波乱万丈な頼子第六回
二章
6
ニオイがますます強くなっている気がする。
莉々子は、思わず、ガーゼハンカチを鼻に押し当てた。
「二〇一号室の人と、本当に会ったことないんですか?」
大家の質問に、
「ないですよ。つか、まじでなんなんですか?」
と、男性はあからさまに怪訝そうな声を上げた。そして、
「あ、まさか。夜逃げしたとか?」と、一転、どこかワクワクしたような顔で逆に質問してきた。「そうでしょう? 夜逃げでしょう? だって、見てくださいよ。新聞受けがあんなことに」
見ると、確かに、二〇一号室の玄関ドアの新聞受けが、チラシやらなんやらで溢れている。
「まー、うちの新聞受けもチラシが溢れてますけどね。だって、全然必要のないチラシだもん。取る気にもならないから、完全放置。......つか、この新聞受け、必要すか? 下に集合郵便受けがあるんだから、それで間に合いますよね? 下手にこんなのをつけるから、チラシ配りもどんどん突っ込んでいくんですよ」
「だって、仕方ないでしょう、ドアについてんだから」大家が半ば切れ気味に言った。
「いずれにしても、もういいっすか? 夜勤明けで、寝ていたところなんすよ。じゃ」
と、男性が一方的にドアを閉めた。その拍子に、新聞受けに突っ込まれていたチラシの一部がぱらぱらと落ちた。どれも、不動産会社のチラシだった。この近所に高級分譲マンションが建つらしい。五千万円から一億円という数字が躍っている。いかにも、このアパートには不似合いな数字だ。
チラシを配る人も、投函先を考えたほうがいいのに。などと考えていると、
「ヤバい、ヤバい」と、大家が慌てだした。「いやな予感しかない、イヤな予感しか」
莉々子も同じ思いだった。
なにしろ、このニオイ。
これは、最悪なことが起きている証拠なんではないだろうか?
「ひゃー」
大家が、またもや絞め殺される鶏のような声を上げた。
「虫、虫、虫......」
大家の視線を追うと、二〇一号室のドアの隙間から、なにやら白いシミのようなものが見える。
......うん? 動いている?
え?
「ひぃぃぃぃ」
大家に負けず劣らずの、素っ頓狂な声が出る。
それに驚いたのか、先ほどの男性が
「なんなんすか? 煩いな!」
と、再びドアを開けた。
それに驚き、莉々子はいよいよ、腰を抜かした。地べたに尻餅つくなんて、中学生以来だ。あのときは、家の前で足を滑らせて尻餅をついた。が、今回は、見知らぬアパートで、誰が歩いたのかわからないような場所だ。しかも、妙に湿っている。......苔? カビ? 違う、なんかぬるぬるしている得体の知れないもの!
「ああ、すみません、そこ、朝方おれが、戻しちゃったんすよね。なんか、急に気持ち悪くなって。ちゃんと起きたら、掃除しようと思ってたんすよ」
戻した? つまり、これ、嘔吐物?
ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ。
+
「それは、散々な目にあいましたね」
パラリーガルの藤村が、どこか不誠実な目でそんなことを言った。
そもそも、あんたのせいだからね。あんたが、あのアパートを特定するもんだから、私、まんまと行っちゃったんだからね。
「で、それからどうしたんですか?」
「スカートも上着も嘔吐物だらけになっちゃったから、そのまま帰るわけにもいかずに。......大家さんの奥さんの服を借りて、帰宅したわよ」
ありがたいことではあったが、大家さんの奥さんの服は3Lで、ぽっちゃり体形の莉々子にもさすがに大きく、しかもいったいどこで買ったんだ? という常套句が飛び出すような超個性的なデザインと柄で、これを着て約一時間、電車に揺られるというのは、相当な罰ゲームだった。
「でも、よかったじゃないですか」
「なにがよ」
「あのアパートにまた行く機会ができて。だって、借りた服、返しに行くんでしょう?」
「もちろん、返すけど、もう行かないわよ。宅配便で届ける」
「どうしてです? 行けばいいのに」
「いやよ。だって、あのアパートには頼子は住んでいなかったし。そもそも、藤村君の見込み違いだったんだから」
「そんなことはないですよ。あの部屋に頼子さんが住んでなかったということは、ますます事件性が感じられるわけで」
「事件性? ないわよ。あの部屋に大家さんが合鍵で入ったけど、特にどうってことなかった。てっきり、住人が孤独死しているんだと思ったんだけどね」
「じゃ、ドアの虫は?」
「シロアリだったみたい。あのアパート、リフォームしてぱっと見はおしゃれで綺麗な外観なんだけどね、なんでも築四十年だってさ」
「築四十年とはいえ、ドアからシロアリの群れがあふれ出るなんて、ただごとじゃないですよ。しかも、二〇一号室には、誰もいなかったんですよね?」
「うん、いなかったって、大家さんが」
「高幡さんは見なかったんですか?」
「それどころじゃなかったのよ。あんな目にあってさ」
「いずれにしても、ただごとじゃないと思うんだけどな。だって、頼子って人からうちの事務所に相談メールが来たのは確かだし、その住所はあのアパートだったわけだし」
「でも、部屋番号はなかった」
「ということは、他の部屋だった可能性もありますね」
「はぁ?」
「いやいや、やっぱり、二〇一号室が怪しいと思うんですよ。だって、住人がいなくなったんですよ?」
「確かに、それは気になってい――」
と、そのとき、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。見ると、知らない電話番号が表示されている。......誰?
恐る恐る電話に出てみると、
『大変だ、大変だ』
と、男性の声。
イタズラ電話?
いや、この声、聞いたことがある。
あ、大家さん!
そういえば、昨日、連絡先を教えておいた。奥さんの服の借用書代わりだ。
「大家さんですか? 昨日はどうもあり――」
『大変だ、大変だ』
「どうしたんですか? 落ち着いてください」
『二〇一号室の住人が......」
「どうしたんですか?」
『死んでる!』
「は?」
『だから、死んでいるんだよ! あの部屋で!』
「まさか。だって、昨日はあの部屋には誰もいなかったんですよね?』
『ところが、いたんだよ、押し入れの中に!』
「は?」
『うちの妻が、失踪されたままでは困る。なにか手がかりを探さなくちゃって、部屋に入って、見つけたんですよ!』
どうやら、冗談ではなさそうだ。
「それは、いつのことですか?」
『たった今だよ! 今、横で、妻が腰を抜かしている』
「救急車は? 警察は? つか、なんで私に電話かけてきたんですか!」
『おれにもよくわからん、気がついたら、あんたんとこの番号を押してた』
「なんで!」
『だって、あんた、調査事務所の人でしょう? だったら、秘密裏に調査してくれよ。二〇一号室で死んでいる人は誰なのか!』
「どういうことですか?」
『だって、全然知らん人なんだよ、死んでたのは!』
「は?」
『見たことも聞いたこともない人なんだよ。少なくとも、二〇一号室の住人じゃない! 死んでたのは、どこかのばあさんだ!』
Synopsisあらすじ
法律事務所で事務職をしている高幡莉々子は仕事の一環で見つけた、ある動画チャンネルに興味を抱く。「頼子」という70代の女が、困窮した生活状況や波乱万丈な人生を語る動画だ。投げ銭だけでも相当儲けているはずなのに、やらせじゃないの? ちょっとした好奇心から莉々子は次第に取り返しの付かない事態に巻き込まれていく・・・・・・。
Profile著者紹介
1964年、宮崎県生まれ。多摩芸術学園卒業。2005年『孤虫症』でメフィスト賞を受賞し、デビュー。11年に文庫化された『殺人鬼フジコの衝動』がベストセラーに。他の著書に『坂の上の赤い屋根』『さっちゃんは、なぜ死んだのか?』『ノストラダムス・エイジ』など多数。
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