2019 10/11
日本ノンフィクション史 作品篇

第21回 写真とノンフィクション②――藤原新也『東京漂流』を中心に

■写真が持つ力とは

 1980年代の『東京漂流』シリーズの写真は、藤原新也がひとつの頂点に登りつめた時期のものだった。たとえば生きていたときの“有明フェリータ”の迫力はすさまじい。雑誌の見開きいっぱいに引き伸ばされた写真の画面の半分を黒い影が覆う。闇夜を支配する王の迫力がある。

 ただ、その写真は単なる写実主義の産物ではない。前回引用した文章で、藤原は28ミリの広角レンズを装着したカメラに大光量のストロボを装備、ピントの合う範囲、ストロボの照射範囲を2~3メートルから20メートルあたりまで確保し、犬の登場を待ったと書いている。犬の影は《四メートル手前まで》来て《何かの気配を嗅ぎつけ》《一瞬くびすを返した》(単行本『東京漂流』)。その瞬間に藤原はシャッターを切った。

 雑誌に使われたその写真はいってみれば『プロヴォーク』風である。画像は荒れているし、犬の身体自体はほとんど黒く潰れて写っており、ストロボの光を反射させる目の輝きが圧倒的だ。森山大道が撮りそうな写真だとも言える。

 ただ、画像が荒れているのは、ピントの合う範囲を広げるために絞り込んでいるので露出不足を避けるためにカラーフィルムの感度を高めて使用していたこと、そしてフィルム上では小さく写っていた犬の姿をトリミングして用いたからではなかったか。藤原が書くように28ミリレンズで少なくとも4メートル離れた犬を写したのだとすれば、犬はここまで大きく写らないはずだ。現像焼付工程でアレを演出した『プロヴォーク』とは異なり、写真としての迫力を優先させた結果の画像のアレではなかったかと推測する。

 そんな写真に次ページの有明フェリータの死骸の写真を組み合わせることで、『プロヴォーク』風写真が藤原らしい写真に化学変化する。こちらの写真にはアレもブレもボケもない。大型カメラまで持ち出してはいなかったのだろうが、細部まできちんと写っている写真らしい写真だ。その毛は艶やかで犬が健康であることを示している。「黒人ミドル級ボクサー」に喩えた比喩は的確で、体は引き締まり、それでいて首と脚が驚くほど太い。

 写真は“意味論”ではなく“存在論”のメディアだと先に書いた。それはフランスの記号学者ロラン・バルトが晩年にたどり着いた写真論を踏まえている。バルトは写真に2つの側面をみた。ひとつは“ストゥディウム”であり、言ってみれば写真の意味である。そこに写っているものは何か、その写真は何を示しているのか、言葉で説明したり、解釈したりすることができる。たとえばロバート・キャパが撮影した、銃を抱え込んだまま倒れ込む男性の写真は、スペイン内戦中に人民戦線政府側の兵士がフランコ率いるファシズム勢力と戦っている最中に銃弾に撃たれ絶命した瞬間を写し止めたものだ、というように。

 だが、バルトは写真が持つ本当の力、写真にしかない力はストゥディウムとは別の次元にあると考えた。写真は言葉を超えて「それが、かつて、あった」ことを示す。そして「それが、かつて、あった」という存在の事実が、棘のように直接、私たちの心を刺し貫く。

 たとえばバルトは死んだ母親の若い頃の写真を見る。そのとき、バルトの心に突き刺さるのは母が何をしているのか、どんな女性だったのかという説明=ストゥディウムを超えて、母が「かつて、いた」という事実なのだ。そんな刺す力をバルトは“プンクトゥム”と呼んだ。こうしてバルトは意味論から存在論へ、写真論の転回を用意した。

 有明フェリータの写真もバルトの亡き母の写真と同じだ。艶のある毛並みや太い脚は、「こんな野犬が存在していた」という事実自体として私たちの心を刺す。まさにプンクトゥムだ。

「東京漂流」連載中にその写真を見て、心を強く刺し貫かれた経験があったからこそ、筆者はその約40年後に写真が撮影された場所を訪ねてみたいとまで思ったのだ。フェリー埠頭の殺風景さは1980年代から変わらない。2020年五輪のために再開発が急がれているのは同じ有明でも「10号埋め立て地 その1」であり、「その2」のほうは五輪とは無関係で、生活者は今も皆無だろう。しかし時が経って、文明が行き渡らずに残っていた余白の存在はここでも確実に少なくなっていた。そこを物流の拠点とする会社は増え、未利用のままだった空き地はなくなっている。

 藤原は書いている。《私はこのかつての野犬フェリータの夜の街をすみずみまで知っていた。この東京湾に浮かぶ夜の帝国について、私はあの、一匹の黒い野犬によって一部始終を教えられていた。犬は、無人の街の教師だった。/埋立ての土にへばりつくように生えたブタ草や泡立草の、あのたくましい雑草の生い茂った草むらを蛇のように這い縫うしたたかな無数の獣道を細部まで、私はあの犬によって教えられていた》(同前)。死んだフェリータが砂利の上に横たわる写真にも雑草の草むらが写っているが、今の10号埋め立て地は獣道がありえるほどの深い草むら自体が存在していない。ちなみに東京ではもはや野犬が捕獲されることはない(2019年発表の東京都動物愛護相談センター調査報告による)。藤原の写真はまさに「かつて、それが、あった」ことを示す存在証明であり、逆に言えば現在は「それが、なくなった」不在証明になっている。フェリータの骸の写真の、まだ体温を感じさせるような生々しさが、生命の喪失を印象づける。

■「東京漂流」打ち切り事件

 こうしてまさに脂の乗り切った感があった「東京漂流」の『FOCUS』誌上での連載は、第6回までで突然終わった。なぜそんな顛末になったのかは今や出版史上の“常識”となっている。最初にそれを記したのは藤原自身だ。藤原は連載終了翌年の1983年に単行本『東京漂流』を情報センター出版局から刊行した際に、連載の内容を収録するだけでなく、依頼を受けてから休止に至るまでの経緯を含めて構成し直しているからだ。

 藤原はこう書いている。

《不幸にして、私はF誌の連載を、その六回目において打ち切らざるを得なかった。別にとりたてて大袈裟な問題が起こったわけではない。こういうことは今の世の中の仕組みの中ではありがちなことだ。
 一見、自由な世の中であるように見せかけながら、その裏面でいくつかの「禁忌(タブー)」は以前にも増して堅牢なものになりつつある、といえる。いまや、この社会の中では性表現も事実上解放されているに等しい。また、政治や大新聞や宗教団体に対する批判も、あたかもそれが別の禁忌(タブー)を重く背負わされたマスコミの、自らのカタルシスであるかのごとく、日々たれ流すこともできる。しかし、その一方で差別問題、天皇問題、コマーシャリズム批判等、世間の禁忌(タブー)条項はより肥大化し硬化し始めている。
 私の「東京漂流」連載中止は、私の書いたもの、映像化したものが、その「コマーシャリズム批判の禁忌(タブー)」に抵触したことによる。》(同前)

 藤原が連載第6回「幻街道・シルクロード」で用いた写真は、インドの路上の光景を写したものだ。画面には2匹の犬が登場する。黒い、有明フェリータに似ている犬が人の死骸の脚を噛んで持ち上げている。もう1匹、フェリータの子供と同じ茶色の犬が近くでそれを見ている。

 犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる。そんな比喩がしばしばジャーナリズム論では使われるが、ここでは犬が人を噛んでいる。それではニュースにならないはずなのだが、噛まれているほうは人間といってもすでに息絶えているし、犬はその肉を噛んで食おうとしているのだと説明を聞くと、尋常ならざる光景を写した写真だったのだと気づく。

 藤原によれば、デビューして最初の連載であった「印度行脚」の最終回に見開きでその写真を使おうとしたが、編集長判断でボツにされた。その写真を藤原は再び使おうとする。

 当時、サントリーは主力商品だったウィスキーの「オールド」(1981年には約1000万ケース、1億3000万本以上を売り、アメリカで最大の売上を誇ったJ&Bの2750万本の4.7倍を記録していた)の広告として、シルクロードをテーマにしたキャンペーンを展開していた。NHKが特別番組を作るなど、かつて東西文明を繋いだ絹の道=シルクロードの歴史探訪がちょっとしたブームになっており、サントリーオールドの広告も雄大な中央アジアのイメージを連続して取り上げるシリーズ広告だった。

 そんな広告のパロディを藤原は作ろうとした。単行本の『東京漂流』には『FOCUS』に載るはずだったオリジナル原稿が収録されている。それはサントリーオールドの広告と同じレイアウトが採用されており、メインのコピーの位置には「ヒト食えば、鐘が鳴るなり法隆寺。」の藤原謹製の句が書かれており、問題の屍体写真の左肩には「犬が見せた、真の世界。」の言葉を添えて、わざわざ「カントリーオールド」のラベルを合成して作って貼った、サントリーオールドのボトルの写真が載せられている。

 単行本の『東京漂流』は、連載が始まる前の編集部とのやり取りにも触れており、新創刊する写真週刊誌への協力を求めて藤原の元を訪ねた編集長との対話はこのように書かれている。

《「この次にお会いする時に、この雑誌に参加させていただくか否かの確実な御返事と、その場合の、私なりの方法論、企画を考えてまいります」
 私はそう言いながら、ふと次のように言った。
「もし、何か、今の世の中でちょっと気のきいたことをやろうと思えば、コマーシャリズムの問題や、その他の世の中の禁忌に抵触しかねない状態が起こりうる場合がありますね。そういった場合はいかがなんでしょう。今度の雑誌では、そういうことをどうお考えでしょう?」
 編集長は即座に言った。
「藤原さん、その点はすこしもお気になさることはないですよ。そのようなことは、うちはあまり気にしないたちですから」》(同前)

 実際、編集部はあまり気にしなかったようだ。コマーシャリズムを取り上げることは連載前に提出した六十数項目の企画のなかに含まれており、シルクロードの広告を誌面化するアイディアはむしろ編集部の側から出たと藤原は書いている。

 しかし実際に第6回の入稿後、藤原は編集部から修正の要求を受ける。部分的には応じたが大幅な改稿は断っていたら、原稿が印刷に回るその日になって編集部から「すぐに会いたい」という連絡を受けたという。

《車を飛ばしてやってきたT氏は、苦渋の色を浮かべて私の前の床にべったりと座った。
「こういう風に、なっちゃったんですがね」
 T氏はつとめて平静を装うようにしながら数枚の紙面を床に並べた。
 それは、「東京漂流」連載第六回目の刷り出し原稿であった。
 私はその刷り出しをひと目見て、それが何を意味するのか、すぐにわかった。
「なるほど」
 私は自分自身をとり乱さないように低くはっきりとした口調で言った。そして、刷り出しの一枚一枚に目を通し始めた。
 原稿は、私の予想以上にズタズタに改竄されていた。》
《「もう、これは再び手直しする余地はないんですね?」
「無理です」とT氏は溜息をつくように言った。》(同前)

 藤原は実際に掲載された“改竄”原稿をそのまま単行本版『東京漂流』に収録しているが、一枚目の見開きは大きく修正が加えられ、「カントリーオールド」の写真がなくなり、人を食う犬の写真の周囲を余白が大きく囲っている。

 本文の文章にも手が加えられている。《コマーシャリズム》と単独で登場していた箇所が《コマーシャリズム化したマスコミ媒体》に変わっている。《シルクロードといえば、今年ニッポンではなぜか知らぬが忽然と大NHK、大サントリーを筆頭に「偽シルクロード事件」なる行ないがほうぼうでもてはやされたのである。》と書かれた箇所から「サントリー」の名が削除されている等々に加えて、文章の最後が大きく違っている。

《私はかつて、いろいろな機会にシルクロードを歩いた。そこでヒト食らう犬にも出会った。私には私のシルクロードが事実としてある。風化すればそれもひとつの夢となるのであろうが、シルクロードは夢になってはくれなかった。よかろう、と私は独りごちたのである。
「何が、よかろうかね」とシルクロードが尋ねた。
「何が? といわれても困るんだがね」
 と私が答えた。
「要するに、私はおまえが気に入っているようだ。今、“素晴らしい新世界”を見せてやろうと思って、おまえをニッポンの箱庭に放してやったところなのさ」》(同前)

 この段落全体がオリジナル原稿には存在していない。

 こうした変更が、著者の藤原自身の了承を得ずに、入稿作業に関わる誰かによってなされたのだとしたら(――単行本の記述はそう読める)藤原が激怒し、連載が中止されたのも当然だと思われる。

 この“東京漂流の連載中止事件”は藤原にとって一種の勲章となった。1960年代の政治の時代は遠くなり、80年代には高度消費社会化が進む。女性誌を中心に大判のビジュアル雑誌が数多く創刊され、記事よりも広告が存在感を持ちはじめた。裏方だった広告ディレクターやコピーライターが時代の寵児としてもてはやされるようになった。こうしてコマーシャリズムが蔓延しつつあったマスメディア社会のなかで、単身で戦う硬骨の作家――、そんなイメージが藤原には付与された。単行本『東京漂流』は発売後20日で増刷されるほど人気を呼んだ。三省堂書店はその人気に便乗して「東京漂流バスツアー」を企画、参加者を募り、藤原をガイド役に立てて書籍に出てくる場所を回った。

 だが、その後の展開は意外な軌跡を辿る。(以下次回、「連載を打ち切った版元でなぜか文庫化」)

藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、1983年。新版、新潮文庫、1990年。朝日文庫、1995年) 『FOCUS』創刊号から6回で休載に至った連載を含め、13年間旅に明け暮れた「原アジアが与えてくれた視座」から見た日本社会論。

武田徹(たけだ・とおる)

1958年東京都生まれ。ジャーナリスト、評論家、専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。国際基督教大学大学院比較文化専攻博士課程修了。80年代半ばからジャーナリストとして活動。専門は社会学、メディア論。著書に『流行人類学クロニクル』(日経BP社、サントリー学芸賞)、『原発報道とメディア』(講談社現代新書)、『暴力的風景論』(新潮選書)、『日本ノンフィクション史』(中公新書)など。