四神の旗最終回

        * * *

 武智麻呂は橘三千代(たちばなのみちよ)の亡骸(なきがら)を前に瞑目(めいもく)した。宮中で絶大な力を誇り、不比等と共に古いしきたりを打ち破ってきた女傑も、ついに天に召されたのだ。
 三千代の邸を訪れる人間は引きも切らなかった。それだけの力を、三千代は掌中に収めていたのだ。
「これは大納言様、よくいらしてくださいました」
 葛城王が姿を現した。臣籍に下り、宇合たちと同じ時期に参議に任じられている。
 長屋王を打ち倒したあの時、太上天皇の動きを封じるという役目を三千代が担ってくれた。葛城王を参議に引き上げたのは、その折に三千代と取り交わした約束に従ったからだ。
「こちらへどうぞ」
 葛城王に促され、武智麻呂は部屋を移った。「葛城王様、さぞ心痛のことでしょう。皇后様も泣き続けているそうです」
「覚悟はできておりました。もう、七十に近い年でしたから。よくぞこれまで生きてくれたとさえ思っています」
「たいした女性でしたからね」
 武智麻呂は目を閉じた。不比等が没して十数年、今、三千代も天に還(かえ)った。ひとつの時代が間違いなく終わりを迎えたのだ。
「わたしが参議になれたのも、母上あってこそだと思っています」
 葛城王がしんみりとした口調で言った。
「大納言様と違い、わたしの父は皇族とは名ばかりで、なんの力もありません。母上だけが頼みの綱だったのです」
「三千代殿には本当に世話になりました」
 不比等が亡くなった後、途方に暮れる武智麻呂と房前を力強く導いてくれたのは三千代だった。
 安宿媛を皇后にする。
 その一点で、不比等亡き後も、武智麻呂と三千代は強く結ばれていた。
「近いうちに、皇后様にお目にかかろうと思っています」
 葛城王が言った。
「それは、皇后様もお喜びになられるでしょう」
「尊き方ですが、大納言様と同じで、わたしにとっても可愛い妹です」
 武智麻呂は葛城王を見据えた。母を失い、心を痛めている男の顔がそこにある。だが、武智麻呂は葛城王の言葉の裏にある響きを聞き逃さなかった。
 これまでは三千代が頼みの綱だったが、今後は安宿媛が頼みの綱になる。
 武智麻呂の耳にはそう聞こえたのだ。
「葛城王様はなにをお望みですか」
 武智麻呂は訊いた。
「太政官に席を得たのです。これ以上、なにを望みましょう」
「三千代殿の恩義に報いるため、あなたを参議に引き上げたのです。それ以上を望むようならば、わたしも考えをあらためなければなりません」
「これ以上は望みませんよ、大納言様」
 葛城王は武智麻呂の無遠慮な視線を受け止めた。武智麻呂はその目の奥で揺らめく炎をはっきりと認めた。
 若き日の自分の目の奥でも同じ炎が揺らめいていたに違いない。
 野心だ。
 武智麻呂は葛城王を敵として認識した。

        * * *

 房前は床の中で悪寒(おかん)に震えた。
 一度は熱も下がったのだが、今朝になってまた悪寒がぶり返したのだ。
 二年ほど前から、大宰府(だざいふ)周辺の諸国で発生した疫病(えきびょう)が京にも入ってきたらしいという報告を受けたのは年の初めだった。
 まさか、自分がその疫病に冒されるとは考えてもいなかった。
 熱が活力を奪い、体中にできた発疹(ほっしん)がちくちくと痛む。寝返りを打つのも億劫で仕方がない。
「旦那様、白湯をお持ちしました」
 家人がやって来た。口と鼻を布で覆っている。妻や息子たちには決して近づくなと命じてあった。
「そこに置いていけ」
 房前は言った。声が震える。自分ひとりで白湯を飲むのは不可能に思えたが、家人に疫病を移すのも躊躇(ためら)われる。
「それでは。用があるときはお呼びください」
 家人は逃げるように部屋を出ていった。
 京のあちこちで同じようなことが起こっている。病に倒れた者のそばに寄ることをだれもが恐れている。
 武智麻呂たちにも房前が疫病に冒されたという報せは届いているはずだ。だが、薬草が送られてきただけで、だれひとり見舞いに来ようとはしない。
 病を得る前から、みなわたしのもとから去っていたのだ。
 房前は自嘲した。
 体の震えが止まらない。凍えてしまいそうだ。
 目を閉じれば、不比等の顔が浮かぶ。不比等は笑っている。慈愛の笑みか、嘲笑(ちょうしょう)かはわからない。ただ、笑っているのだ。
「父上――わたしはわたしが正しいと信じる道を歩んできました。そのせいで、他の兄弟たちと袂を分かつことになってしまいましたが、悔いはありません」
 不比等の笑みが大きくなった。
「ただ、最期に、兄弟みなで、酒を酌み交わしたかった......」
 房前は目を開けた。不比等の顔が消えた。再び目を閉じても、不比等の顔が現れることはなかった。

        * * *

 麻呂は歯を鳴らしながら経を唱えた。
 頭が割れそうに痛み、悪寒が絶え間なく襲ってくる。
「ゆるしてくれ、長屋王――」
 読経の合間に、長屋王に許しを乞うた。
 四月に房前が裳瘡(もかさ、天然痘)で死んだと思ったら、六月に入って武智麻呂、宇合、そして麻呂の三人も病に倒れた。
 最初に発症したのは麻呂で、武智麻呂と宇合が見舞いに来てくれたのだが、そのときに病が移ったのだ。
 武智麻呂が床に伏したという報せを受けたとき、麻呂は確信した。
 これは長屋王の祟(たた)りなのだ。
 謀で陥れ、自害させた。その恨みは強くこの世に残り、凝(しこ)って麻呂たち兄弟にその触手を伸ばしてきた。そうとしか考えられない。
「おゆるしを、おゆるしを――」
 麻呂は言葉を切り、両手で頭を押さえた。耐えがたい頭痛だ。七転八倒してもなお痛みは増すばかりだった。
 長屋王の恨みはどれほど深いというのだろう。
 麻呂は痛みにのたうち回りながら、声をはばからずに泣いた。
「旦那様、旦那様、だいじょうぶでございますか」
 部屋の外から声がする。麻呂にはそれさえ、長屋王の呪詛(じゅそ)に聞こえた。
「旦那様、皇后様が届けてくださった薬を煎じております。今しばらくお待ちください」
 皇后という言葉が耳に飛び込んできた瞬間、頭痛が嘘のように消えた。
 麻呂は口の中に溜まっていた唾を飲み込み、天井を見上げた。
 長屋王の祟りを、安宿媛が追い払ってくれたのだ。
「安宿媛様......」
 立后されたばかりの安宿媛と交わした言葉が思い出される。
 ――安宿媛様がわたしたち兄弟を支え、わたしたち兄弟は安宿媛様をお守りする。わたしたちは安宿媛様の四神にございます。
 安宿媛を守るどころか、安宿媛に守られている。
 そう思うと、悪寒に震える体の内側が、ほんのりと温まっていくのを覚えた。
「ああ、そうか――」
 麻呂は悟った。自分は安宿媛を妹としてではなく、女人として慕っていたのだ。
「そういうことか。今まで、そんなことにも気づかなかったのか」
 麻呂は笑った。自分が腹立たしく、愚かしくて笑うしかなかった。
 突然、頭痛がよみがえった。
 麻呂は頭を押さえ、悲鳴を上げた。
 経を唱え、その合間に長屋王に許しを乞うた。
 安宿媛のことは、頭から綺麗さっぱり消えていた。

        * * *

 仲麻呂(なかまろ)は庭から父の寝ている部屋を凝視した。部屋に立ち入ることは長兄の豊成(とよなり)から厳しく禁じられていた。
「まさか、本当にこのまま逝ってしまわれるおつもりですか、父上」
 父である武智麻呂は長年の宿敵だった長屋王を斃(たお)し、皇族たちの力を削り取ってきた。右大臣として朝堂に君臨し、これから、本当の意味での藤原武智麻呂の世を謳歌しようというときに疫病に冒されてしまったのだ。
「冗談ではありませんぞ」
 藤原房前と麻呂はすでにこの世になく、宇合も病に倒れた。このままでは、これまでの苦労がすべて水の泡だ。
 太政官を主導するのがだれになるにせよ、それは決して藤原の者ではない。いや、それどころか、新しい主導者は藤原の者たちが再び力を持つのを恐れ、牽制するだろう。
 兄の豊成は正五位上(しょうごいのじょう)、仲麻呂自身は従五位下(じゅうごいのげ)に過ぎない。武智麻呂の庇護があれば、階位は順調に上がっていくだろうが、武智麻呂不在では、自分たちの力だけで階段をひとつずつのぼっていかねばならないのだ。
 香の匂いが漂ってきた。長屋王の怒りを鎮めるのだといって、母が僧侶たちを招いたのだ。その僧侶たちが庭の一角で香を焚き、経を唱えている。
「馬鹿馬鹿しい」
 仲麻呂は唇を歪めた。
 巷(ちまた)でも、この疫病は長屋王の祟りがもたらしたものだとのもっぱらの噂だった。
 その証拠に、藤原四兄弟すべてが病に倒れたではないか。
 人々は口々にそう言っていた。
 これが本当に長屋王の祟りなら、真っ先に房前が死ぬはずがない。四兄弟の中で、房前だけが、長屋王の命を救おうと奔走したのだ。長屋王の祟りで死ぬべきは、武智麻呂であり宇合であり麻呂である。
 兄弟の三人が死んで、房前が我が世の春を謳歌する。そうでなければならない。
 これはただの疫病だ。唐に行っただれかが大宰府に病を持ち込んだ。その病が、二年の歳月を経て京に運ばれてきたのだ。
 僧侶たちの読経の合間に、母の泣き声が聞こえる。豊成の姿はない。武智麻呂亡き後のことを考えて、朝堂にでも足を運んでいるのだろう。
 自分の行くべき場所はどこだ。
 仲麻呂はしばし考え、答えを得た。
 皇后である安宿媛だ。自分の未来を託すべき人間はあのお方ひとりしかいない。
 仲麻呂は足を踏み出した。武智麻呂の死をここで漫然と待っているぐらいなら、皇后と共にいた方がいい。
 武智麻呂が自分なら、そして、祖父である不比等が自分なら、間違いなくそうするだろう。

        * * *

 不思議と心が落ち着いてた。
 麻呂が死に、武智麻呂も死んだ。次は自分の番なのだと思うと、死への恐怖が消えた。
 成し遂げられなかったことに悔いは残る。だが、不比等の息子として生まれてからの四十数年、自分は思う存分生きてきたではないか。
 遣唐使として唐に渡り、式部卿(しきぶきょう)として政に関わってきた。長屋王を打ち倒すために武智麻呂たちと策を練り、兵を率いて長屋王の邸を取り囲んだ。
 宇合がいなければ、武智麻呂は長屋王との戦いに勝つことができなかったはずだ。宇合がいてこそ、今がある。
 自分が死ねば、息子たちの前途には影がさすことになるだろう。だが、不比等はなにもないところから歩みはじめたのだ。自分たち兄弟も、不比等の庇護を失ったところから歩まなければならなかった。
 自分がいなくてもなんとかなるはずだ。みな、不比等の血を引いているのだから。
 それにしても――宇合は思う。
 なぜ、わたしが最後なのですか、長屋王様。
 脳裏に浮かんだ長屋王の顔に問いかける。
 長屋王様がだれよりも恨んでいるのは、武智麻呂ではなく、このわたしですか。だから、一番最後に息の根を止めようというのですか。
 よろしい、いつでも好きなときにそちらに連れていけばいい。
 同じ鬼籍に入ったならば、また書物について論じましょう。佐保(さほ)の邸であなたと語らっているときがなにより愉しかった。嘘偽りではありません。
 わたしはあなたが好きだったのです。しかし、わたしの体に流れる血があなたと共に生きることをゆるしてはくれなかったのです。
 宇合は笑みを浮かべながら息を引き取った。

        * * *

 宇合の訃報(ふほう)が届き、安宿媛は写経の手を止めた。せめて宇合だけでも救って欲しいとはじめた写経だったが、もう続ける意味はない。
「こんなことがありますか、父上、母上」
 安宿媛は宙を見据えた。
「苦労の末に、やっと父上と母上が夢見た世を作る手がかりを得たのです。それなのに、兄上たちはみな、逝ってしまわれた。わたしが就いてはならぬ座に就いた罰ですか」
 安宿媛は溜息を漏らした。
「わたしが皇后になることは父上と母上の望みでしたが、わたし自身の望みでもあったのです。それが罪だというのなら、わたしは抗ってみせましょう。皇后という立場を思う存分利用して、わたしを罰しようとする運命に戦いを挑みます」
 安宿媛は経を書き写していた紙を破り捨てた。
「この数日、甥(おい)たちと話をしてきました。だれよりも父上の血を濃く引いているのは、仲麻呂だと思います」
 武智麻呂の次男、仲麻呂の顔が思い出される。英明でいて我の強そうな目をしていた。
「仲麻呂と共に、わたしは見果てぬ夢を追いましょう。兄上たちがいなくなった今、しばしの時は必要でしょうが、必ずや仲麻呂を引き立ててみせます」
 安宿媛は口を閉じた。廊下をこちらに向かってくる足音が聞こえたのだ。
 戸が開き、天皇が姿を見せた。
「宇合も逝ったと聞いた。だいじょうぶか、皇后よ」
 天皇は安宿媛の手を取った。
「とても心が痛みます、首様」
「そうであろう。短い間に母を失い、兄たちを失ったのだ。辛くて仕方ないに違いない。わたしにできることがあったらなんでも言うがいい」
「首様がそばにいてくれるだけでいいのです」
 安宿媛は天皇に体を預け、胸に顔を埋(うず)めた。天皇の手が髪の毛を優しく撫でる。
「いつでもそばにいるぞ。案ずることはない。わたしが心を寄せる女人はそなただけだ」
 天皇の言葉を聞きながら、安宿媛は微笑んだ。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー