながる。

(以下、次回。参考文献は、新書刊行時にまとめて表示いたします)

猪木武徳(いのき・たけのり)

1945年、滋賀県生まれ。大阪大学名誉教授。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学大学院特任教授などを歴任。主な著書に、『経済思想』(岩波書店)、『自由と秩序』(中公文庫)、『戦後世界経済史』(中公新書)、『経済学に何ができるか』(中公新書)など。