2019 11/15
経済社会の学び方

第4回 社会研究における理論の功罪①――リカードの「明晰さ」と「悪弊」

デヴィッド・リカード(1772-1823)

■グランド・セオリーと預言

 理論と一口に言っても、社会研究の分野にはさまざまな種類とレベルの理論がある。いかなる根拠でもって、そしてどれほどの時間軸で経済社会の動きを見通そうとしているかにより、その理論の信頼度と魅力は異なってくる。ただ面白いものは概して根拠が薄く、信頼できそうな根拠のある理論には、大向うをうならせるものは少ない。

 いわゆるグランド・セオリーと呼ばれる、歴史や経済発展を一般化した巨視的理論がある。この種の理論を頭から無価値なものとして退けることはない。だが人間社会の未来を見通すにあたって、その時平(time horizon)と根拠を意識することは重要だ。

『経済学者、未来を語る ― 新「わが孫たちの経済的可能性」』(イグナシオ・パラシオス=ウェルタ編、小坂恵理訳)は、これまで世界の経済学を牽引してきた研究者たちによる未来予測を10篇収めている。同書の中で、ハーバード大学教授だったマーティン・ワイツマン(1942-2019)は気候変動による将来社会についてのシナリオを論じている。この優れた理論家が、冒頭で次のように述べていることに注目したい。

「率直に言って、未来の知的探索はSFの領域に属する作業だ。予測というよりは推測していかなければならない。現代のアイデアに基づいて考えていくが、そこから確定的な結果が導き出されるわけではない。だから本章もSFの体裁をとり、できれば優れた仕上がりになってほしい。現在と未来の結びつきについて大きなスケールで考えるだけでなく、人間と周囲の自然条件に関しても大きなスケールで考えるきっかけになれば幸いだ」(邦訳 pp.241-242)

 気候変動の問題を考えるとき、まず気温や降水量がどのような幅の循環と趨勢を示しながら変化して来たのかを検討しなければならない。そのうえで、近年の気候が、果たしてどの程度異常なのか、二酸化炭素ガスの放出量が増え続ければ、地球は将来的にどのような現象に見舞われるのか、こうした問題を広く、そして長期的な視野から「推測」する必要がある。

 ことは気候変動に限らない。人間自身の経済活動が招いた「外的」な環境の変化だけではなく、人間自身が生み出した政治経済体制であるリベラル・デモクラシーと市場システムも、人間社会を大きく変えてしまう可能性がある。いくつかの欠陥を持つこうした政治経済システムの維持可能性(sustainability)を憂え、現代社会の危機を指摘する理論も少なくない。

 AIはじめIT技術のもたらす技術環境の急激な変化が、社会生活にもたらす影響に関して近年いくつもの説が提示されている。この種のグランド・セオリーを頭から退けるのではなく、預言者の「荒野に叫ぶ声」として心にとめておくことは必要だ。しかし残念ながら、人間社会の形を規定する要素はあまりにも多く、それぞれについてのわれわれの知識は極めて不完全だ。したがってこうした長期を予測するようなグランド・セオリーを、根拠のない「御託宣」と区別することは難しい。データと科学知識に基づいた予測なのかどうかを追試して判別することは容易ではない。

 概してグランド・セオリーは「預言」(prophecy - 神から預けられた言葉を人々に伝える)に近いものが多く、何らかの倫理的勧告が含まれている場合がある。「予言」(prediction ― 未来の物事の推測)とは性格が異なる。ある命題を論証すること、反証可能性のあることについては、すでに紹介した英国の経済政策学者 A. ケアンクロスの言葉、「主張することは簡単だ。難しいのは論証することだ(Assertion is easy, demonstration difficult.)」を思い出したいものだ。

■仮定に潜む価値判断

 それでは社会研究において、グランド・セオリーではない理論とは何なのか。「学説」、「理論」、「定理」など、その呼称と位置づけは様々であるが、経済学に限っても理論と呼ばれるものは数多くある。一定の条件(仮定)のもとで、ある行動仮説(何を目標に行動しているのか)を前提として論理的に推論して結論に達することができれば、それは一般に「理論」と呼ばれる。

 ユークリッド幾何学のように、仮定を設定してそこから論理的に演繹して一定の結論を得るという構造を持っている。したがって、仮定の中にすでに結論が隠されていると考えることもできる。また、主体が明確な目標を持って行動するという仮説の中には、その理論が想定する人間像や、理想的な社会のイメージが入り込んでいる。こうした理論の持つ価値的な側面、すなわち、人間が何を優先させて行動するのか、その理論が何のために、誰を説得しようとしているのかという点でも、価値と理論を切り離すことが困難になる。その理論自体の論理構成は政治的立場から独立しているように見えるときでも、その仮定、あるいは結論の解釈が価値判断に繋がることがある。例を挙げながらこの点を考えてみたい。

■リカードの比較優位の理論

 筆者が経済学を学び始めたころ、一番印象に残ったのは、貿易における「比較優位」の理論であった。経済学の説くところは、だいたい直感や常識と変わらないものが多いと思っていたが、デヴィッド・リカード(1772-1823)の(絶対優位ではなく)「比較優位」の理論は新鮮であった。二つの国にとって、貿易をする方が、自給自足の状態よりなぜ経済的に豊かになり得るのかに巧みに答えていたためだ。詳しい解説は「国際経済学」のテキストに譲るとして、この理論が少し直感や常識に反すると感じる点を、その定式者リカードの『経済学および課税の原理』(羽島・吉澤訳)第7章の数値例に沿って説明しておこう。

「イギリスは、毛織物を生産するのに1年間に100人の労働を要し、またぶどう酒を醸造しようとすれば、同一期間に120人の労働を要するような事情のもとにあるとしよう」
「ポルトガルでぶどう酒を生産するのには、1年間に80人の労働しか要せず、また同じ国で毛織物を生産するのには、同一期間に90人の労働を要するかもしれない」
 この技術条件を図にまとめると次のようになる。

 ポルトガルは、ぶどう酒についても毛織物についても英国に対して「絶対優位」にある。しかし英国国内とポルトガル国内それぞれの、ぶどう酒と毛織物の優位性を比較すると、ポルトガルのぶどう酒は英国に比べて「比較優位」にあり、毛織物は「比較劣位」にある。ポルトガルは、ぶどう酒でも毛織物でも、労働者の1単位時間当たりの労働投入に対する生産量は英国を凌いでいる。しかしその「凌ぎ方の程度」において、ぶどう酒の方が高い。したがって、イギリスは毛織物の輸出によってぶどう酒を輸入し、購入することが、自国の利益であるとみなすであろう。ポルトガルはぶどう酒の輸出によって毛織物を輸入するのが、自国の利益であるとみなすであろう。

 リカードはこのやや直観に反する論理の意味を次のように説明する。

「この交換は、ポルトガルによって輸入される商品が、そこではイギリスにおけるよりも一層少ない労働で生産されうるにもかかわらず、なお行なわれうるであろう。ポルトガルは毛織物を90人の労働で製造しうるにもかかわらず、その生産に100人の労働を要する国からそれを輸入するであろう。なぜなら、ポルトガルにとっては、その資本の一部分をぶどう栽培から毛織物製造へと転換することによって生産しうるよりも、一層多くの毛織物をイギリスから交換入手するぶどう酒の生産にその資本を投下する方が、むしろ有利だからである。」

■サムエルソンの挙げた譬え

 リカードの説明だけでは核心を実感できないかもしれない。米国の経済学者ポール・サムエルソン(1915―2009)の挙げた例が分かりやすい「譬え」として紹介されることが多い。サムエルソンは、ケインズ経済学と新古典派経済学を統合した20世紀におけるスタンダードな理論(「新古典派総合」)の確立に貢献した理論経済学者であった。ただ、教科書でしばしば用いられるサムエルソンがあげたこの例は、必ずしもリカードのモデルに完全に沿うものではない。直感的に分かりやすい譬えと考えるべきであろう。

 ある法律事務所に弁護士と秘書がそれぞれ一人いる。弁護士も秘書も法律知識とタイプ双方の知識・技能を持っている。しかし秘書は、法律知識でもタイプの能力においても弁護士にはかなわない。ただ秘書の法律知識は、タイプ能力の場合よりも弁護士のそれと比べると開きが大きい。この場合、どのように二人の間で仕事を分業すれば、事務所の仕事の処理量は増大するであろうか。答えは、弁護士は法律業務に専念し、秘書はタイプの仕事に専念すれば、この法律事務所の経済利益が大きくなるというものだ。弁護士がタイプを打っている間に失う利益は大きいが、秘書がタイプの仕事をしている場合に失う利益はそれに比べると小さい。したがって、弁護士は法律業務だけに専念し、タイプの仕事は秘書に任せるのが一番の得策ということになる。

 この譬えにも、いくつかの条件(それぞれの仕事の必要時間数、どちらもヒマにしていることはないなど)が必要であるが、リカードの理論にも、完全雇用であること、産業間での資本・労働の移動にコストがゼロであることなど、いくつかの仮定があることを忘れてはならない。

 自由貿易の利益を説くリカードの論理は、さらに多商品、物価、為替相場の変動などを考慮しつつ展開される。その結果リカード理論は、自由貿易体制の下では、どの商品がどの方向に流れるかは生産技術の国家間の比較優位性によって決まること、そしていかに貿易が当事国の生産と消費を拡大するのかを示す基本的な説明道具となった。

 このリカードの自由貿易論は、当時の工業資本家たちの望む通商政策とも方向性が合致した。貿易が自由化されれば、大陸からの安い穀物が労働者の生計費(したがって賃金費用)を低下させて利潤の増大をもたらすと考える工業資本家の利益をリカードが代弁したのに対して、論敵のマルサスが、穀物価格の下落で大打撃を受ける英国内の地主階級の利益を擁護したと言われたのはそのためである。

■シュンペーターが批判した「リカード的悪弊」

 リカードの自由貿易の利益に関する推論(モデル分析)は、大胆な仮定の下で数値例を用いながら、きわめて明晰な結論に到達している。したがってリカードの分析は、理論経済学における数理分析の先駆けとなる偉大な学問的貢献として讃えられてきた。特に、当時議論されていた「穀物法」によって大陸ヨーロッパからの安価な穀物の輸入を堰き止めたい地主階級擁護派の政策論を論破するには十分強力なものであった。

 しかし彼の議論にはいくつかの重要な仮定が組み込まれていたことには注意すべきであろう。ひとつは、ぶどう酒の製造職人の技能は、熟練の毛織物職人に転換でき、毛織物製造機械はぶどう酒醸造装置に早変わりできるという「技術と機械の可鍛性(malleability)」である。そこでは貨幣資本と機械設備(物的資本)の区別がなされていない。こうした強い仮定からイギリスとポルトガルの技術の違い(比較優位)が「貿易の利益」を生み出すという結論が導き出されているのだ。具体的には「イギリスは、毛織物を生産するのに1年間に100人の労働を要し、またぶどう酒を醸造しようとすれば、同一期間に120人の労働を要するような事情のもとにあるとしよう」という仮定にも現れている。現実には機械設備と操作のための熟練について、国内においても国家間でも移動や転換は容易ではない。

 リカードの所論のように、大胆な単純化の仮定を置き、数理モデルに依拠した論理から現実問題への勧告を導き出す分析方法を、J.A. シュンペーターはリカード的悪弊(Ricardian Vice)という言葉で次のように厳しく批判した。

「彼の関心は直接的で実際的な明確な結果を得ることにあった。それを得るために彼は一般的な体系を粉々に切り刻み、出来るだけ大きな部分を束ねて冷蔵庫に放り込んだ。そのため、多くのものが冷凍になり「所与」となった。そしてこれらの仮定によってすべて解決が見つかるまで、単純化の仮定を次々と重ねて行ったのだ。(中略)そして望む結果が最終的にほとんど「同義反復」のように現れるまで、単純化をすすめ、変数間の一方向の関係を打ち立てたのである。(中略)このような性質の分析結果を現実問題の解決へと適応する習慣を、リカード的悪弊(Ricardian Vice)と呼ぶことにする。」(『経済分析の歴史』)

 リカードの仮定では、ポルトガルはぶどう酒生産・毛織物製造の双方において英国より効率が高いと仮定されている。そしてぶどう酒製造の毛織物製造に対する生産性の優位が、英国と比べて高いという「比較優位」の仮定から、貿易の利益が双方に生まれるという結論は確かに驚くべきものだ。

 しかし、クルーグマンが論文、Scale Economies, Product Differentiation, and the Pattern of Trade, (American Economic Review(1980))で分析したように、イギリスにぶどう畑があったとしても、ポルトガルのぶどう畑には「規模の経済」(広大であれば生産がより効率的になる)が働くためにイギリスは太刀打ちできず、ポルトガルは新しいマーケットをどんどん拡張していくはずであり、同様に、ポルトガルの毛織物業者ははるかに機械化のレベルの高い英国に対抗できないため、英国の毛織物業者が生産を増大するというのが、現実に起こり得る事態である。 つまり、ぶどう酒と毛織物の二国を合計した総生産量が増加するか減少するかは、資本や労働がすぐに転換・調整できる世界を考えるよりも、規模の経済が働くか否かに大きく依存していると考えるのが自然であろう。

 リカードの比較生産費の理論を例に挙げて「リカード的悪弊」の問題に触れたが、リカードの姿勢を悪弊や悪徳として退けるのはもちろん公正さを欠く。後段で説明するように、理論の価値や有用性を理解しておくことも必要だからだ。ただ、穀物法が廃止されると(1846年)、自由貿易の短い黄金時代(特に1860年の英仏通商条約からの1879年まで)を経て、その後も貿易の自由を擁護する人たちが、リカード理論を根拠として政策への賛否を判定するようになったことは確かである。

■強者の論理ともなりうる政治性

 生産要素が労働しか想定されていないリカードの理論は、20世紀に入ってから貿易理論家たちによって一般化が進められ、自由貿易によって生まれる貿易の利益(gains from trade)を理論的に支える役割を果たしてきた。

 貿易が、それぞれの国の労働、土地、資本などの資源の存賦量に規定されることを明らかにしたのは「ヘクシャー=オリーンの定理」である。この定理は、それぞれの国の資源の存賦量の比率と、各種の財の生産をするときに使う資源の比率(資本集約的か、労働集約的か)が、どの財がどちらの方向に輸出・輸入されるのかという「貿易のパターン」を決めることを示した。自由貿易が世界経済の生産と消費の拡大につながると論じるときに、その根拠とされてきた理論である。

 もちろん、自由貿易が当事国に利益をもたらすかどうかという問題は、関税と数量制限などの対外政策だけで論じられるわけではない。たとえば、国内における生産と消費にいかなる税制や補助金政策が適用されるかは、生産費に大きな影響を与えるから、国家間の生産費の比較計算を左右する。その意味では、関税や数量制限だけで「自由貿易か保護主義か」の区別ができるわけではない。そうした複雑な国内政策の問題はこの理論枠組みでは考慮されてはいない。

 ここで認識しておくべきは、経済理論が証明する「貿易の利益」の理論はあくまでも理論であって、すべての貿易制限をなくせば、自由貿易が「現実に」世界経済に必ず最高の利益をもたらすとは言っていないことだ。

 世界で最初の工業国となった英国は、19世紀の長い時期、「世界の工場」として一番良質の工業製品を世界に供給しうる生産力を確立した。最先端の工業国であったから、自由貿易で国を完全に開いても、外国からの輸入攻勢で国内産業が壊滅的な打撃を受けることはない。ただ穀物だけは、自国で生産すると費用が高く、外国からの輸入に頼った方が安価であった。安い穀物で労働者が生活できれば、工業製品の価格も安く抑えることができ、国際競争力はますます高まる。その条件が整った段階で、英国は国家として穀物への関税を撤廃して自由貿易を主張するようになったのである。自由貿易論は、英国にとって大きな利益をもたらすからこそ政策レベルで強く主張されたのであり、「貿易の利益」が理論的に明らかになったから世界経済のために主張されたわけではない。

 その自由貿易論が英国以外の世界に広く行き渡るようになったのは、英国の経験が、後発国にとっても同じ論理で成立することに人々が気付き始めたからに他ならない。つまり自由貿易が当該国の利益をもたらすことが明らかになった段階で、多くの国々は自由貿易主義の旗幟を鮮明にし始めるのである。

 このような論調の変化は、近年の中国の通商政策の変化にもあらわれている。習近平・中国国家主席が世界経済会議(WEF)年次総会(2017年1月17日)で行った基調講演には次のような発言が含まれている。

「われわれはグローバルな自由貿易・投資を揺るぎなく発展させ、開放の中で貿易・投資の自由化、円滑化を推進し、旗幟鮮明に保護主義に反対しなければならない。保護主義は自らを暗い室内に閉じ込めるようなもので、風雨に打たれるのを避けることができるようだが、陽光と大気からも隔絶されることになる。貿易戦争の結果は双方が傷つくだけだ。」

 この演説が行われた直後に米国第45代大統領に就任したトランプ氏の演説と比べると、どちらがどちらの国のリーダーの演説なのか見極め難いほどの時代の変化に驚かざるを得ない。それは端的に言えば、保護主義という「守り」に入った米国に対して、急成長を遂げて「200年ぶりの復活」と世界経済への参入を果たし、自由貿易の擁護者に転じた中国、という対照的な構図である。中国が自由貿易を主張し、米国が保護主義に出る。それはこれまでの覇権国の相対的地位の後退が、その国を国際経済秩序から離反させるということを示しているといえよう。

(以下、次回。参考文献は、新書刊行時にまとめて表示いたします)

猪木武徳(いのき・たけのり)

1945年、滋賀県生まれ。大阪大学名誉教授。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学大学院特任教授などを歴任。主な著書に、『経済思想』(岩波書店)、『自由と秩序』(中公文庫)、『戦後世界経済史』(中公新書)、『経済学に何ができるか』(中公新書)など。