波乱万丈な頼子第八回
二章
8
スマイル企画。
藤村が見つけたその会社名を頼りに、莉々子は片っ端から検索をかけてみた。
よくある名前だ。ざくざくとヒットする。が、どれも動画とは関係なさそうな会社だ。もしかしたら、登記もしていないような幽霊会社かもしれない。
って、こんなことをしている場合じゃない! 明石先生に頼まれた契約書、作んなくちゃ!
それからブリンカーをさせられた馬のごとく、一心不乱に契約書を作成した莉々子は、午後四時にはそれを明石先生に提出した。
「ありがとう。悪いけど、そこに置いておいてくれる?」
明石先生が、珍しくノートパソコンにかぶりついている。
明石先生はゴリゴリのアナログ人間で、パソコンでできるものも、手書きで済ませてしまうところがある。なんでも、パソコンの画面を見続けていると、激しい頭痛に襲われるんだとか。
そんな先生が、瞬きを忘れて、パソコンの画面を見続けている。
何気なくを装って覗いてみると、それは「波乱万丈な頼子」の例の動画だった。
「あ」思わず、声が漏れる。
「うん?」
と、明石先生の視線がようやくこちらに飛んできた。そして、
「ああ、これ?」と、パソコンの画面を顎で指した。
「さっきね、藤村君に教えてもらったのよ。この動画のことを」
「は......」
「この動画の視聴者なんだって? 高幡さん」
「いえ、視聴者っていうほどでは。たまたま、お勧め欄に表示されたのを二、三本見ただけで」
本当はもっと見ているが、そこは曖昧にしておいた。
「この動画に出てくる部屋が、湘南マリーナコーポに似てるんだって?」
「はい、間取りとか、同じようです」
「でも、このアパートには高齢者は入居してないのよね?」
「はい。そう大家さんが言ってました」
「うーん。そうか」
明石先生が、おもむろに手を組んだ。これは、なにか情報を掴んでいて、かつ、なにか矛盾を感じているときのポーズだ。
「先生、どうかされました?」
「さっきね。神奈川県警の知り合いに、それとなく訊いてみたのよ。このアパートで見つかった死体のことを」
「大家さんはまったく知らない人物だと言ってましたね」
「そう。今のところ、身元不明。行旅死亡人。でも、高齢者の女性だってことはわかっているんだって」
「ああ、確かに、死んでいたの知らないばあさんだって、大家さんが言ってました」
「もしかして、この動画に出てくる頼子って人と関係あるんじゃないかって、思えてきて」
「どういうことです?」
「だから、二〇一号室で亡くなっていた人は、この動画の頼子って人なんじゃないかって」
「.........」
実は、莉々子もぼんやりとそれは思っていた。が、頭にその推理が浮かぶたびに、片隅に追いやっていた。
......だって、仮にそうだとしたら、気になって仕方がない! それこそ、仕事が手につかないほど、気になって、気になって、しかたなくなるからだ!
そうでなくても、好奇心が強い。ミステリー小説もドラマも大好きだ。だから、弁護士になろうと思った。未解決事件や冤罪事件をこの手で解決したいとも思った。でも、実際の弁護士の仕事は、書類作成に次ぐ、書類作成。推理とか調査とか、そんなことをする仕事はほとんどない。だから、司法試験へのモチベーションも次第になくなった。弁護士になっても書類に追われるだけならば、パラリーガルとして働いていた方が、定時に帰れる。自由時間がある。......そう思ったからだ。
「とはいえ。行旅死亡人が頼子であろうとなかろうと、私には関係ないんだけどね。依頼されたわけでもないし」
と、明石先生は、ノートパソコンを閉じた。「私は、依頼された案件を粛々とやるだけよ」と、莉々子が先ほど置いた契約書をピックアップすると、「さーてと。チェックしますかね......」と、赤ペンを握りしめた。
その赤ペンで、書類に赤が入るのは、たぶん一時間後だ。時計を見ると、五時を少し過ぎている。定時だ。
「先生。修正箇所がありましたら、私のデスクに置いておいてください。明日の朝一で修正しますので。......では、今日はこれで」
+
「リリちゃん、今日は帰りが早いのね」
母親にそう声をかけられて、
「まあね」とだけ、莉々子は応えた。
いつもは、書店をはしごし、そのあとはチェーン店のカフェに入って、形ばかりの勉強をし、帰りは九時を過ぎる。
なんでそんな道草をするのかというと、母との会話を避けるためだ。
最近、母は愚痴が多くなった。昔から愚痴が多いほうだったが、夫......莉々子にとっては父を亡くしてからというもの、その愚痴はさらに加速した。
全世界、全人類に恨みがあるとでもいわんばかりの、どうでもいい愚痴。はじめは真剣に聞いて、いちいち反論もしていたが、しだいにそんな気力も体力も削がれてしまった。
「リリちゃん、ごはん、食べるでしょう?」
一応は、カフェで軽食はとった。それを言うと、いつもの愚痴の弾丸が無数に飛んでくるので、「うん、食べる」とだけ答える。
あーあ。こんなことしているから、体重の増加が止まらないんだ。今はいているスカートだって、ウエストがきつくて死にそうだ。フリーサイズのゴム仕様だというのに。
「でも、今日はちょっとでいいよ。あまりおなか空いてないんだ」
と言ってはみたが、キッチンに漂う美味しそうな匂いの誘惑は強烈だった。
この匂い。デミグラスソースだ。もしかして、今日はビーフシチュー? あー、バターの香りもする。あ、もしかして、付け合わせは、バターライス? マヨネーズとピクルスの匂いもする。......あ、私の大好きなポテトサラダだ!
母は愚痴の多い女で、反論は一切認めない面倒くさい女でもあるが、料理の腕前だけはプロ並み、いや、それ以上だ。父がなんだかんだと母と別れなかったのも、たぶん、胃袋を掴まれていたからだ。
莉々子もまた、同じだ。
鬱陶しい母と離れて一人暮らしするチャンスはいくらでもあったのに、いまだ、こうやって同居している。それは、言うまでもなく、胃袋をがっつりと人質にとられているからだ。
性欲、食欲、睡眠欲。人間の三大欲のうち、やっぱり、食欲が最強なのだろうと、つくづく思う。性欲がなくても生きていけるし、三日寝なくても死にはしない。でも、食欲にだけは、あらがえない。確かに、睡眠と同じで三日ぐらい食べなくても死にはしないだろうけど、莉々子には無理だと思われた。なにしろ、夢の中ですら、何かを食べている。つまりそれは、食欲が睡眠欲に勝っているということだ。たぶん、それは、莉々子だけではない。
食欲は、幸福度のバロメーターでもある。食欲がなくなれば途端に幸福度は低下する。食欲が、幸福をコントロールしていると言ってもいい。つまりそれは、食欲を満たしてくれる者が、幸福を与えているということにもなる。幸福を与えてくれる者、それは時には「神」とも呼ばれる。
そういう意味では、母親はまさに、この家では「神」なのかもしれない。実際、キッチンを仕切る者は昔から「おかみさん」と呼ばれてきた。その「かみ」は、「神」に由来しているのかもしれない。
「なるほどね。だから、食べ物がらみの動画は、バズりがちなんだな」
莉々子は、ふと呟いた。
「なに? なにか言った?」
母親が、鍋から褐色のシチューを掬いながら訊いてきた。
ほんと、面倒くさくて欠点だらけの母ではあるが、キッチンに立っている姿は様になっているんだよな。
......うん?
莉々子の頭に、ひらめきがよぎった。
そして、咄嗟にスマートフォンを取り出すと、そのレンズを母親に向けた。
次回の更新は3月29日を予定しております
Synopsisあらすじ
法律事務所で事務職をしている高幡莉々子は仕事の一環で見つけた、ある動画チャンネルに興味を抱く。「頼子」という70代の女が、困窮した生活状況や波乱万丈な人生を語る動画だ。投げ銭だけでも相当儲けているはずなのに、やらせじゃないの? ちょっとした好奇心から莉々子は次第に取り返しの付かない事態に巻き込まれていく・・・・・・。
Profile著者紹介
1964年、宮崎県生まれ。多摩芸術学園卒業。2005年『孤虫症』でメフィスト賞を受賞し、デビュー。11年に文庫化された『殺人鬼フジコの衝動』がベストセラーに。他の著書に『坂の上の赤い屋根』『さっちゃんは、なぜ死んだのか?』『ノストラダムス・エイジ』など多数。
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