四神の旗第二十一回

「首(おびと)様のお言葉に背くというなら、おまえも謀反人(むへんにん)ということになる」
「兄上――」
「これ以上、わたしを困らせるな。我らは忙しいので、もう行け」
 房前(ふささき)は唇を噛んだ。だが、武智麻呂(むちまろ)の前に立ちはだかったまま動こうとはしなかった。
「内臣(うちつおみ)よ」
 武智麻呂が口を開こうとしたその時、舎人親王(とねりしんのう)がふたりの間に割って入ってきた。
「首様は長屋王(ながやのおう)を謀反人と断じ、討てと命を下されたのだ。そなたがどう思おうとこれは決して動かん」
「しかし、舎人様。長屋王様が謀反などありえませぬ」
「長屋王は驕(おご)りすぎたのだ。首様あってこそのこの国という基本を忘れた政(まつりごと)を行ってきたからな」
「それは律令が――」
「律令を制定したそなたの父が、天皇をないがしろにしてもよいと申したのか。そうではあるまい」
 舎人親王は房前の肩を優しく叩いた。
「そなたの気持ちはよくわかる。しかし、もう歯車は動き出したのだ。諦めるほかあるまい」
「内臣、我らは急ぎ、首様の元へ行かねばならんのだ。失礼するぞ」
 新田部親王(にいたべしんのう)が言った。
「兄上――」
 武智麻呂はまだなにかを言いつのろうとする房前を睨んだ。
 愚か者め、こうなることはわかっていたであろう――目にありったけの思いを込め、武智麻呂は房前に背を向けた。
「兄上、兄上」
 房前の声が背中を追いかけてくる。武智麻呂は振り返らなかった。

        * * *

「式部卿(しきぶきょう)様、左大臣が話をしたいと」
 邸の中の様子をうかがっていた者が宇合(うまかい)の元へ駆けてきた。
「左大臣が直にそう申したのか」
 宇合は訊いた。
「いいえ。邸の者が――」
「わかった」
 宇合は馬から下りた。
「式部卿様、まさか、中へ入るおつもりですか」
 佐味虫麻呂(さみのむしまろ)が言った。
「左大臣もわけを知りたいだろう」
「しかし――」
「心配なら、そなたもついてくるといい」
 宇合は邸に向かって歩き出した。佐味虫麻呂が不服そうな足音を立ててついてくる。
「式部卿、藤原(ふじわらの)宇合だ。長屋王と話がしたい」
 大声で邸の中に声をかけた。家人が現れた。すっかり怯えきった表情を浮かべていたが、戦装束(いくさしょうぞく)の宇合を見てその怯えがさらに強まったようだった。
「こ、これは式部卿様。これはいったいなにごとなのですか」
「おまえが知る必要はない」
 宇合は冷たく言い放った。
「こちらへどうぞ」
 家人に案内され、一室へ通された。部屋にいるのは長屋王と吉備内親王(きびないしんのう)だった。ふたりは肩を並べ、手を取り合って座っていた。
「式部卿、これはいったいなにごとだ。なぜ、軍勢がわたしの邸を取り囲む」
「左大臣長屋王に謀反の疑いあり。ただちに軍勢を率いて邸を取り囲めと命を受けたのです」
「謀反だと」
 長屋王の顔が引きつった。
「だれがそのようなたわけたことを」
 吉備内親王の目が吊り上がっている。
「首様でございます」
 宇合は頭を下げた。
「首様が......嘘を申すな」
「嘘ではございません。首様の命がなければ、軍勢を出すことなどできませんから」
「どういうことなのか、説明していただけますか、式部卿殿」
 長屋王が吉備内親王を制し、訊ねてきた。
「わたしが聞かされているのは、長屋王様が謀反を企んでいるという告発があり、それを吟味なされた首様が、謀反の疑いありと判断されたとのことです」
「告発ですか」
 長屋王の右の眉毛が持ち上がった。
「はい」  
「その告発を受けたのはどなたですか」
「中納言(ちゅうなごん)、藤原武智麻呂だと聞いております」
 長屋王が笑った。
「そのような戯(ざ)れ言(ごと)を信じるのですか、式部卿殿」
「首様の命が下ったのは事実でございます。明日になれば、太政官(だいじょうかん)から人が来て、長屋王様を糾問(きゅうもん)するでしょう」
「武智麻呂殿が来るのでしょうな」
「わたしはなにも知りません」
「式部卿殿――」
「わたしはなにも知らないのです」
「それをわたしに信じろと言うのですか」
 宇合は微笑んだ。
「さすがに、そうは言いません」
「いつからですか」
 宇合は首を傾げた。
「いつから、わたしを陥れようと......そもそもの初めからですか」
「いいえ。初めは、長屋王様と新たな国を造ることを夢見ておりました」
「それがなぜ」
「わたしの体の中に流れる血のせいでしょうか。わたしひとりの力でなにが成せるか試してみたいと思うようになったのです」
「藤原不比等(ふひと)の血ですか。となれば、兄弟四人が力を合わせてわたしを――」
「内臣は無関係です。あれはそういう人間ではありません。長屋王様もご存じでしょう。声をかけるのならば、わたしではなく内臣になさるべきだったのです。これは長屋王様の犯した失策です」
「内臣殿は融通が利かないので使いづらいと思ったのです」
「残念でしたね」
 宇合は言った。心の底から出てきた言葉だった。
「わたしを窮状から救える者がいるとすれば、それは内臣だけということですか」
「長屋王様を救える者はおりません。立太子の折、謁見(えっけん)に参列しなかったのがすべてのはじまりです」
 長屋王は瞬きを繰り返した。
「わたしが企んだ謀反というのはどういうものですか」
「左道により皇太子様を呪殺し、国を傾けようと謀(はか)ったということです」
「左道ですか」
「皇太子様が病に冒された頃に写経をはじめましたね。そして、写経の奥書の検校(けんぎょう)を道慈(どうじ)殿に頼まれた。知らなかったと思いますが、長屋王様を嫌う者は多いのです」
 長屋王が唇を噛み、宇合を睨んだ。その目からは怒りがこぼれ落ちそうだった。
「それがわたしの罪だと言うのか」
「ええ。大きな罪だと思います。あなたは不比等から政を学んだはずですが、いつからか、不比等の道から外れてしまわれた。不比等ならば、決して検校を道慈殿に頼んだりはしないでしょう。長屋王様は自ら気づかぬうちに、不遜(ふそん)になられたのです。その罪は、政の場においてはゆるされません」
「首様と話がしたい」
「それはかないません」
「ならば、わたしが首様と会ってまいります」
 吉備内親王が眦(まなじり)を吊り上げた。宇合は静かに、しかし断固として首を振った。
「この邸の者は決して外に出してはならぬという命でございます。そして、首様がここに来ることはないのです」
「式部卿、そなたはわたしをだれだと思っているのだ」
「わたしも残念でならないのです、吉備様」
「首様がだめだというのなら、氷高(ひだか)様を連れてきてくれ。姉上がこんな無道をゆるすはずがない」
「それもかないません」
 太上天皇(たいじょうてんのう)の周りの者たちには三千代(みちよ)の息のかかった者たちが睨みを利かせている。今回のことが太上天皇の耳に入る頃にはすべてが終わっているはずだった。
「式部卿......」
 宇合は唇を噛む吉備内親王から長屋王に視線を移した。
「あなたは負けたのです。もう、諦めるしかありません」
「本当に首様が御自ら下された命なのか。武智麻呂殿がそそのかしたのではないのか」
「どちらでも違いはないではありませんか。天皇の命は天皇の命。ただ、それだけです」
 宇合は丁寧に一礼し、長屋王たちに背を向けた。
「式部卿、待て。待つのだ、式部卿」
 吉備内親王の声が背中を追いかけてくる。宇合は振り返ることなく部屋を出た。

        * * *

 三千代は読経を終えると溜息をひとつ、漏らした。
 今頃は宇合の率いる軍勢が長屋王の邸を取り囲んでいることだろう。
 武智麻呂の選んだ方法は強引だが、しかし、長屋王を斃(たお)すにはこれしかない。不比等も、いたしかたあるまいと認めるだろう。
「母上」
 葛城王(かつらぎおう)が部屋に入ってきた。
「長屋王の邸が取り囲まれたようです。これで、あの男も終わりでしょう」
 葛城王は三千代の向かいに腰を下ろした。
「長屋王は終わりだが、我らの望みも潰(つい)えた」
 三千代は嘆息するように言った。
「これからは武智麻呂が政を主導するでしょう。宇合と麻呂(まろ)がそれに続く。そなたが政の中心に座を得ることはかなわなくなってしまったのです」
 長屋王と武智麻呂の争いにつけ込むことでこそ、三千代が太上天皇を動かし、葛城王に活躍の場を与えることができると踏んでいた。だが、長屋王は失策を犯しすぎたのだ。
 権力を手中にすると、人は変わる。あれほど賢く、義に忠実だった長屋王も、不遜という罠にかかってしまった。
 かつてのように注意深く歩を進め、あらゆることに目配りしていればこのような事態は起こりえなかったのだ。
 権力の中心にいても、なにひとつ変わらなかったのは不比等だけだ。だからこそ、不比等は常人にはなしえなかった数々のことをその手で実現してきた。
 不比等が懐かしく、また、恋しかった。
 不比等が生きていてくれさえすれば――そう思って歯噛みしたことが幾度あっただろう。
「機会はいずれ訪れます」
 葛城王が言った。
「武智麻呂殿は不比等殿ではありません。いずれ、長屋王と同じ道を辿るやもしれないではないですか。あるいは、長屋王がいなくなった後、兄弟の間で権力を巡る争いが起こるやもしれません」
 三千代はうなずいた。
 武智麻呂は決して房前をゆるそうとはしないだろう。だが、宇合と麻呂は寵愛され、いずれ、太政官に座を得る。権力は近づけば近づくほど人を魅了する。宇合も麻呂も、その誘惑に負け、権力を独り占めしたくなるだろう。
「これまでも待ってきたのです。もうしばらく待ったところで、我らに損はありません」
「そなたの言うとおりだな」
 三千代はうなずき、微笑んだ。

十七

 まんじりともしないまま夜が過ぎていった。房前はいても立ってもいられず、夜明けと共に宮へ足を運んだ。
 天皇の居室は兵衛たちがものものしい雰囲気で警護していた。房前が近づこうとすると、兵衛たちは太刀の柄(つか)に手をかけ、立ち塞がった。
「内臣、藤原房前だ。どけ。首様にお話がある」
「なりません。だれも近づけるなとの命にございます」
「わたしは内臣だぞ」
「だれであろうと近づくことはまかりなりません。通してもよいのは安宿媛(あすかべひめ)様と中納言、藤原武智麻呂様だけとの仰せです」 
「首様――」
 房前は叫んだ。
「房前でございます。内臣、藤原房前です。ぜひともお話ししたきことがあり、やってまいりました」
「内臣様、お下がりください」
 兵衛が肩を押した。房前は下がらなかった。
「首様、房前です。なにとぞ、お目通りを」
 声は耳に届いているはずだ。だが、天皇の返事はなかった。
「首様――」
 兵衛のひとりが太刀を抜いた。宮で抜刀するなど、前代未聞のことだった。
「お下がりくださらぬのなら、この太刀が物を言うことになります。内臣様、なにとぞお引き取りを」
 抜刀した兵衛から殺気が漂ってくる。房前は唇を噛んだ。天皇が兵衛たちに下した命は明確なのだ。
 近づく者は殺してでも阻止せよ。
 房前の声が聞こえているにもかかわらず返事をしないのは、房前と話をする気がないという意思表示でもある。
 引き下がるしか術はなかった。
 房前は踵(きびす)を返し、太上天皇の居室に向かった。天皇で埒(らち)があかないのなら太上天皇に縋(すが)るほかはない。
 だが、太上天皇の居室へと通じる廊下も兵衛たちが固めていた。
「内臣、藤原房前だ。氷高様に用がある。通せ」
 兵衛たちが房前の前に立ちはだかった。
「だれも通してはならんとの命にございます」
「だれの命だ」
「天皇の命です」
 房前は拳を握った。すべては武智麻呂の仕業に違いない。房前に先んじて手を打っているのだ。天皇がだめなら太上天皇、太上天皇がだめなら安宿媛――。
 房前は兵衛たちを一瞥(いちべつ)し、その場を立ち去った。武智麻呂がどんな手を打とうと、安宿媛なら房前の言葉に耳を傾けてくれるはずだ。
 安宿媛の邸も兵衛に警護されていた。
「内臣にして安宿媛様の兄、藤原房前だ。通せ」
 門を警護する兵衛に大音声で告げた。もちろん、安宿媛に声を聞かせるためだ。
「だれも通してはならんとの命にございます」
 どの兵衛も同じ言葉を発して房前の行く手を阻む。
「聞こえなかったのか。わたしは内臣、藤原房前。安宿媛様の実の兄だ」
「だれであろうとここを通すなという――」
「よい」
 門の向こうから聞き慣れた声が流れてきた。麻呂が姿を現した。
 甲冑(かっちゅう)を身につけ、太刀を佩(は)いている。
「麻呂――」
「安宿媛様は内臣を通せと仰せだ」
「は――」
 兵衛たちが一歩下がった。
「兄上、どうぞ」
「なぜおまえがここに......」
「安宿媛様が不安だと言うので、昨夜はここに泊まらせてもらったのです」
「その格好はなんだ」
「長屋王に与(くみ)する者たちが兵を率いて向かってくるかもしれませんからね。なにがなんでも安宿媛様をお守りせねば」
「長屋王の邸でなにかあれば、ここの兵衛たちを率いて駆けつける算段なのだろう。すべては武智麻呂兄上の采配か」
「わたしたち兄弟三人の考えです」
 麻呂は寂しそうに笑った。
「なぜだ、麻呂。おまえは、おまえだけは武智麻呂兄上や宇合とは違うと思っていたのだぞ」
「父上が言っていたのです。我々兄弟は四神だと。四人が力を合わせ、首様と安宿媛様を支え、お守りするのだと。わたしにはこうすることがおふたりを支え、守ることなのだと思えるのです」
「我々は臣下だ。天皇を支え、守り、間違いを正す――」
「臣下である前に家族です。安宿媛様はもちろん、首様にも父上の血が流れているのです。お忘れですか」
「麻呂――」
「兄上と議論するつもりはありません。もう、事は動き出したのです。後は、終わりを待つだけです。さあ、こちらへ。安宿媛様がお待ちです」
「たとえ血を分けた親族であろうと、臣下は臣下の道を進まねば――」
「議論するつもりはないと言ったでしょう」
 麻呂が声を荒らげた。
「兄上にとっては正しいと思われることでも、わたしにとっては間違いとしか思えぬこともあるのです。どうしてそれがわからないのですか。自分が絶対に正しいからですか。兄上は絶対に間違いを犯さないのですか」
 麻呂が房前に向かって、これほどまでに激しい言葉を吐き出したのは初めてのことだった。
「滑稽(こっけい)ですよ、兄上。兄上は藤原の家に生まれなければよかったのです」
 麻呂はそう言うと、安宿媛の居室に向かって歩き出した。房前はその後を追った。
「待て、麻呂。これはわたしが正しいとか間違っているという話ではない。臣下としてのあるべき姿というのは――」
「藤原の家の者は、ただの臣下ではありません。天皇と手を携えて政を主導する特別な血筋なのです。父上がそのための道筋を作ったのですよ」
「それは臣下としてあるまじき考えだぞ、麻呂」
「安宿媛様がお待ちだと言ったのをお忘れですか」
 麻呂の声は頑なだった。房前は口を閉じた。
 わたしたち兄弟はどこで道を違えてしまったのだろう――頭の奥で声がする。
 武智麻呂とはそもそもから進む道が違った。だが、宇合と麻呂は自分と同じ道を歩んでくれるのではないかという淡い期待を持っていた。
 だが、宇合も麻呂も武智麻呂と同じ道を歩もうとしている。それが藤原の家に生まれた者の宿命だと考えてでもいるかのようだ。
 それは違うぞ、麻呂。
 房前は麻呂の背中に声にならない声をかけた。
 この国にいるのは天皇とその臣下。それだけだ。藤原の者であっても、臣下であることに変わりはない。天皇のため、国のために尽くすのが臣下だ。そうではないか。
 麻呂が安宿媛の居室に入っていく。部屋の前にも兵衛がいた。房前は麻呂の後に続いた。
「兄上」
 安宿媛が部屋の真ん中に座っていた。一睡もしていないのか、顔色が優れない。
「安宿媛様――」
 房前は膝をついた。
「どうか、首様をお止めください。このままでは取り返しのつかないことになります。なんの罪もない長屋王を断罪するなど、あってはならないことです」
「なんの罪もないとおっしゃるのですか」
 安宿媛が言った。房前を見つめる目は氷のように冷えていた。
「よくもそのようなことが言えますね、兄上。長屋王は呪いをかけて皇太子を殺したのですよ」
「安宿媛様、それは――」
「これ以上長屋王をかばい立てするなら、兄上も同罪だと首様に進言いたしますよ」
 氷のような目に青い炎がともったような気がした。強い憎しみの炎だ。
 武智麻呂は天皇の心に不信という名の種を蒔(ま)いた。それは時間をかけて成長し、花開き、実を結んだ。だが、安宿媛には時間はいらなかっただろう。待望の皇太子が亡くなり、傷ついた心に蒔かれた種はあっというまに結果したのだ。
 だれかを憎まずにはいられず、差し出された長屋王という生け贄(にえ)に食らいついたのだ。
「これから、どうするおつもりですか」
 安宿媛の問いかけの意味が掴めず、房前は瞬きを繰り返した。
「長屋王がいなくなれば、政を主導するのは武智麻呂兄上になるでしょう。首様も、今回の件で兄上が長屋王をかばい立てしていたと知れば、兄上を疎ましく思うようになるはずです。名ばかりの内臣になるのですよ」
「わたしは自分がどうなろうともかまいません。ただ、臣下の道を正々堂々と歩くだけです」
「兄上はそれでよくても、子供たちはどうなるのです。鳥養(とりかい)たちの将来を父である兄上が摘んでしまうのですよ」
 鳥養をはじめとする息子たちの顔が脳裏をよぎった。
「息子たちは自らの手で道を切り開いて行くでしょう」
 房前は答えた。
「父親がそのような態度では、子供たちに恨まれますよ。本当に困った人ですね。武智麻呂兄上に謝るのです。謝ってこれまでの態度をあらためれば、藤原不比等の次男としての道がまた開けます」
「それはできません。わたしは不義を見過ごすことはできないのです」
「不義ですか」
 安宿媛の目の奥で燃える炎が揺らめいた。
「謀反を企んだ者を首様が討てと命じたそのことを不義だと言うのですね」
「安宿媛様、わたしは――」
「出ていきなさい」
 安宿媛が声を荒らげた。
「二度と、わたしの前にその顔を出すでない」
 穏やかな笑みが絶えることのなかった顔が怒りで歪んでいた。
「安宿媛様、お聞きください――」
「兄上」
 房前はなおも言いつのろうとしたが、麻呂に制された。
「聞こえませんでしたが。安宿媛は出ていけとお命じになったのです。その命にも逆らうとなれば、それこそ謀反と同じです」
「麻呂......」
「行きましょう。もう、諦めるしかないのです、兄上」
 麻呂の顔に浮かんでいるのは憐れみの色だった。
 房前は目を閉じた。
 自分は負けたのだ。わかってはいたが、抗わずにはいられなかった。その結果、安宿媛をさらに傷つけ、疎んじられた。
「自業自得、か......」
 房前は呟き、腰を上げた。体が重く、足がだるい。体の中から活力が消え失せてしまっていた。
 安宿媛の部屋を出た。ついてきた麻呂に告げた。
「武智麻呂兄上に伝えてくれ。わたしは兄上を決してゆるさないとな」
「我々も房前兄上のことをゆるしたりしませんよ」
 麻呂の声は冷たかった。もはや、房前のことを兄と見なしてはいないのだ。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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