2019 12/10
経済社会の学び方

第5回 社会研究における理論の功罪②――演繹論理に酔う危うさ

■自由貿易の黄金時代は短かった

 前回引用した習近平・中国国家主席の言葉、「保護主義は自らを暗い室内に閉じ込めるようなもので、風雨に打たれるのを避けることができるようだが、陽光と大気からも隔絶されることになる。貿易戦争の結果は双方が傷つくだけだ」は実に巧みな表現だ。

 発展途上の国は、未発達な産業をかかえたまま世界の厳しい競争にさらされると、国内産業が育たなくなる危険性がある。そのため、世界の「風雨」を避けるために保護主義に走ろうとする。英国などヨーロッパの工業国に比べて産業化で後れを取っていた19世紀の米国は、基本的に農業国家であり、工業製品の輸入に対して高い関税を課し、「保護主義の砦」と呼ばれた国であった。19世紀の平均関税率は40~50パーセントを計上し、その状態は第一次大戦前まで続いた。

 大戦前までの米国は連邦レベルでの所得税を厳しく制限していたため(所得税を課す権限を認めた連邦憲法修正16条は1913年にようやく批准された)、関税収入は連邦政府の歳入の半分くらいを占める重要な財源であった。南北戦争の戦費調達で政府支出は劇的に上昇したが、戦争が終わっても、もとの水準に戻る力は働かなかった。米国にとって、関税収入は、それ無しでは連邦政府封鎖(government shutdown)を招きかねないほど歳入の中で重要な位置を占めていたのである。

 一方、ヨーロッパはどのような状況だったのか。経済力と技術力、そしてリカード理論の影響もあり、19世紀の後半の英国では自由貿易は合理的な政策と考えられていた。他方、フランスにおける保護主義には根強いものがあった。英仏間の自由貿易を目指す通商条約として知られるコブデン=シュバリエ条約(英仏通商条約)はようやく1860年に(当初はフランス国内では秘密裡に)結ばれる。この条約によって英仏間では、1880年ごろまでほぼ自由貿易の時代が続く。ドイツでも関税同盟が結成されたあと、1862年に、フランスとの間で自由貿易協定が結ばれている。米国は、南北戦争のためもあって、こうしたヨーロッパの動きから取り残される状況が続いた。

 しかし1880年代になると、ドイツもフランスも保護主義へと政策を切り替え始め、第1次大戦前まで自由貿易路線を貫いたのは英国とオランダだけになっていた。自由貿易の論理は政治の場だけでなく、産業界でもそのままの形で受け入れられることはなかったのだ。

 20世紀に入ると、米国の保護主義政策は国内的な失政となっただけでなく、国際的にもブロック経済化を推し進めることになる。それには第1次大戦が大きな影響を与えた。交戦国は、戦時中の貿易遮断によって自国の産業を育成せざるを得ない状況に追い込まれる。日本でも、世界大戦中に製鉄、染料などいくつかの重要産業の自給体制が進んだ。こうした事情はいずれの交戦国でも起こった。しばしば挙げられる例は、火薬の製造に必要な染料や機械工業である。

 ところが戦争が終結して貿易が再開されると、先進諸国にドイツから良質安価な鉄、機械、染料などの工業用製品が流入する。その結果、それら産業の育成段階にあった国々は、自国産業保護のための「輸入防遏(ぼうあつ)」の手段として高い関税に訴えざるを得なくなった。こうした手段は、報復関税をはじめ、輸入割当などの非関税障壁を設けて、他国の製品の流入を阻止する動きを加速させた。これが保護主義連鎖のメカニズムのひとつの形である。

 このように振り返ると、第二次大戦後のGATTによる「自由で多角的な貿易」という理念は、米国にとっても新しい国際経済秩序への挑戦であったと言える。近年の米国の保護主義政策への強い傾斜は格別新しい傾向ではなく、一種の先祖返り(atavism)と言ってもよい。

■歴史の転換点としての1930年6月17日

 これまで見てきた欧米での保護主義への持続的傾斜と、経済学が理論として説いた自由貿易の利益との間の齟齬をどう説明すればよいのだろうか。この点を理解するためには、具体的なケースを知っておく必要がある。医者ができる限り多くの症例を知ることが大事なように、社会研究においても歴史的な事例を多く学んでおくことは肝要だ。

 自由貿易が貿易当事国に利益をもたらすことが「理論的に」説明できても、経済合理主義を信奉する政治家すら、その理論に即した政策を打ち出さないことには明らかな理由がある。国内の産業間の利害対立、国際関係をはじめとした政治的要因など、理論の成立を阻む様々な条件が存在するからだ。

 そうした政治的な要因が保護主義的な政策を選択させた場合、どのようなことが起こるのか。その例を米国の通商政策を通して見ておこう。理論(理性)だけが現実を規定するのではなく、感情(その典型は経済ナショナリズム)が政治と政策を動かすという現実を示す例でもあるからだ。

 1930年6月17日は「世界史における転換点」(C.P.キンドルバーガー)と呼ばれることがある。すでに不況に突入していた米国で、農産物を中心に高関税をかける「スムート・ホーリー関税法」にフーバー大統領が署名したからである。この法律の成立は、世界各国が(報復関税を含む)高関税政策をとるゴーサインとなった。

 米国の約1000人の経済学者(I. フィッシャー、 P. ダグラス等)や一部の経済人(H. フォード、T.W. ラモント等)はフーバー大統領に対して、この関税法に署名しないよう請願運動を展開していた。しかし大統領自身は、この法案に不賛成であったにもかかわらず、共和党内の力関係や財界からの圧力によって、経済学の論理を顧慮することなく結局この関税法にサインする。サインした時点で米国経済の不況はすでに深刻化していたから、スムート・ホーリー関税法の導入が不況の引き金になったわけではない。しかしその後の米国経済の長い不況の道を準備したことは確かだ(ちなみに、この関税法案の発起人であるスムート上院議員とホーリー下院議員は1932年の選挙で議席を失っている)。

 米国の保護主義が国際経済と国際関係にもたらした困難は決定的であった。米国の保護主義的な姿勢が、カナダにおいて親米的な自由党政権から、保護主義的な保守政党への交代を招き、カナダの通商政策を報復関税中心の保護主義へと転換させることになる。これを現代の状況に置き換えと、メキシコからの輸入品に米国が高関税をかけることはメキシコを反米的にし、経済ナショナリズムを煽る可能性が強まるということだ。

■レーガン政権の日本バッシングの帰結

 1980年代のレーガン政権時代の米国も、通商法スーパー301条で日本を「不公正貿易国」に特定し、いわゆる「日本バッシング」を激しく浴びせかけた。しかし日本からの輸入を防遏して問題が解決したわけではない。この時も米国の著名な経済学者たち(P・サムエルソン、R・ソロー、F・モディリアーニなど)が、レーガンの保護主義的政策がいかに経済学の論理からはずれたものであるかをアピールしたにもかかわらず、保護主義は80年代の米国の通商政策の基調となった。

 しかしレーガン政権下の貿易障壁を高める政策は米国の基幹産業の再生にはつながらず、米国の議会予算局(Congressional Budget Office)の報告書(Has Trade Protection Revitalized Domestic Industries ? Nov. 1986, p.101)も、「貿易制限は関連産業の国際競争力の上昇というその第一の目標を達成することには失敗した」としている。言い換えれば、米企業の不調の主原因は、日本からの自動車等の輸入ではなかったということになる。 

 むしろ、米国の消費者に与えた犠牲は大きかった。1980年代初頭にレーガン政権が輸入制限を課した日本の自動車の価格は平均16%上昇し、米国の消費者は大きな打撃を被った。鉄鋼の輸入制限が鉄鋼材を使用する「川下」産業に高コストを強い、繊維・アパレル製品の輸入制限も物価高で低所得層を困難な状況に追い込んだのだ。

 このように1980年代にも、米国は保護主義的な高関税で国内産業を保護しようとして失敗を犯している。最近のトランプ大統領の通商政策も、高い輸入関税と輸出奨励金によって貿易収支を黒字化して外貨を蓄積すれば、それが一国の富の形成であると錯覚する(250年前にアダム・スミスが『国富論』で厳しく批判した)重商主義政策と同じなのだ。外貨(スミスの時代は金銀など)をため込むことが一国経済の主目的ではない。貿易を通して生産と消費を拡大することこそが、富の創造につながるのである。こうした経済観を理解するためには、自由貿易論の理解が必要であるが、それだけでは不十分なのだ。国民経済全体にとって、何が最終的に消費と生産を増大させるのかを総体的に理解しなければ、適切な政策は打てないのだ。

 比較生産費についての明晰な理論が打ち立てられたにもかかわらず、現実の通商政策がこの理論通りに発動されない事例をいくつか見てきた。こうした事態が生まれる理由として、単純化された明晰な理論だけでは現実の政策を立案できないこと、そして仮にその理論が問題の中核をとらえていたとしても、その政策によって影響をうける国内の社会的グループの間で対立が生まれれば、経済合理的な選択には必ずしも至らないということを、こうした歴史的事例は教えてくれる。

■福澤諭吉における理論と政策

 理論は社会的「文脈」の中ではじめて意味や力を持つという点に関して、日本の自由貿易か保護貿易かをめぐる論争の歴史例も挙げておこう。この論争は、「幼稚産業保護論」、あるいは輸入代替工業化戦略か、輸出志向工業化戦略かという開発途上国の政策選択問題と深く関わる。明治期の経済政策と通商政策に影響力を持った福澤諭吉は、「理論の絶対性」を過信することを戒めている。

 幕末維新期から19世紀末に至るまでの、日本の自由貿易と保護主義をめぐる論争において福澤が取った立場は、まさに社会的「文脈」の中でその当否を論ずるという姿勢であった。まず『西洋事情』では、鎖国攘夷の愚を捨て、自由貿易論に立って、海外の技術情報獲得のために門戸の開放を説いている。しかし1874(明治7)年ごろから、福澤は欧米資本主義の経済学をそのまま輸入するのではなく、自由貿易vs.保護主義の得失を論ずるようになる。そして、日本の工業化が軌道に乗り始めた日清戦争前後から、「保護関税の必要なし」との自由貿易論を福澤は展開し始める。

 こうした福澤の姿勢の変化には、自由貿易の利益がどのような状況で享受できるのかについての合理的かつ慎重な考慮があったことを示している。

■日本資本主義論争を振り返る

 近年では、経済史を含めた歴史研究者の多くは理論構築よりも、丹念な実証研究にエネルギーを注ぐようになってきているようだ。経済学の世界でも、マクロ経済学はもちろん、ミクロ経済学でも同様な傾向が見られる。壮大な理論や抽象的な理論分析よりも、個別具体的な問題を正確で筋道の立った手法を用いて実証分析するという論文が増えている。

 日本人は、歴史や社会科学において理論研究が好きだと言われてきた。日本の歴史学や社会研究を振り返ると、いわゆる「理論論争」が専門家集団を二分するようなこともあった。次にこうした理論論争が、必ずしも新たな知見を生み出すものではないということ示す例として、きわめて要約的に「日本資本主義論争」を見ておこう。

 1930年ごろから始まったこの論争は、戦後世代の経済史研究者にも大きな影響を与えた。それは日本の資本主義の特質、天皇制と明治維新の性格付けをめぐる論争であった。マルクスの理論に依拠する研究者の間で戦わされたこの論争は、経済史研究者の歴史観や政治的立場を区別するシグナルのような役割を果たしながら戦後も続いたのである。

 論争は、西洋史の中で生まれた革命段階論、すなわち絶対主義革命を経てブルジョア革命へ、そしてプロレタリア革命によって社会主義に至るという図式を日本近代史に当てはめようとしたことから始まった。つまり、まず概念とモデルがあって、それで現実の日本の歴史を理解しようとしたのである。

 明治維新を「ブルジョワ革命ではなく天皇による絶対王政を成立させた革命」と規定した「講座派」は、明治維新の政治体制を絶対主義、日本の社会経済体制を半封建的地主制と捉え、来るべき革命としてブルジョワ革命を想定した。彼らの主な論考は『日本資本主義発達史講座』(岩波書店、1932~1933年)に発表された。

 これに対して、1927年7月コミンテルン常任執行委員会で、「日本問題に関する決議」が採択されたのを受けて、1930年代に日本の革命の客観的条件と戦略規定をめぐり(講座派系の)日本共産党と合法無産政党は厳しく対立することになる。機関誌『労農』に寄稿していたマルクス主義(戦後の日本社会党系)の政治活動家や研究者は「労農派」と呼ばれ、明治維新を半ブルジョア革命と規定し、来るべき革命は社会主義革命だと想定していた。この「日本資本主義論争」は講座派と労農派との間で戦わされ、戦後も30年以上、(論者達の政治上のポジションも含めて)その対立は日本の社会科学に長く影響力を及ぼし続けた。

 第2回で指摘したように、概念規定は、研究の到達点であって、出発点ではない。「日本資本主義論争は、「研究の最初に用いる概念は仮説に過ぎない」という姿勢とは逆のアプローチから生まれた論争であった。

■大塚史学の影響力とその意味

 こうした状況の中で、西洋のモデル(模型)を十分理解しない限り、日本の経済発展を把握することは困難だと考え、西洋経済史の研究に取り組むものが現れ始める。その中で、1930年代末あたりから講座派の影響のもとで英国資本主義成立の研究に取り組んだのが大塚久雄である。大塚の(英国産業革命の主役であった綿工業ではなく)毛織物工業を中心に分析した研究は『欧州経済史序説』(1938)、『近代欧州経済史序説 上』(1944)にまとめられた。

 大塚の所論の枠組みとなったのは、マルクス『資本論』(「分業と工場手工業[マニュファクチュア])のマニュファクチュアの起源と基本形態の問題である。マルクスはマニュファクチュアについて、乗用馬車や時計などのケースを例として極めて具体的に論じている。大塚は、産業資本の歴史的な生成を論じながら、農民層のなかから「中産的生産者層」が生まれ、それが両極分解して産業革命の担い手としての資本家と賃労働者となったと立論している。

 たしかにマルクスは『資本論』第3巻20章「商人資本にかんする歴史的考察」で、「商人資本の発展だけでは、ある生産様式から他の生産様式への移行を説明するのに不十分だ」と指摘している。大塚が、マルクスの図式を下地にしながらそれを明確に示さなかったのは、マルクスが「禁書」同然の扱いを受けた1930年代という時代の制約があったためであろう。

 大塚は、戦後も「資本主義社会の形成」(1951)で、農村の解体から始まる「局地的市場圏」 ⇒ 「地域的市場圏」 ⇒ 「国民経済」(国内市場)という転換の順序で近代的市場は成立したと論じている。封建領主の支配下にあった農民たちが、農業の他に手工業生産を開始し、自己消費以上の余剰生産物を生み出し、隣人たちに販売し始めた。ここに「商品」が「貨幣」に転換する契機が生まれ、それが蓄積されて「資本」となったという図式が示される。

 大塚史学の特徴はどこにあったのか。ひとつは、その論理構造の明晰さと分かりやすい「類型論」にある。大塚久雄の経済史学は経済史を超えて、社会科学一般、あるいは社会科学方法論、日本の近代化論にも強い影響を及ぼした。

 この種の図式や理論をめぐる論争が全く無意味なものであったとは言えない。近年の「グローバル・ヒストリー」論がややもすれば見のがしがちな、「国家」と「主体」の問題を問うている点は重要だ。「グローバル・ヒストリー」は、国際経済社会の解剖学・生理学としては有益だ。しかし日本資本主義論争や大塚史学は「一国資本主義論」「一国経済史」の重要性を再認識させてくれる。

 こうした問題意識は、東洋と西洋、封建制と近代性、日本の近代化の絶対的な遅れ等の議論として、戦後かなり長い期間、社会科学方面の学界や論壇で力を持った。ただ学ぶべき点は、先進的な発展を遂げた(理想化された)イギリスは正常であり、その他の国は近代化が遅れた特殊な国だという視点だけから資本主義の栄枯盛衰が論じられないということ、そして極端な理論化は、権威となるような「教祖」を生み出しやすく、自由で健全な懐疑主義(healthy skepticism)が育ちにくいということであろう。

■演繹論理のみに頼ることの危うさ

 日本の人文学や社会科学と呼ばれる分野には、理論を崇拝し、折衷主義(syncretism)を嫌う者が少なくない。こうした風土は、概して演繹論理を重視し、さらには崇拝する理論でなにごとをも解釈し、解釈できない部分についてはこれを無視するか、「現実の方が間違っている」という態度を生むことがある。こうした演繹論理の偏重はすでに述べたように、ドグマと「教祖」を生み出しやすい。

 そもそも人間自体は、考えにおいても行動においても混合的・折衷的であり、二律背反的なところがある。概念や言語、あるいは理論モデル(模型)は、現実をある側面から切り取り、論理的な首尾一貫性を保っているに過ぎない。にもかかわらず、こうした概念化され模型化された人間像を、そのまま現実の理解や社会運動の原理の中に持ち込んでしまうことがある。演繹論理の偏重や徹底は自由な発想を妨げるおそれがある。「徹底する」精神は個人の思考や行動に限れば尊いものを生み出すかもしれない。しかし社会全体においては、極端や徹底は必ず他者への強制につながる。理論を徹底させて現実と混同すると、必ず自由を奪うような思想へと変貌しやすい。その意味では、中庸を射抜くことが必要であり、思想や政治行動において妥協点を見つけることを軽視できない。

 社会研究における理論は、先に取り上げたリカードの理論が示すように、現実を単純化することによって生まれる。したがって理論のみを崇拝することは、その単純化された世界に自らを閉じ込めることを意味する。確かに現実を観察するためには、すでに述べたように概念や理論を必要とする。現実を見るとき、われわれは意識しなくても概念や理論で仮説をテストしている。だが現実を理解するためには、こうした理論の世界からもう一度現実の生きた人間社会へと戻らなければならない。このステップを不純なもの妥協的なものとして拒絶するのは、「夢想家」とのそしりを免れない。

 演繹論理好きや極端に走りやすい傾向に関して、面白い発言がある。イギリスの歴史家A.J.P. テイラー(1906~1990)は、「ヨーロッパの支配か完全な破滅かのいずれかの道をドイツが歩むようになった原因はどこにあるのか」を問うて『近代ドイツの辿った道』を著した。同書の冒頭で、テイラーは次のように述べている。

「ドイツ人の歴史は極端の歴史である。中庸以外のあらゆるものが含まれている。そして、一〇〇〇年の歴史の歩みの中でドイツ人は正常さ以外のあらゆるものを経験してきた。彼らはヨーロッパを支配した。そして彼らは他の人々による支配の無力な犠牲者でもあった。彼らはヨーロッパで比類のない自由を享受した。そして彼らは、同じように比類のない専制政治の犠牲にもなった。彼らは最も超越的な哲学者達、最も宗教的な音楽家達、そして、最も冷酷、破廉恥な政治家達を生みだした。(中略)彼らの歴史の中に『中道主義』、『常識』 ―― フランスと英国の特色を示してきたこの二つの性質――を探しても無駄である。ドイツの歴史の中では正常なものは何一つなく、極端な揺れ動きだけがある」(井口省吾訳)

 よくもこれほど他国の特徴を意地悪く、そして巧みに要約できたものだと思う。ヒトラーだけを悪者に仕立てて、第二次大戦の起源を説明する史観を批判したテイラーだからこそ、これほどはっきりと言い得たのであろう。この引用の中の「中道主義」と「常識」の欠如の辺りは、われわれ日本人にも少し耳が痛いところがある。なぜなら、演繹論理に酔うことから極端や非常識は生まれるからだ。

(以下、次回。参考文献は、新書刊行時にまとめて表示いたします)

猪木武徳(いのき・たけのり)

1945年、滋賀県生まれ。大阪大学名誉教授。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学大学院特任教授などを歴任。主な著書に、『経済思想』(岩波書店)、『自由と秩序』(中公文庫)、『戦後世界経済史』(中公新書)、『経済学に何ができるか』(中公新書)など。