2020 01/14
経済社会の学び方

第6回 社会研究における理論の功罪③――多くの学問は比較に始まる

■比較経済史と地域研究の重要性

 われわれがほとんど無意識に受け入れている「素朴な歴史観」、「演繹論理のみで理解しようとする姿勢」を反省するためには、それぞれの国や地域の経済発展の形態を比較研究することがきわめて重要になる。歴史には法則があると主張するとしても、その法則がどの程度普遍的なものか、一般性を持ちうるものなのかを熟慮する必要がある。

 欧米でも日本でも(日本はつい最近まで)経済発展の一般法則は盛んに論じられたテーマであった。H. スペンサー(Herbert Spencer, 1820-1903)をはじめとする社会進化論を奉ずる人々の、生物体と同じように社会自体も進化し、進歩していくという(evolution [展開]をprogress[進歩]と読み替える)理論が強い関心を集めた時期があった。人類史に普遍的に適用できるような理論が、すべての社会の変化や動きを説明できると信じられたのだ。

 各国史や地域研究が深まると、このような素朴な進歩史観と発展段階説への一種の「反例」が報告され始める。例えば日本にも封建制は存在した。では日本の封建制と地中海辺縁で発展していった西洋型の封建制にはどの程度の類似性と差異があるのだろうか。実は、この「同じ」ではなく「類似性がある」というのが重要ポイントとなるのだ。全く違う社会であれば、比較しても、違いだけを浮き彫りにすることで話は終わってしまう。「類似性がある」という場合、似ているからこそ、逆に違いが問題になる。似ているところから違い(同じでない点)を論じるという方法を可能にするのが、各国史と地域研究なのである。社会進化論や経済発展の段階説をフレームワークとして疑ってみて、では本当のところはどうなのかという問いが生まれる。理論は与えられているわけだから、それを参照基準として、そこからの逸脱を探究(explore)することにより、社会経済における構造の比較は重要な学問の推進力になる。
 
 このように考えると、地域研究が社会科学にもたらした貢献がこれまで十分に評価されてこなかったのではないかという問題にも繋がる。世界はすべて英国が示してきたような経済発展のパターンを示すとは限らないのだ。

 例えば、発展途上国の経済には、明示的な法律やルールどおりに動いていないような、市場メカニズムの底辺によどんでしまった「インフォーマル・セクター」の存在が指摘されてきた。このインフォーマル・セクターをめぐる議論は、元来途上国の経済発展の中で論じられてきた概念であった。それが今では先進国で類似の領域(informal economy)が消えることなく存在し続けていることが問題とされるようになった。先進国が経験した経路を、途上国の経済が常になぞるように追いかけて行くのではなく、途上国について「インフォーマル・セクター」という概念が先に生まれ、後で先進国に類似の現象が確認され、それが問題として取り上げられるようになったのである(特に雇用に関するILOの報告書 Women and Men in the Informal Economy: A Statistical Picture (2018)が興味深い様々な事実を指摘している)。

 今や、かつては発展途上国と呼ばれる国々に固有だと思われてきた現象が、実は、先進国において消え去るのではなく、形を変えながらも存在し続け、ときには肥大化していることが指摘されるようになった。その形が全く同じではないことには様々な理由があろう。経済発展のスピードの差がうわべの違いを強調しているのかもしれない。

 イギリスが「産業革命」と呼ばれる工業化によって、18世紀後半から1830年代あたりまでの60年間くらいの間になし遂げた「一人当たり所得の倍増」を、他の後発の国々ははるかに短期間で達成している。例えば20世紀の初頭では後発の国であった日本は、同じ「産業革命後の所得の倍増」を大体35年間くらいで達成した。第2次大戦後の中国や韓国の場合には、それが10年ぐらいの速さになっている。現在、多くの東南アジア諸国は中韓以上に猛烈なスピードで豊かな中所得国へと成長している。経済的な豊かさにしても生産技術の進歩にしても、変化が起こるタイム・スパンが極端に短くなった。こうした急速な変化の中で、社会全体がどのような変貌を遂げていくかには多くの要因が影響しているため、発展段階説やマルクス主義の理論だけでは十分説明がつかないのだ。

■比較によって対象を相対化する

 こうした経済変化に関する一般性と特殊性の問題と向き合うと、そもそも、われわれは「他者」や「他国」を、どのようにして理解することができるのかという問いに向き合わざるを得なくなる。他者や他国を「分離しうる独立の実体(entity)」として把握し理解することには困難が付きまとう。そこで有効な手法として持ち出されるのが「比較」という方法だ。

 比較の基準をどう選ぶのかは確かに難しい。できる限り条件をコントロールできる形で、関心とするポイントを比較しうる指標を見つけ出すステップが必要となる。わたしがフランスの労働社会学者M.モーリス氏達と行った日仏企業の比較研究、あるいは小池和男氏をリーダーとして取り組んだ日本と東南アジアの人材育成の比較研究においては、業種、製品、技術、企業規模などをコントロールした(揃えた)うえで、それぞれの国の企業の雇用慣行の差異と類似性を探究する作業であった。

 社会研究は、比較の対象を設定せず、ひとつの対象だけを見ることによって多くの命題を打ち立てようとすることが多い。この手法は、よほどの洞察力を持った研究者でない限り、リスクがあまりにも大きい。むしろ比較することによって差異と類似性を議論する方が、対象を相対化し、多くの知見を引き出す有効な手段となりうる。

 比較の具体的な方法は分野によって様々であろう。比較研究からどれだけ多くのことが言えるのかは、観察の仕方や、資料やデータの集め方、あるいはいかに多様な方法を用いるかに依存してくる。統計的な手法が必要なときがある。聴き取り調査が不可欠のときもある。いずれの方法を採るにしても、社会研究は、研究者と研究の対象の関係が、自然科学には見られない複雑な構造を持っていることを意識すべきであろう。

 自然科学と社会科学の相違点についてはすでに述べたが、いまひとつの相違点は、研究する主体と対象との関係にある。社会科学(経済学ももちろんそのひとつであるが)で取り扱う対象、すなわち「社会生活を営む人間」は、彼自身、現実を感じ取り認識して行動する主体である。ところが、その主体を、さらにわれわれが社会研究者として認識するという「二重構造」を社会研究は含み持っている。社会の中で人々は、自分の感じ取った現実を様々な感情とともに認識しているが、本人がどう感じているのかを研究する者はそれを「客観的な」データで観測することはできない。

 こうした二重構造と「観察する者」と「される物」との相互作用の問題は、社会研究において深刻な弱点になっていることは否めない。いずれにせよ、社会研究は認識の二重構造と相互作用という問題にしばられており、そのなかから仮説と想像力の助けを借りて「事実らしきもの」を確定していかなければならない。こうした不確かさと偏りをできる限り回避するために、同一の対象(例えば国、地域)を長い歴史のなかで比較の視点から見ること、少なくとも複数の社会なり国を横切る形の比較が重要かつ必要となる。

 さらに厄介なのは、研究者の観察や認識が、対象となっている人々の認識と行動を変えてしまう可能性があることだ。たとえば(それが正確なものであれ、誤っているものであれ)所得格差が拡大したという研究者の判断が、人々の不平等感を助長し社会的な緊張感を高めるということもありうる(また、「較差」ではなく「格差」という字が充てられているのも、単なる相互の差ではなく、そこに格や級の違いという判断が紛れ込んでいることを感じさせる)。

■改めて理論の役割を考える――その否定的な使用

 実際、歴史は理論が示す通りには動いていないということに関連して、イギリスの経済理論家であり、純粋理論研究に終止符を打った後、名著『経済史の理論』(A History of Economic History,1969)を著したJ.R. ヒックス(John Richard Hicks, 1904-1989)が重要な指摘をしているので紹介しておきたい。

『経済史の理論』は、ヒックス自身がこれまで取り組んできた経済学の中の一般性を持つ概念を、歴史事象を理解するためにどの程度適用できるかを試した作品だと言える。具体的には資本主義の勃興に先立つ市場経済に注目して、慣習(custom)や指令(command)によって動く非市場組織から、いかにして「市場」が組織として生まれ、それがいかに非市場組織に浸潤していったのかを分析の対象としている。その中で、彼が重視するのは商人の経済行動であることは言うまでもない。

 元来市場は、商品(財貨)や金融をその主要分野としてきた。同書では、ヒックスが、市場交換の対象が農業や労働の分野へと拡張され、その過程で生まれた諸問題に注目しているところに特徴がある。彼の問題意識のひとつに、社会主義や途上国の経済開発の問題があったことは処々で読み取れる。

 ヒックスの『経済史の理論』とマルクスの『資本論』における視点、方法論、新たな知見に関する類似点と相違点を考えることは興味深い問題であるが、ここでは彼が「理論」とは何かについて触れている箇所に注目するにとどめたい。

 同書の第4章「都市国家と植民地」の冒頭で、彼は次のように述べている。

「そのようなモデルを用いるとき、われわれはそれが個々の歴史的事象の中において実際に起こっていること、ないし起こったことを叙述しているとは考えないわけである。それは「代表的な」場合であって、個別的な事柄はそれぞれの理由のために、それからは乖離していると考えられねばならない。しかし、モデルからの乖離が見出されると、モデルによってわれわれは「何故」という疑問を発するように仕向けられる。もしよいモデルであるならば、「何故」という疑問は(常にではないにしても)興味ある問いとなろう」(新保博、渡辺文夫訳)

 理論というものが個別具体的な事実をそのまま説明していると考えるのはあまりにも単純だ。ある現象を解釈するときには、概念なりモデルは必要だが、そのモデルと現実が完全には合っていないということによって、初めて「なぜ」という真っ当な問いが生まれる。なぜモデルどおりに社会の変動や歴史の動きを説明できないのかという問い自体が意味を持つ。
 
 経済理論をそのまま経済政策に当てはめることの無理はここから生まれる。理論ではこうだけれども、そうなっていないのはなぜか、という「理論の否定的使用」にこそ理論の意味がある。例えば、既にふれたように、貿易において、どのような財がどちらの方向に流れるかを説明する「ヘクシャー=オリーンの定理」がある。しかし実際には、その理論どおりに貿易財の量と流れが観察されない。その点に注目して、経済学者ワシリー・レオンチェフ(Wassily Leontief, 1905 – 1999)が、なぜヘクシャー=オリーンの定理どおりに貿易財の流れが決まらないのか(レオンチェフ・パラドックス)という問題を提起して経済学をさらに発展させた。

■プロスペクト理論は思考の枠を広げてくれた、しかし……

 政治や経済の研究者が、国の政策担当者から意見を求められ賛同を得ても、その考えが政策として必ずしも真剣に検討されるわけではない。正確な情報に基づく正論であったとしても、それが政策として適切だと判断されて選ばれるとは限らない。つまり、正確な情報を持てば必ず適切な判断が下せるというわけではないのだ。それはなぜか。それを説明する理論として近年「プロスペクト理論」が論じられることが多いので、本章の終わりに、その理論の意味と限界について記しておきたい。

 ここ半世紀の心理学の大きな成果と言われる「プロスペクト理論」は、人間の思考というものが持つ体系的なバイアス(偏り)を明らかにした点で注目に値する。われわれは人や物事を判断するとき、自分の先入観に適合するか否かで評価することが多い。都合のよい例を取り出して、「前がこうだったから、今度もこうなる」と考えてしまうバイアスだ。

 思考のこの体系的バイアスは、ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーという二人の心理学者が40年ほど前に打ち立てたものだ。その中心的な命題のひとつは、「一旦手にしているものを失うことの心理的苦痛は、それを持っていなかったときの苦痛を上回る」というものだ(このバイアスについては260年前、アダム・スミスが『道徳感情論』で、「われわれが所有しているものを剥奪されることは、われわれが期待を持っているに過ぎないものについて失望されるよりも、大きな害悪である」(第2部・第2編・第2章)、とすでにはっきり論じているので、格別新しい指摘ではないとも言える)。

 簡単な例として次のようなものがある。「確実に5万円もらうか、5割の確率で10万円もらうか、どちらを取るか」と尋ねると、ひとは確実に5万円をもらう方を選ぶ。しかしその同じ人に「確実に5万円失うか、5割の確率で10万円を失うか」を選ばせると、5割の確率の方に賭けるという。つまり得をする選択については確実なものを選び、もともとどちらも損をするような内容の選択には、失うものの期待値は同じでも、人はギャンブルに打って出る傾向があるのだ(この、一旦手にしたものを失うことに対して「賭けに打って出る」という心理的バイアスについて、牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』に興味深い分析が示されている)。

 実際、確率計算や統計データに基づかない、大雑把な経験主義による思考は、歴史的にも多くの開戦への決断を促したと考えられる。1950年6月25日、金日成の南進に始まった朝鮮戦争で、中国の毛沢東はいかなる動機で参戦の意思決定をしたのかという点も謎を含んでいた。中華人民共和国の建国宣言からわずか9か月しか経たない段階で、まだ国家としての統合性も軍事力も決して十分ではないときに、なぜ毛沢東は朝鮮戦争に参戦したのか。

 政治学や歴史の研究者からはいくつかの仮説が提示されている。「プロスペクト理論」も適用可能なようだ。米国は、金日成が南進したのは中・朝・ソの共謀であると見て、第7艦隊を台湾海峡へ派遣した。それに対して、毛沢東は、米国がその勢いで中国大陸に侵攻することを恐れたのではないか。つまり、中国が何もしないうちに北朝鮮で米国側が勝利すれば、中国の安全保障が危機に瀕すると毛沢東は判断したと考える。日米開戦時の日本陸軍と同様に、北朝鮮へ軍事力を投入するという低い成功確率の方に賭けたと見るのだ。

 しかしこうした理論だけで歴史を語りうるだろうか。中国は中ソ同盟をベースとしつつ国際共産主義の堅固な砦を守り、同時に建国後間もない中華人民共和国の政権を強固にしようとして参戦したという推論もある。毛沢東は、本気で米軍と国連軍を圧倒できると考えていたかもしれない。

 歴史から何を学ぶのかは難しい。朝鮮戦争での米国側の軍事力の行使が、朝鮮半島全体の完全な共産化を防いだという自信を米国に与えたことは確かであろう。その自信がベトナム戦争での北爆へとつながったことは専門家の指摘するところだ。歴史上の似た例を持ち出すと、説得力が増す場合がある。しかしそれは危険な説得材料にもなりうる。

 歴史には似たことは起こり得ても、「全く同じ事象」は起こらない。歴史を学ぶのは、過去の経緯を知ることなしに現在を理解することはできないという単純な理由からだけではない。むしろ、歴史を学び、似たケースの中に伏在する事柄をよく理解することによって、そこから智恵や勇気、反省、時には諦観などを引き出しうると考えるからだ。

 歴史は法則に従って進歩するものでも、完全に予測可能なものでもない。われわれには努力し選択の余地を広げる自由が与えられており、世の中はすでに決められた(pre-determined)経路に乗って進んでいるわけではない。また、文明が絶えず進歩し、人類が野蛮から確実に脱却しているわけでもない。

歴史や社会を理解する上で、ひとつの理論に拘泥することは間違いを生みやすい。進歩を阻む原因のひとつが、「プロスペクト理論」が明らかにした人間の思考のバイアスであるとしても、この理論を学んで戦争が回避できる具体策が浮かび上がるわけではない。十分に資料や統計データを用いて似たケースを分析し、「プロスペクト理論」が示唆する人間の思考のバイアスに留意しつつ、戦略や政策を打ち出すというのが人間のなしうる最善の対応と考えるしかない。

(以下、次回。参考文献は、新書刊行時にまとめて表示いたします)

猪木武徳(いのき・たけのり)

1945年、滋賀県生まれ。大阪大学名誉教授。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学大学院特任教授などを歴任。主な著書に、『経済思想』(岩波書店)、『自由と秩序』(中公文庫)、『戦後世界経済史』(中公新書)、『経済学に何ができるか』(中公新書)など。