四神の旗第十回


 だれもかれもが麻呂の顔を見るたびに「このたびはおめでとうございます」と声をかけてくる。
 初めのうちは照れくさかったが、次第に腹立たしさを覚えるようになってきた。
 いつものように酒を飲んでいる最中、葛城王が「祥瑞(しょうずい)が現れたと言って、白鼠(しろねずみ)でも献上してはどうか」と言ったのだ。
 麻呂の酔った頭はそれを面白いと受け止めた。
 それで、部下に命じて白鼠を探させ、年が明けると、天皇の徳が至る所に及んでいる証左だと献上したのだ。
 天皇がこれを喜べば、麻呂殿も叙位されるのではないかと葛城王は笑いながら言ったが、それが現実になった。
 麻呂の白鼠だけではなく、大倭(やまと)の国守も白亀を献じたのだ。
 祥瑞がふたつも現れたと天皇は大いに喜んだらしい。
 麻呂は従四位下であったのが正四位上(しょうしいのじょう)を叙位された。
 喜ばしいことではあったが、麻呂に言葉をかけてくる者たちの顔に、少なからず侮蔑の色が混じっていることにすぐに気づかされた。
 叙位のためならなりふりかまわぬ者と思われているのだ。
「ふざけるな」
 麻呂は独りごち、近づいてこようとする者たちを無視して足早に歩いた。一刻も早く朝堂から立ち去りたかった。
「麻呂」
 しかし、背中に浴びせられた声が麻呂の足を止めた。武智麻呂の呼びかけを無視するわけにはいかない。
「これは兄上」
 麻呂は無理矢理笑顔を浮かべ、振り返った。武智麻呂は憮然とした顔で立っている。
 他の者と同じだ。叙位のために白鼠を献じたと思っている。
「話がある。共に歩こう」
 嫌だと言いたかったが、口から出たのは別の言葉だった。
「兄上と共に歩くなど、いつ以来のことでしょうか」
「思い出せないな」
 武智麻呂は麻呂と肩を並べると、口を結んで歩き出した。
 朱雀門(すざくもん)を抜け、朱雀大路に出ると、武智麻呂が口を開いた。
「恥ずかしくてたまらん」
「白鼠の件ですか。あれは、叙位のためにやったのではありません。首様に喜んでもらいたかった。ただそれだけです」
「しかし、朝堂の者はそうは思っていない。我ら兄たちに比べ、出世の遅いそなたが無い知恵を絞ったのだと噂している」
「言いたい者には言わせておけばいいのです。位が上がったところで、わたしはただの左右京大夫。これまでとなにも変わりません」
 武智麻呂が首を振った。
「なぜわたしたちになんの相談もせずにあんなことをしたのだ」
「酒の席の冗談だったのです」
「酒だと」
「はい」麻呂はうなずいた。「葛城王と酒を酌み交わしておりまして、その折に、白鼠でも献じてはどうかと。酔っていましたゆえ、面白そうに思えたのです」
 武智麻呂が足を止めた。
「葛城王とは、三千代殿の息子の葛城王のことか」
「そうです。最近は、長屋王の佐保宅に足を向けると兄上が嫌な顔をなさるので、葛城王と酒を飲むことがよくあります」
「いつからだ」
「一年にはなりましょうか」
 武智麻呂は腕を組んでまた歩き出した。麻呂は慌ててついていく。
「葛城王とはどんな話をするのだ」
「わたしがだれと酒を飲み、どんな話をしようが、兄上には関係のないことだと思いますが」
「愚か者め。どんなことでも関係してくるのだ。わたしたちは藤原の兄弟だぞ」
 麻呂は唇を舐めた。
「葛城王は尊い血を引いている上に、三千代殿の息子だ。その胸の奥では野心が渦巻いているだろう。そういう者がおまえに近づいてきた。警戒してしかるべきだ」
「葛城王はそのような人ではありません」
 武智麻呂が舌を鳴らした。苛立っているときに出る癖だ。
「いつになれば大人になるのだ、麻呂」
「兄上――」
「この都で善良と呼べるのは民草だけだ。朝堂に上がる者はみな、邪(よこしま)な心を持っていると思うがいい。葛城王もしかり、長屋王もしかり、このわたしもしかり。政というのはそういうものだ」
「そのような目で世を見て、辛くはありませんか」
 麻呂は思わず訊いた。武智麻呂が苦笑した。
「おまえよりもう少し若いぐらいの頃は、辛いと思ったこともある。だが、父上が亡くなった今は、そんなことも言ってはおられん。目の前に延びる道を歩くだけだ。おまえや宇合にもその道をついてきて欲しいと願ってはいるがな」
 麻呂は武智麻呂の顔を盗み見た。武智麻呂は房前の名を出さなかったことを意に介していないようだった。
「近づいてくる者はだれであれ警戒しろ。それが嫌なら、都を出よ。おまえがどう思おうと、藤原の末子であるという事実は変えられん。そして、藤原の血を引く以上、政と無縁でもいられないのだ」
「肝に銘じます」
 麻呂は答えた。早く武智麻呂と別れたかった。
「白鼠だが、首様はたいそう喜んでおられたそうだ」
 麻呂は武智麻呂の言葉に驚いた。
「さようですか」
「首様が玉座に就かれてから、災厄が度重なっているからな。左大臣も、政を担う我々に徳がないからだと言ったが、あれは暗に首様を非難しているのだ」
 武智麻呂はまた舌を鳴らした。
「そんなときに、首様の治世は安泰であるとおまえが白鼠を献じたのだ。首様も心より嬉しかったことだろう。これは、間違いなくおまえの手柄だ」
「酒の席の冗談だったのです」
 麻呂は俯いた。武智麻呂はときおり、昔の優しかった兄に戻ることがある。だが、突然すぎてどう応じればいいのかわからなかった。
「首様がお喜びになられたというのは事実だ。理由などどうでもいい。それが政だ、麻呂よ」
「はい」
「今のわたしには、左大臣を越える力がない。それゆえ、おまえには左右京大夫という職に甘んじてもらっている。だが、いつの日か――」
 武智麻呂は唇を噛み、空を見上げた。分厚い雲が広がっている。夜になれば雨が降り出しそうだった。
「おまえにも政を担ってもらう日が来る。それまで、耐えてくれ」
「兄上の気持ちはよくわかっております。わたしはただ――」
「箏をつま弾くのもよい、詩を吟じるのもよい。だが、酒は控えよ。酔いは頭の働きを鈍くする。必ず、そこにつけ込もうとする輩(やから)が現れる」
「承知しました」
「それでは、ここで別れよう」
 朱雀大路と三条大路が交わる辻で武智麻呂が片手を上げた。
「失礼いたします」
 麻呂は頭を下げ、邸に向かっていく武智麻呂の背中を見送った。
「これは飲まずにはいられないな」
 武智麻呂の背中が遠のくと、そう呟いて喉を鳴らした。

        * * *

「冬に播磨(はりま)に行幸(ぎょうこう)する」
 天皇の言葉に、房前は小さくうなずいた。
「播磨からの帰りには難波(なにわ)にお寄りなさいますか」
 天皇は皇太子だったころから何度も難波を訪れている。
「そうしよう。みなにその旨伝えて、抜かりなく準備を整えよ」
「かしこまりました」
「それから、行幸には左右京大夫を連れていこうと思うのだが」
「麻呂をですか」
「そろそろ、あの者も政を担うべき頃合いだろう。行幸に参加させれば、他の者たちに余の意を伝えることにもなる」
「麻呂も喜びますでしょう」
「余のために白鼠を見つけてくるとは、可愛い男ではないか」
 天皇が歯を見せて笑った。正月に麻呂が献じた白鼠がたいそう気に入っていたのだ。
「ご用はそれだけでございましょうか」
「安宿媛のことだが......」
 天皇は咳払いをしてから口を開いた。
「このところ、元気がないように思えるのだ。なにか、心当たりはないか」
「それでしたら、懐妊の兆しがないのが心に重くのしかかっているようでございます」
 房前は答えた。
「懐妊か。確かに、余も早く子を産んでくれと何度も言うた。そなたたち兄弟も、安宿媛が皇子を産むことを強く願っているのだろう。安宿媛にはそれが重荷か」
「申し訳ございません」
 房前は頭を下げた。
「そなたが謝ることはない。祖父殿の悲願を果たすためには、安宿媛が皇子を産むことが必定。余の最初の皇子を産んでこそ、立后への道が開けるのだからな」
「はい」
 天皇はなにかに苛立ったかのように頬を指先で掻いた。
「最近、氷高(ひだか)様がうるさいのだ。相応しい娘を娶(めと)って皇后にせよと。皇后のいない天皇など前代未聞だと言ってな。氷高様や阿閇様こそ前代未聞の天皇だったものを」
 房前は口を挟まず、天皇の次の言葉を待った。
「だが、余は安宿媛以外の娘を皇后にするつもりはない」
「ありがたきお言葉」
「あれといると、心が安らぐのだ。そのような女人はこの世に安宿媛ただひとり。幼き頃より長くそばにいたせいであろうか。それにな、内臣」
「なんでございましょう」
「母上もそれを望んでいるように思えてならんのだ」
「宮子(みやこ)様がですか」
 天皇がうなずいた。
「母上は皇族の血を引かぬゆえ、皇后になれず、余を産んですぐに病を得た。皇后になっておれば、そのようなことはなかったはずだ。安宿媛を自らはかなわなかった皇后の座につけたい。そう願っておられるのではないか」
「わたしにはお答えいたしかねます」
「ここには余とそなたしかおらぬのだぞ。相変わらず、融通の利かぬ男だ」
「申し訳ございません」
「いずれにせよ、余は安宿媛を皇后にする」
「はい」
「そのためには、やはり、左大臣は邪魔か」
天皇の顔から表情が消えた。数年前、武智麻呂が天皇の心に植え付けた不信という名の種は芽を吹き、少しずつ、だが、確実に育っている。
「しかし、左大臣に邪な心はございません」
 房前は言った。天皇の顔つきは変わらなかった。
「あのお方は己の信じる理想の政を実現しようとなさっているだけ」
「そのためには、余の意さえも気にかけぬ」
「首様......」
「あれはいつのことだったか。災厄が続くのは、余に徳がないからだと言いおった」
「そうではございません。首様ではなく、我々、政を担う臣下に徳がないからと申されたのです」
「臣下に徳がないのは、主である余に徳がないからであろう。左大臣はそう言いたかったのだ。なぜ、あの者をそなたが庇うのだ」
「庇っているわけではありません」
「まあよい。確かに、あの者に邪な心はなかろう。下がってよいぞ、内臣。安宿媛のこと、今まで以上に気にかけてやってくれ」
「かしこまりました」
 房前は一礼し、部屋を出た。廊下を進むと、前方から長屋王がやってくるのが見えた。
「首様をお訪ねか」
 房前より先に長屋王が口を開いた。
「はい。冬に播磨へ行幸されるとの命を受けました」
「また行幸ですか」
 長屋王の涼しげな瞳に苛立ちの影が降りた。
 天皇が行幸すれば、多くの臣下がそれに付き従うことになり、政が滞る。長屋王はそれを嫌っていた。
「止めるおつもりですか」
 房前の問いかけに、長屋王は首を振った。
「わたしが止めれば、首様は不快な思いをされるでしょう。それでは」
 長屋王が房前の傍らを通り過ぎた。
 邪な心はない。だが、不遜ではあるかもしれない――長屋王の背中を見つめながら、房前は瞬きを繰り返した。

        * * *

 播磨への行幸から都へ戻る途中、天皇は難波宮に立ち寄られた。
 麻呂は旅装を解きながら、溜息を何度も漏らした。
 早く都へ戻りたい。
 行幸では、宿泊先で酒を飲むことはできるが、飲みすぎることは躊躇(ためら)われる。そしてなにより、箏をつま弾くことができないのが苦痛だった。麻呂と共に行幸に付き従う臣下たちは退屈な者ばかりで、長屋王の佐保の邸や葛城王と酌み交わす酒が恋しくてたまらなかった。
「京大夫様、首様がお呼びでございます」
 部屋の外から女官の柔らかい声が響いた。
「首様がわたしに」
 部屋を出て問いただすと、女官がうなずいた。
「なにごとだ」
「わたしにはわかりかねます。ただ、京大夫様をお連れしろと言いつかっただけですので」
 この行幸の間、天皇と言葉を交わすことはなかった。突然呼び出された理由がわからず、麻呂は首をひねりながら天皇の居室に向かった。
「左右京大夫、藤原麻呂にございます」
「入れ」
 天皇の声が響くと、女官が戸を開けた。酒膳がふたりぶん、用意されている。天皇はすでに盃を傾けていた。
「よく参った、京大夫。さあ、座るがよい」
「ありがたきお招きにございます」
 麻呂は深々と頭を下げ、天皇の向かいに用意された酒膳の前に腰を下ろした。
「どのようなご用でしょうか」
「そうかしこまるな。まずは飲め」
 天皇に促され、麻呂はまず天皇の盃に、ついで自分の盃に酒を注いだ。
「いただきます」
 両手で盃を持ち、中の酒を一息に飲み干した。
「京大夫はいい飲みっぷりだと耳にしていたが、そのとおりだな」
「恐れ入ります」
「遠慮せずに好きなだけ飲むがよい。初めての行幸はいかがであった」
「至らぬことばかりで、周りの人間に迷惑をかけ通しにございました」
「細かいしきたりが多いからな。初めての者はたいてい戸惑うものだ。いずれ、慣れる」
 天皇の盃が空になった。麻呂は酒を注いだ。
「白鼠を献じてくれたこと、嬉しかったぞ」
 なんと応じてよいのかわからず、麻呂は酒を飲んだ。
「朝堂の者たちは政にかまけて、余の心に思いを馳せてはくれぬのだ」
「わたしはただ、首様の治世が末永く続くことを祈っているだけにございます」
「その気持ちが嬉しいのだ。京大夫は藤原の者。言ってみれば、我が一族も同じではないか。その一族の者が余を案じてくれている。そう思うだけで胸の奥が温まる」
「ありがたきお言葉にございます」
「そなたの思いに応えたくて、こうして酒膳を用意させたのだ。旅先は都のようにうまい酒はあるまい。舌の肥えたそなたのことだ、困っていたのではないか」
「そのようなことはございません」
「今宵は遠慮なく飲み、食べるがよい」
「ありがとうございます」
 麻呂は天皇に一礼した。
「この難波宮をどう思う」 
「初めて訪れましたし、先ほど到着したばかりですので、まだしかとは見ていないのです」
「余はここが好きなのだ。ここを都にしたいと思っている」
「遷都なさるおつもりなのですか」
 麻呂は声を高ぶらせた。
「そうしたい。だが、長屋王が反対するであろうな。中納言もだ」
「そうでしょうね」
 麻呂は盃を置いた。酒を飲む気分ではなかった。
「玉座には就いたものの、なにひとつ思うようにはいかぬ。あれをしたい、これをしたいと思っても、議政官たちが異を唱えるのだ」
 天皇が盃を突き出してきた。麻呂は酒を注いだ。
「それがあやつらの仕事だということはわかっている。わかってはいるが、腹立たしいものよ」
 天皇は酒を一息で飲み干した。その間も、麻呂から視線を外さない。
「それで余も頭を働かせてみた。いきなり遷都では、議政官たちも声高に反対するだろう。だが、陪都ならどうだ」
「陪都でございますか」
 麻呂は天皇の盃に酒を注ぎながら言った。
「さよう。遷都ではなく、もうひとつの都をここ、難波に造るのだ。議政官たちも異を唱える名分が見つからなくて言葉も出まい。どう思う、京大夫」
「さすが首様。名案にございます。副都ですか。わたしには思いもつかぬことです」
「難波宮の造営は式部卿に任せようかと思うている」
「宇合にですか」
「あれは、唐の文物に詳しいであろう。新しい都の造営をま任せるには相応しいと思うのだ」
「宇合ならば、しっかりと責務を果たすでしょう。しかしながら、首様......」
 麻呂は言葉を濁した。
「なんだ。言いたいことがあるならはっきりと申してみよ」
「なぜそのような話をわたしになさるのですか」
「そなたや宇合を信頼しているからではないか」
 天皇は平然と言い放ち、酒を呷った。麻呂は天皇と自分の盃に酒を注いだ。
 飲みたい気分ではないが、飲まずにはいられない雰囲気になってきている。
「武智麻呂や房前がおります。わたしも宇合も太政官に席を持っておりません。首様のお力になりたくてもなれないのです」
「中納言が第一に考えるのは余のことではなく、藤原だ」
 天皇は盃を口へ運んだ。舐めるように酒を飲む。
「房前はなにかと左大臣に与したがる。ふたりとも、よく働いてはくれるが、余の心を預けることのできる臣下ではない。だが、そなたと式部卿なら、なによりもまず、余のことを思ってくれるのではないか。また、それがかなう立場にある」
 麻呂は深く頭を垂れた。
「もったいなきお言葉に、我が心が震えております」
「余を思って動けば、中納言や内臣とぶつかることもあるだろう。それでも、余はそなたらに期待しているのだ」
「かつて、不比等が安宿媛と戯れる首様を見つめながら、わたしに申しました」
「不比等が」
 天皇は酒を飲む手を止めた。
「我々兄弟は、首様と安宿媛を守り支える四神なのだ、と。その言葉を忘れたことは一日たりともありません」
「四神か......さすがは不比等殿。面白いことを口にしたものよ。今は武智麻呂と房前がいるゆえ、そなたと宇合に太政官の座を与えることはかなわぬ。しかし、いずれはそなたたちが我が治世の鼎(かなえ)となる日が来る。それまで待つのだ、麻呂」
「は――」
 麻呂は両手をつき、床に額を押しつけるように頭を下げた。
 それほど飲んだわけではないのに心が高ぶっている。血潮が熱を帯びてうねっている。
 なんとしてでも天皇の信頼に応えねば――唇を噛んで己に誓った。口の中に血の味が広がった。

        * * *

「安宿媛が懐妊したというのは誠か」
 荒々しい足音を立てながら武智麻呂が部屋に入ってきた。
 房前は兄の耳聡さに舌を巻いた。つい先ほど知らされ、これから報告に行こうと思っていた矢先だったのだ。
「まだ確実ではありません。しかし、安宿媛の女官によれば、おそらくは懐妊であろうとのことです」
「そうか。安宿媛がとうとう首様の御子を......」
 武智麻呂の声が震えていた。それほどまでに待ち望んでいた懐妊なのだ。
「しかし、まだ皇子なのか、皇女なのかもわかりません」
「皇子に決まっている。安宿媛は藤原の娘だぞ」
 房前はうなずいた。不比等と三千代の娘なら、間違いなく皇子を産むだろう。理由もなくそんな考えが頭に浮かぶ。
「首様に会いに行くぞ、房前。懐妊が広く知れ渡れば、臣下たちがこぞって首様にお目通りを願うだろう。そうなる前に、我々が真っ先にお会いするのだ」
「もちろん、そのつもりです」房前は腰を上げた。「首様はすでに、安宿媛の元へ向かっているそうです」
「ならば、東宮へ向かおう」
 武智麻呂の言葉に房前はうなずいた。
 この都が築かれたとき、東宮の主は軽皇子(かるのみこ)だった。東宮の塀を隔てた隣が不比等の邸だ。皇子といつでも会えるよう、不比等が塀に戸を設けたのだ。
 その戸は今でも、天皇が安宿媛に会いに行く際に使っている。
「長かった......」
 東宮に向かって足を進めながら、武智麻呂が呟いた。
「確かに、長かったですね」
「皇子がお生まれになったら、いよいよ左大臣を追い詰める。やっと藤原の世が戻ってくるのだ」
「しかし兄上、それは――」
「めでたい日なのだ。おまえと議論を交わすつもりはない」
 武智麻呂が房前の言葉を遮った。房前は口を閉じた。 
 確かに今日はめでたい日だ。今後どうしていくかは、日を改めて話し合えばいい。
 天皇が玉座に就いていらい、主のいなくなった東宮の庭を横切り、塀にこしらえられた戸をくぐり抜けた。
 安宿媛が主となった不比等の邸では、家人たちが笑顔を浮かべて働いている。安宿媛の懐妊を、みなが心から喜んでいるのだ。
「首様がいらしているそうだな」
 武智麻呂が年配の家人を呼び止めた。
「これは武智麻呂様、お久しゅうございます。房前様も。こちらへどうぞ。首様は安宿媛様の居室におられます」
 家人が先頭に立ち、房前たちを安宿媛の居室まで案内した。居室の戸の前に、女官や舎人たちが並んでいた。
「中納言と内臣が参ったと伝えよ」
 武智麻呂が言うと、女官のひとりが部屋の中に声をかけた。
「入れ」
 天皇の声が響いた。いつにもまして、その声には張りがある。
「失礼したします」
 武智麻呂と房前は一礼して部屋に入った。天皇が安宿媛の腹に手を当てていた。
「よく参った、中納言、内臣」
「このたびは、安宿媛様ご懐妊の報せを受け、飛んで参りました」
「余も報せを聞いて慌てて来たのだ。慌てすぎて、沓(くつ)を履き忘れた」
 天皇が屈託なく笑った。
「さあ、そなたたちも、安宿媛をねぎらってやってくれ。だれにもできぬ大事を成したのだ」
「おめでとうございます、安宿媛様」
 武智麻呂が床に両手をついて頭を垂れた。房前もそれに倣った。
「安宿媛様、ご懐妊、心よりお喜び申し上げます」
「やめてください、ふたりとも。まだ本当に懐妊だと決まったわけではないのですよ」
「懐妊です。懐妊したに決まっています」
 顔を上げた武智麻呂が熱のこもった声で言った。安宿媛が照れたように微笑んだ。
「ぜひ、立派な皇子をお産みくださいませ」
「娘かもしれませんよ」
「いいえ。皇子に決まっております。なぜなら、安宿媛様は藤原不比等と橘三千代の娘」
「それでは理屈が通りません」
 安宿媛がまた笑った。ここ最近、様子が優れないようだったのが嘘のように明るい笑顔だった。
「中納言の申すとおりだ。不比等と三千代の娘が、皇子を産まずにどうする」
 天皇が言った。
「首様まで......」
 安宿媛の頬が赤らむ。天皇と安宿媛は心から慕いあっていることがうかがえた。
「房前、酒の支度をさせよ。めでたき日だ。今日は首様ととことんまで飲もうではないか。いかがでございましょう、首様。我々の盃を是非とも受けてくださいませ」
「飲もう。今日は大いに飲み明かそう」
 天皇が歌うように言った。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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