北条氏康 河越夜襲篇第三十二回

 冬之助の運命が大きく変わろうとしている。
 冬之助自身が望んだことではない。
 憲政と桃風のせいであった。
 冬之助は、この二人をまったく評価しておらず、ただの阿呆だと思っている。
 もちろん、阿呆でも構わない。
 亡くなった朝定は、己が阿呆だと悟り、素直に冬之助に教えを請うた。だからこそ、一時は河越城を取り戻すことができそうになったのである。
 憲政と桃風は、そうではない。
 憲政は、自分が氏綱や氏康と同等の名将だと自負している。しかも、欲が深い。家臣の進言にはろくに耳を貸さないし、家臣の力で戦に勝てば、その功名をわがものにしようとする。成功は自分のおかげであり、失敗は家臣のせいである、というのが憲政の歪んだ思考法なのだ。
 桃風も似たようなものである。軍配者としては無能というしかないが、処世術に長けており、陰謀を巡らせる才がある。その才を敵に向ければいいが、なぜか、味方にばかり向ける。おかげで、山内上杉氏が抱えていた優れた軍配者は、ことごとく桃風によって失脚させられた。
 桃風は、山内上杉氏の軍事を統帥できる立場になったが、いざ、そういう立場になってみると、何をどうすればいいかわからなくなってしまい、その場しのぎの愚策ばかりを憲政に献じた。
 その揚げ句、どう転んでも負けようのない河越城の包囲戦で大敗を喫した。氏康や小太郎が次々と鬼謀を繰り出し、北条軍が死に物狂いで戦ったからこそ、あの夜襲で大勝利を収めたのは確かだが、連合軍の軍事を仕切っていたのが桃風ではなく、冬之助だったならば、北条軍は負けていたに違いない。勝負の綾としか言いようがない。
 歴史というものを俯瞰すると、歴史の大きな転換点には、必ずや、取るに足らない阿呆が出てくる。なぜか、その阿呆が最も重要な節目で決断を下し、当然の如く、しくじってしまうのである。そういう例は枚挙にいとまがない。
 この場合も、そうであった。
 平井城に逃げ帰った憲政と桃風は、河越での敗北をいかにして挽回するか必死に知恵を絞った。
 二人が怖れたのは、北条軍が平井城に押し寄せてくることであった。万が一、平井城を落とされれば、武蔵どころか上野まで奪われることになりかねない。
 この時期の北条氏には上野に侵攻するほどの力はないが、北条氏の力を客観的に推し量るだけの冷静さも失っていたのであろう。
 自分たちだけでは、とても北条氏に太刀打ちできないと考えた憲政と桃風は、味方を増やすことにした。その候補として信濃の村上義清を考えた。
 なるほど、村上義清は猛将である。その武勇は近隣諸国に鳴り響いている。甲斐から信濃に攻め込んだ武田軍と何度となく死闘を繰り広げており、互角の鍔迫り合いを続けている。その村上義清と手を結べば心強いと桃風は考え、村上義清との同盟を憲政に勧めた。
「うむ、それはよいな」
 憲政はふたつ返事で承知した。
 そういう経緯を、冬之助も耳にしていた。自分が口を出せることではないから黙っているが、
(馬鹿な話だ)
 と呆れる思いだった。
 連合軍が河越城を包囲するにあたっては、今川と武田の力も大きくモノを言っている。今川と武田が伊豆や相模を脅かす動きをしたから、小田原にいる氏康も迂闊に動くことができず、結果として河越城への救援が遅れたからである。
 今川や武田と同盟を結んだわけではないが、北条憎しという一点で利害が一致し、憲政は両家と手を結んだわけである。河越で大敗を喫した後も、その関係は維持されており、特に今川は国境付近で北条氏を牽制してくれている。
 氏康が松山城の北にある鉢形城や平井城を攻撃しないのは、房総半島で里見氏との抗争に力を注いでいるためでもあるし、山内上杉氏と雌雄を決するのはまだ早いと考えているためでもあるが、今川や武田の存在も大きい。山内上杉氏との戦いが膠着状態に陥り、背後を今川や武田に衝かれては危ないと警戒しているのだ。
 つまり、間接的とは言え、今川と武田は十分すぎるほどに山内上杉氏の役に立ってくれているわけだが、憲政と桃風は、それでは物足りないと考えた。確かに両家は北条氏を牽制してくれてはいるが、憲政に援軍を送るような、直接的な軍事援助をしてくれるわけではない。河越の大敗で多くの兵を失った憲政とすれば、北条氏と共に戦ってくれる同盟者を欲していたのだ。
 村上義清は、
「盟約を結べばお互いに力を貸し合うのは当然のこと。喜んで、上野にも武蔵にも出陣しましょう」
 と調子よく請け合ったが、信濃の情勢を冷静に分析すれば、他国に遠征する余裕などないと容易にわかるはずであった。
 実は、援軍を欲しているのは義清の方で、独力で武田と戦うのが難しくなっているので、何とか山内上杉氏を味方にしたいと考えていたのだ。
 山内上杉氏にとって今川と武田は味方である。共に北条氏と戦う仲間なのだ。その仲間に、村上義清も加えようというのが憲政と桃風の思惑であった。
(本当に馬鹿な奴らだ)
 冬之助は腹が立って仕方がない。
 物事を自分の都合だけで考えるから、あり得ないことがあり得ると甘く考えるのだろうと思う。
 村上義清と武田晴信は不倶戴天の仇敵同士なのである。義清は武田を根絶やしにするためならどんな手でも使うだろうし、それは晴信も同じである。晴信にとっては、氏康よりも義清の方がずっと憎いのだ。
 山内上杉氏が義清と手を結べば、武田とは手切れになるはずだし、最悪の場合、武田と同盟関係にある今川とも縁が切れる。子供でもわかる道理なのに、なぜ、憲政と桃風にはわからないのか、と冬之助は呆れ返る。
 そのうち、義清と同盟を結ぶことの危うさに二人も気が付くだろう、さすがに武田と今川を敵に回すような愚かな真似をするはずがない......そう冬之助は期待したが、驚いたことに、二人は、冬之助の想像以上に愚かだった。
 何と、信じられないほどあっさり、村上義清と同盟を結んだのである。
 これを上信同盟と呼ぶ。
 当然ながら武田は激怒する。
 仲間を増やすどころか、村上義清と武田を取り替えただけのことだ。
 これで今川が武田に同調すれば目も当てられないことになったであろうが、幸い、今川にはこれといって変化はなかった。
 憲政と桃風は安堵したが、今川には今川の思惑がある。
 山内上杉氏が武田と手切れになり、村上義清と手を結べば、信濃情勢も変わるであろう。信濃は駿河と隣り合っている。その情勢の変化が今川にとっていいことなのか悪いことなのか、それを義元と雪斎は見極めようとしている。それだけのことである。
 上信同盟を結んだことで、憲政のもとに村上義清から盛んに援軍要請がくるようになった。
 今のところ北条軍が山内上杉氏を攻める気配はないし、一方の村上義清は武田軍と死闘を繰り広げているのだから、まずは山内上杉氏の方から援軍を送るのが筋というものである。
 しかし、何となく憲政は釈然としない。
 河越の大敗で多くの兵を失い、もし北条軍が攻めてきたら心細いから、いざというときに助けてもらうために同盟を結んだのに、こっちから援軍を送ったのでは自分の兵力が減って、更に心細いことになるではないか、と腹を立てた。早くも村上義清と同盟を結んだことを後悔し始めている。
「話が違うではないか」
 憲政は桃風を呼んで責める。
「なあに、ご心配なさいますな。北条もすぐには攻めてきそうにありませぬし、いくらかの兵を信濃に送っても大事ありますまい」
「そうかのう」
「恩を売っておけば、北条が攻めてきたとき、信濃から兵が来るでしょう」
「それはわかるが......五千ほども送るか?」
「三千でいいでしょう」
「それでよいのか?」
「数の多寡ではなく、援軍を送ることが大切なのです。さすがに一千というわけにはいかないでしょうから、三千くらいでちょうどいいかと存じます」
「その方が行くのか?」
「いいえ、わたしは行きませぬ。鉢形城に手頃な者がいるではありませぬか」
「ん?」
「養玉でございます」
「うむ、よかろう。そうせよ」
 憲政が承認したので、すぐさま鉢形城から冬之助が呼ばれる。
 座敷には憲政と桃風の他に、もう一人、男がいた。
 金井秀景という中年男である。凡庸な武将だが、家柄はいい。
「金井と共に信濃に行ってもらいたい」
 憲政が言うと、後は桃風が説明する。
 武田軍が北佐久郡に兵を出し、北佐久の豪族・笠原新三郎清繁の拠る志賀城を包囲している。志賀城が落ちれば、北佐久郡は武田のものになる。すでに一年前、武田軍は大井一族を降伏させ、南佐久郡を支配下に置いているから、このままでは佐久郡全体が武田に支配されることになる。
 笠原清繁が村上義清に泣きつき、泣きつかれた村上義清にも援軍を送る余裕がないから、上信同盟を頼りに、村上義清が憲政に援軍を請うたわけであった。
(武田と戦ってどうするのだ。敵は北条ではないか......)
 冬之助は、はらわたが煮えくり返る思いである。
「金井を総大将とし、養玉殿には軍配者として帯同していただく」
 口許に笑みを浮かべながら、桃風が言う。
「すぐにでも出陣してもらいたい。せっかく信濃まで行って、もう志賀城が落ちていたというのでは笑い話にもならぬからな」
「は」
 冬之助が平伏する。黙って命令に従わざるを得ない。逆らえる立場ではないのだ。
 一度鉢形城に戻り、戦支度を調えて、また平井城に来ることになった。
 鉢形城で戦支度しているところに、松山城から資正がやって来た。
 夜、二人で酒を酌み交わした。
「わしも、どうやら信濃で死ぬことになりそうだ」
「信濃で負けるとは決まっておりますまい」
「いや、勝てぬ」
 冬之助が首を振る。
「勝てるはずがない。武田晴信も、軍配者の山本勘助も手強い。金井如きがわずか三千の兵を連れて行って何ができるというのか」
「しかし、養玉さまがおられます」
「わしなど、お飾りに過ぎぬ。目障りだから、体(てい)よく桃風に追い払われるだけのこと。そもそも、わしに軍配を預けるだけの度量の広さがあれば、河越であのような惨めな負け戦をすることもなかったであろうよ」
「......」
 資正は何ら反論できない。冬之助の言う通りだと思うからである。
「山内の御屋形さまも桃風も、実は、信濃のことなど、それほど真剣に考えていない。同盟の義理を果たすために兵を出すだけだから、誰が行っても同じなのだ。山内上杉の旗を武田に見せることができれば、それでいいと思っているのだろう。金井が桃風からどういう策を授けられているかわからないが、恐らく、できるだけ武田とは戦うなと命じられているのではないかな。小競り合いくらいでお茶を濁して、さっさと帰ってこい、と」
「まさか、そのような......」
「馬鹿な話さ。こっちはやる気がなくても、武田はやる気に満ちている。志賀城を落とせば、北佐久郡が手に入るのだから必死に戦うだろう。そんなところに、大してやる気もない凡庸な武将を送って、何ができる? 武田に蹴散らされるだけだ。小競り合いで済まそうなどというのは、こっちの都合のいい考えで、武田がそんなことを許してくれるとは思えぬ。小競り合いどころか、皆殺しにされてしまうわ」
「養玉先生、まさか本当に死ぬつもりなのではないでしょうね?」
「わしは死に損なった男だ。河越で御屋形さまと共に死ななければならなかったのに、おめおめと生き残ってしまい、その揚げ句、主家が滅ぶのを目(ま)の当たりにする羽目になった。簡単に命を投げ出すつもりもないが、生きることにしがみつこうとも思っていない」
「生き延びて下さいませ。扇谷上杉を再興するには養玉先生の力が必要です」
 資正がはらはらと涙を流す。
「わしではなく、源五郎殿の力が必要なのだ。後のことを頼みますぞ」
 冬之助は資正の手を握り、深く頭を下げる。

 二日後、金井秀景を総大将とする三千の兵が信濃に向けて平井城から出陣した。その中に冬之助もいる。冬之助の顔には何の昂揚感もない。ひどく疲れて、気持ちが沈んでいる様子に見えた。

北条氏康 河越夜襲篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期し戦に身を投じるとき、氏康の傍らには祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第三弾。

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー