2019 05/10
日本ノンフィクション史 作品篇

第14回 アカデミック・ジャーナリズムの可能性②――平松剛『光の教会 安藤忠雄の現場』『磯崎新の「都庁」』と渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』『北の無人駅から』

■平松剛『光の教会 安藤忠雄の現場』

平松剛『光の教会 安藤忠雄の現場』(建築資料研究社、2000年) 安藤忠雄設計の「光の教会」が誕生するまでの経緯と関わった人々の姿を描く。第32回大宅壮一ノンフィクション賞(2001年)受賞作。

 実は、大宅壮一ノンフィクション賞とサントリー学芸賞をともに受賞している書き手は2人だけである(2019年現在)。

 2001年に第32回大宅壮一ノンフィクション賞を『光の教会 安藤忠雄の現場』で受賞した平松剛は、2008年に『磯崎新の「都庁」――戦後日本最大のコンペ』でサントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞している。

 平松の3年後の2004年に第35回大宅壮一ノンフィクション賞を『こんな夜更けにバナナかよ――筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』で受賞した渡辺一史も、2012年に『北の無人駅から』でサントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞している。

 まず平松から論じてみよう。大宅賞受賞作『光の教会 安藤忠雄の現場』はこんな書き出しだ。作品の雰囲気を知ってほしいので断片ではなく、長めに引いてみる。

《「話というのは、実は先日、われわれの教会総会で、新しく教会堂を建てることに決まったんだけれども。今、日本および世界において、私が最もこれを建ててほしい、また建てるべきだと思う人は、安藤さん、あなた以外にいない。だからあなたにやってほしい」
 宮本は切り出した。
「ところで、建築家の選択として、あなたがベストだと思うけれど、条件として、われわれにはお金がない。したがって、これもあなたに頼むのが適当だという理由である」
 お金がないことが建築の設計を依頼する適当な理由とは不思議であるが、黙って耳を傾けていた建築家・安藤忠雄が口を開く。
「ほんとに、お金ないの?」
「ほんとに、ない」
「それは、ええもんが建つかもしれん」》

 あらたに教会堂を作ることを決めた、日本基督教団茨木春日丘教会の教会員であり、毎日新聞記者として安藤忠雄と面識があった宮本二美生(みやもと・ふみお)が面談するシーンだ。

 平松は1969年生まれ、早稲田大学で建築を学び、大学院修了後は構造設計事務所に4年間勤めている。建築を学び、建築業界で働く若者の典型的なキャリアだ。だがこの書き出しは建築関係者が建築関係のメディアに書く文章ではない。

 平松は構造設計事務所を辞めたあとフリーランスのライターになる。大宅賞を受賞した後のインタビューでは、沢木耕太郎をこよなく尊敬しており《「あんなおもしろいノンフィクションが建築分野にもあったらなあ」と思っていた》という(『日刊建設工業新聞』2001年3月2日)。

 つまり志向としては建築家を目指すよりノンフィクションの執筆の方角を向いている。『光の教会 安藤忠雄の現場』の文体は沢木の『テロルの決算』と同じく、語り手が物語の外にいて登場人物がみな三人称で描かれる、いわゆるニュージャーナリズムの文体である。予算が乏しいと言われて「ええもんが建つかも」と応える安藤を主人公として、安藤の気風(きっぷ)に惚れて儲けなしの建設を請け負う工務店の人たちや、天才建築家の奔放な想像力に翻弄されつつも自分たちの新しい教会堂の完成を待ち望む教会の人々の姿が描かれる。三人称の記述ゆえに平松自身の取材過程は文章の背景に隠れてしまうが、きめ細かな聞き取りがあったことは想像に難くない。引用部分もそうだが、人間性を象徴する洒落た会話をうまく拾い出してもいる。

 しかし、選考委員が受賞作に値すると評価したのはそこではなかった。立花隆の選評にこうある。

《「光の教会 安藤忠雄の現場」は、安藤忠雄をメイン・テーマとした人物論的ノンフィクションと考えると、いろいろ不満があるかもしれない。しかし、建築というプロセスそのものを主人公にすえたノンフィクションと考えると、実によくできている。一つの建築が、建築主と建築家のやりとりの中から、どのようにして生まれ、施工業者を加え、どのように現実化していくのか、その全過程の紆余曲折が実によくわかる。》(『文藝春秋』2001年6月号)

 立花は《プロのノンフィクション作家が取材しながら書いたのでは、とてもこうは書けなかった》だろうと書き、《著者のように、建築現場に身を置いていた人でなければ書きえないような、実にツボを得た解説》を高く評価している(――どうも立花は平松を物書きのプロではなく、建築の専門家と考えているようだ)。そしてその結果、《建築という大きなモノ作りが、いかに起伏に富んだ、筋書きがない故に面白いドラマであるかが見事に描かれている》と評した。

 確かにそこで書かれている建築のプロセスは細部まで充実しており、もしも建築専門家がその部分だけ取り出して建築関係のメディアに書いていたら、建築学周辺のアカデミズムの文脈に位置づけられる報告レポートになっていただろう。しかも構造設計など理系的な知識を共有しているだけでなく、安藤が若い頃、愛読したフェルナン・プイヨン『粗い石』(荒木亨訳、文和書房、1973年)から、毎日新聞の宮本記者と安藤が話題にしたヴァレリーの建築論『エウパリノス』までをカバーして、「光の教会」への影響を論じるなど、建築関係の教養は厚い。

 しかし平松はノンフィクションのスタイルを用いて『光の教会 安藤忠雄の現場』を書いた。版元こそ建築関係の専門出版社であったが、その作品は誰もが楽しめるドラマとなっている。

 専門性を備え、その道のプロが読むのに耐えられる内容でありながら、一般の読者にも開かれている。それは戸坂の言葉を借りるまでもなく、ひとつの理想ではないか。ジャーナリズムは事実関係に基づく表現であり、当然、正確さが要求される。その正確さは専門家でも納得するレベルにまで高められるのが理想だ。しかし正確な記述は専門性を極める分、得てしてわかりにくくなる。それを一般の読者にも楽しめるように書くのは至難である。だが平松はそれに挑戦し、一定程度の達成を実現した。

 たとえば立花は《ぜんぜんちがうタイプのノンフィクションとして、高く評価されるべきではないか》と書いた。この作品に関して立花が高評価で、関川夏央、猪瀬直樹といった、まさに“プロのノンフィクションの書き手”が評価しない理由はなんとなく察することができる。立花は、最先端の技術や研究に興味をもって、それをテーマにしたノンフィクションを書いてきた。方向的に平松と近いのだ。建築が自分の関心領域ではなかったので《読みだして半分くらいまでは、つまらん本だと思っていた》が、読み進めて《どうもちがうと思い直した》のは、立花にしてみれば、今までのノンフィクションが読者の感情と結託しようとして、正確さにおいて専門家の吟味に堪えない作品が多いと感じており、そうした主流と一味ちがう突然変異種の登場を喜んだのだろう。それは戸坂が指摘していた科学的なアカデミズムのアプローチを採用しつつ、その成果を常識的な公衆の理解可能な範囲で表現するジャーナリズムの作品となっている。こうして生み出された《ぜんぜんちがうタイプのノンフィクション》(立花)を、ジャーナリズムとアカデミズムを架橋するという意味で、たとえばアカデミック・ジャーナリズムの実践の例と考えることができるのではないか。

■平松剛『磯崎新の「都庁」』

平松剛『磯崎新の「都庁」――戦後日本最大のコンペ』(文藝春秋、2008年) 新宿・新都庁舎コンペに挑み、丹下健三に敗れた磯崎新とスタッフたちの姿を描く。第30回サントリー学芸賞(社会・風俗部門、2008年)受賞作。

 平松は同じ作風を次作『磯崎新の「都庁」』でも採用する。今度は作品の構造が複雑となった。主人公はタイトルにあるように建築家の磯崎新。磯崎が師である丹下健三と新宿新都庁舎のコンペで争い、敗れるドラマだ。だが丹下に割かれた紙幅も多いし、日本の建築史も戦前から説き起こして丁寧に描かれている。

 サントリー学芸賞の選評を袴田茂樹が書いている。

《平松氏はノンフィクション作家であり、ジャンルとしてはこの作品もノンフィクションと言えるが、内容的に今日の社会、文化の問題に深く切り込んでおり、単なるノンフィクションの範囲を超えるものとして、この部門の受賞作に選ばれた。》

 大宅賞を受賞している経歴から、袴田は平松をノンフィクション作家と認めた。その上で、単なるノンフィクションを超える側面をこの作品が備えているとみる。それは、ここでも建築を巡る専門的な知識の厚さである。袴田は《大型建築の設計コンペを内側から綿密に描いた》内容には《この分野の素人には立ち入り難かったと思われる興味深い事柄》が多く含まれており、それは著者が《かつて建築を専門にし》ていたたまものであり、主人公の磯崎新を描くにあたっても、日本の建築学の歴史から日本や世界の建築文化論、都市文化論にまで及ぶ著者の知識がバックグラウンドとして生きていることが授賞に値すると書く。

 こうして建築専門家の知見を踏まえて書かれた内容が、一般の読書に耐えるかたちで示されているのであり(版元は大宅賞受賞作家という縁もあったのだろうが、建築専門の出版社でも学術出版社でもない文藝春秋である)、『磯崎新の「都庁」』もアカデミック・ジャーナリズムの試みと呼べるだろう。

 ただ平松の二作を比較すると多少の違いもある。安藤や無名の職人たちの魅力をあますところなく伝えた『光の教会 安藤忠雄の現場』のほうがどちらかといえば“人間寄り”であり、従来の価値観でのノンフィクションに近い。『磯崎新の「都庁」』のほうは磯崎や丹下の人間くさい部分もよく書き込まれているが、建築論の色彩が強く、建築史、建築文化論を視野に入れた評論的な作品となっている。その意味でノンフィクションを対象とする大宅賞が“ジャーナリズム>アカデミズム”の前者に与えられ、研究、評論を対象とするサントリー学芸賞が“アカデミズム>ジャーナリズム”の後者に与えられたのもなんとなく合点がゆくところだ。(以下次回、「渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』」)

武田徹(たけだ・とおる)

1958年東京都生まれ。ジャーナリスト、評論家、専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。国際基督教大学大学院比較文化専攻博士課程修了。80年代半ばからジャーナリストとして活動。専門は社会学、メディア論。著書に『流行人類学クロニクル』(日経BP社、サントリー学芸賞)、『原発報道とメディア』(講談社現代新書)、『暴力的風景論』(新潮選書)、『日本ノンフィクション史』(中公新書)など。