四神の旗第十七回

十四

 道慈(どうじ)が武智麻呂(むちまろ)の邸を訪れてきたのはまもなく日が暮れようとする頃合いだった。
 道慈は見るからに不機嫌で、案内してくる家人(けにん)の言葉にも空返事をするばかりだった。
「いかがなされた、道慈殿」
 武智麻呂は道慈に腰を下ろすよう促した。
「佐保(さほ)の邸からの帰りなのですがな」
 道慈は穢(けが)れた言葉を口にしたとでもいうように唇をきつく閉じた。
「左大臣となにかあったのですか」
「なにかあったというわけではないが......あのお方は仏道をないがしろにしておられる」
「とおっしゃいますと」
「写経はもうすぐ終わるところなのですが、長屋王(ながやのおう)はすでに奥書(おくがき)を書いております。けしからん」
 武智麻呂はうなずいた。確かに、奥書は写経が終わってから書くというのが常だ。だが、長屋王の性格からして、終わりが見えたということは終わったも同然と考えて不思議はなかった。
「その奥書にはあってはならないことが書かれておりましてな」
 道慈は言葉を切り、家人が運んできた白湯を口に含んだ。武智麻呂は黙ったまま、道慈が口を開くのを待った。
「これを読む者は邪を除き、悪を去る。これに目を通す者は福を得て栄華を成す」
「それはまた......」
 武智麻呂は言葉を失い、両の手で拳を握った。
 写経とは経を書き写す行為そのものに意味がある。経を唱えることで邪を祓(はら)い、悪を遠ざけるというのなら、わざわざ書き写す必要はない。
 奥書にそのようなことを書いたというのは、経ではなく、長屋王が写した経にこそ意味があり、効果があるということではないか。
「まことにそのようなことが書かれているのですか」
 道慈がうなずいた。
「それだけではありませんぞ。奥書には、歴代の天皇はみな神霊となった高市皇子(たけちのみこ)と御名部皇女(みなべのひめみこ)に守護されているのだとも書かれておりました。すなわち、今上天皇も高市皇子の力なくしては玉座に就くこともかなわなかったという意味でしょう」
 道慈は顔をしかめた。よほど腹に据えかねているらしい。
「あまりに腹が立ち、あまりにおぞましかったので早々に退散してまいりました。御仏の言葉を自分の都合のいいように変えようとしているのです。止めてくださいませ。中納言(ちゅうなごん)殿」
「しかし......」
「あれは仏道ではありません。左道(さどう)に相違ない」
 道慈は吐き捨てるように言った。
「左道ですか......」
 左道とは、つまり、呪術だ。御仏の教えに背を向け、邪(よこしま)な力に身を委ねる。
「つかぬことをお訊きしますが、長屋王が写経をはじめたのはいつだったでしょうか」
「確か、五月頃だったと聞いておりますが、それがなにか?」
「いえ。たいしたことではありません」
 五月といえば皇太子に病の兆候が現れた頃だ。
 武智麻呂は額に指を当てた。
 皇太子の病は悪くなる一方だった。最近は乳も飲まず、侍医が煎じる薬もすぐに吐き出してしまう。
 安宿媛(あすかべひめ)はもちろん、天皇もその姿に心を痛め、眠れぬ夜が続いている。
 これがだれかの呪いであれば――武智麻呂は額に当てていた指を口元に運んだ。指先を歯で噛んだ。鋭い痛みが走る。指先には血が滲んでいた。
「なにをされておるのですか、中納言殿」
 道慈が血を見ておののいた。
「皇太子様のことを思うと、いても立ってもいられないのです。皇太子様の苦しみを少しでも我が身に引き受けようと......」
「そのようなことをしても無益です。経を唱え、御仏に祈るのです。それしか、皇太子様をお救いする道はありません」
「心得ております」
 武智麻呂は白湯を口に含み、左道について思いを巡らせた。

        * * *

 皇太子様がみまかった――報せを聞いて、房前(ふささき)は東宮(とうぐう)に向かった。
 東宮では女官や侍従たちの泣き声が途切れることなく続いていた。
 房前は女官に断りもいれず、皇太子の部屋に飛び込んだ。
「皇子よ、我が皇子よ、なんということか」
 天皇が皇太子の亡骸(なきがら)を見下ろし、さめざめと泣いていた。その横で、安宿媛が放心している。その頬はげっそりと痩(こ)けていた。
「首(おびと)様、安宿媛様、内臣(うちつおみ)房前が参りました」
 房前は膝をつき、嘆き悲しむふたりに頭を下げた。
「このたびは――」
 なにかを口にしなければと思ったが、言葉が続かない。深い悲しみに打たれているのは房前も同じだった。
「兄上......」
 安宿媛が房前に腕を伸ばした。房前はその手をそっと握った。
「痛ましいことです。どんなにお辛いことでしょう」
「わたしはいいのです。わたしよりも、首様が......」
 安宿媛は心痛に満ちた目を天皇に向けた。自分の腹を痛めた子が亡くなったというのに、自分より天皇のことを心に留めている。
 天皇を心から慕っているのだ。そして、強い女人なのだった。
「内臣、なぜだ。なぜこのようなことになったのだ。余に徳がないからか。不徳な余を罰するために、天が皇子を奪っていったのか」
 天皇の声はひび割れていた。
「そのようなことはございません。皇太子様はただ、病に冒され、幼子ゆえに、その病に打ち克(か)つことができなかったのです。それだけのこと。ゆめゆめ、ご自分を責めてはなりません」
「自分を責めずして、だれを責めろというのだ」
 天皇は膝から崩れ落ち、拳で床を叩いて嗚咽(おえつ)した。
「首様、わたしのせいでございます。わたしがいたらぬ母ゆえ、皇太子は亡くなってしまったのです」
 安宿媛が房前の手を振り払い、泣き続ける天皇をその腕に抱いた。
「馬鹿なことを申すな。そなたほど立派な母がどこにおる。こんなに痩せ細るまでに心を砕き、皇子を看病していたことはだれもが知っておる。内臣――」
 天皇は泣き腫れた赤い目で房前を睨んだ。
「これはだれの仕業なのだ。だれが余と安宿媛にこんな仕打ちをするのだ」
「首様――」
 房前は頭を垂れた。悲しみに引き千切られた心が天皇を惑わせている。
 だれのせいでもない。これが皇太子の持って生まれた運命だったのだ。
 だが、それを今口にしても天皇は聞く耳を持たないだろう。
 時が、天皇の心を癒やしてくれるのを待つしかなかった。
「中納言を呼べ」
 天皇が言った。
「内臣、中納言を呼ぶのだ。余にはあの者が必要だ。すぐに呼べ」
「しかし、首様。このようなときに、左大臣を差し置いて中納言を呼ぶというのはしきたりに反します」
「黙れ。中納言でなければならぬのだ。余のこの苦しみをいくばくかでも和らげてくれるのはそなたでも左大臣でもない。中納言だ。中納言を呼べ」
 なにを言っても無駄なようだった。
「かしこまりました。すぐに、使いを走らせます」
 房前は一礼して、部屋を出た。泣きじゃくっている侍従のひとりを掴まえる。
「中納言、藤原(ふじわらの)武智麻呂殿の邸に行ってくるのだ。皇太子様のことを告げ、首様がお呼びだと伝えよ。皇太子様のことは、中納言にしか伝えてはならぬ。よいな」
「はい」
 侍従は涙と鼻水を拭うと、房前に背中を向けて駆けていった。
 天皇の嗚咽が外にまで聞こえてくる。房前は天を仰いだ。
 天よ、なんと残酷なことをなさるのですか――心の内で呟くと、涙が止まらなくなった。

        * * *

 佐保の邸にこれだけの人が集まるのは久しぶりのことだった。
 皇太子の訃報(ふほう)を受けて、これまで長屋王と距離を取っていた者たちも続々と集まってきている。
 武智麻呂の――藤原の力が弱まると見て、長屋王に媚(こ)びを売りに来たのだ。
「式部卿(しきぶきょう)ではないか。なぜそなたがここに」
 阿部広庭(あべのひろにわ)が宇合(うまかい)に気づき、近寄ってきた。
「左大臣に呼ばれたのです」
「しかし、そなたは藤原の......」
「だからなんだとおっしゃるのです。藤原の者は左大臣と話をしてはいけないとでも」
「い、いや。そんなことはない。しかし――」
「失礼します。急いでいるので」
 宇合は邪険に言って、阿部広庭の傍らを通り過ぎた。宇合をみとめた者たちが声を潜める。だれもが、この邸に宇合が現れたことに驚きと不審を隠せずにいるようだ。
 長い廊下を歩き、長屋王の居室に辿り着いた。家人に取り次ぎを命じると、すぐに長屋王の声が響き渡った。
「式部卿殿、お入りください」
 家人が戸を開けるのを待って、宇合は部屋に足を踏み入れた。
 風が顔に当たった。部屋の奥の窓が開け放たれ、長屋王は立って庭の景色を眺めている。風は庭から吹き込んできたものだ。
「相変わらず美しい庭です」
 宇合は長屋王の背中に声をかけた。
「少し、風に当たりたいと思いまして」
 長屋王が振り向いた。
「寒ければ閉めますが」
「わたしはかまいません」
 宇合は長屋王の隣に立った。
「木々の葉も色づきはじめましたね。この庭の美しさは紅葉で一層引き立つ」
「それを考えて作らせたのです。静かに庭を愛でていたいのですが、次から次へと客がやって来る」
「みな、不安なのです」
 長屋王は意地の悪い笑みを浮かべた。
「藤原に取り入ろうとしていた者たちが、一斉に行き先を変えた。それだけのことではありませんか」
「みな、生きるのに必死なのです」
「式部卿殿は心が広い」
「長男と次男は互いに牽制し合い、末っ子は甘えん坊です。となると、三男は心を広くして生きていくしかありません」
 長屋王の笑みが苦笑に変わった。
「それで、左大臣殿、わたしになんの用でしょう」
「座りましょう」
 長屋王は窓を閉めた。
「首様はまだ居室に閉じこもったままでしょうか」
 向かい合って座ると、長屋王が訊いてきた。
「左大臣が式部卿にそれを訊ねるのですか」
「弔問したあとは、宮には近づいておらぬのです」
 宇合はうなずいた。
「おっしゃるとおり、首様は居室に閉じこもったままだとか」
「内臣がそばについておいでで」
「房前は東宮に。安宿媛をお支えしております。首様には――」
「中納言がついているのですね」
「ええ。左大臣や内臣を差し置いて、中納言如きが天皇のそばに侍っているとはなにごとかと口さがない連中が申しております」
「首様と中納言がなにを話しているか、わかりませんか」
「こんなときに、兄のもとを訪れて首様となにを話しているのかと問い詰めろとおっしゃるのですか」
 長屋王は微笑もうとしたが、顔が強ばった。
「気になるのは理解できますが」
「知る手立てはありませんか」
「唯一の手立ては時を待つことです。いずれ、首様の悲しみも癒えましょう。そうなれば、武智麻呂も首様のそばを離れることになります。話を聞き出すのはそれからです」
「もどかしいのです」
「わかります」
 宇合は腕を組んだ。今頃、武智麻呂は天皇の心に植え付けた疑心という名の種から生えた花に実をつけさせようと力を注いでいるだろう。
 道慈という僧侶が、武智麻呂になにか知恵を授けてくれたらしい。その知恵がどんなものかは、武智麻呂は言葉を濁して語ってはくれなかった。
「中納言は焦っているはずです」
 長屋王が言った。
「皇太子こそがあのお方のよって立つところだったのです。皇太子がいれば、安宿媛を皇后に据えることもできると考えていたでしょう。それが崩れた。あなたが中納言なら、どういたしますか」
「安宿媛が次の皇子を産むのを待ちます」
 長屋王は苛立たしそうに首を振った。
「もうひとりの皇子がいるのです。生まれてくるかどうかもわからぬ皇子を待つような人ではない。弟なら、それぐらいのことはわかっているでしょう」
「それでも、武智麻呂には待つしかないのです」
 長屋王は溜息を漏らした。
「もどかしい」
「待ちましょう。今はただ、首様と安宿媛の悲しみが癒えるのを祈ることしかできません」
「そうですね。確かに、式部卿の言うとおりだ。ここではわかっていても――」
 長屋王は自分の頭を指さした。
「ひとりで考え込んでいると、もどかしさにいても立ってもいられなくなるのです。式部卿に来てもらって助かりました」
「わたしでよければ、いつでも馳せ参じます。ところで、例の写経はどうなっているのですか」
 宇合は訊いた。武智麻呂に、長屋王の写経はどうなっているのか確かめろと念を押されていたのだ。
「皇太子様の件でしばし途絶えておりましたが、もう間もなく完成いたします。写経がどうしました」
「いえ。長屋王様の写経が完成すれば、首様の悲しみも薄らぎ、都に平穏が訪れるのではないかと思いまして」
「わたしもそれを願い、写経に勤しんでいるのです」
「長屋王様の思い、必ずや御仏のもとに届くでしょう」
「そうであればよいのですが」
 長屋王はまた溜息を漏らし、そんな自分を恥じるように唇を噛んだ。

        * * *

 迷った挙げ句、麻呂(まろ)は箏(そう)を手にして東宮を訪れた。
 東宮は墓所のように静まりかえり、家人たちも息を潜めるようにして行き来していた。
「先ほどまで、内臣様がいらしていたのですが、お帰りになりました」
 麻呂の案内を買って出た女官が言った。皇太子が亡くなってから、房前は安宿媛につきっきりだと聞いている。それが帰ったというのだから、安宿媛の悲しみも少しは癒えたということなのかもしれない。
「三千代(みちよ)殿は」
「この東宮にて寝泊まりいたしております」
「さようか。安宿媛様の様子はどうだ」
 麻呂の問いかけに、女官は首を振るだけだった。
 取り次ぎが終わると、麻呂は襟を正し、部屋に入った。
「安宿媛様、麻呂にございます」
 安宿媛は机に向かい、筆を動かしていた。
「写経でございますか」
「ええ」
 安宿媛は麻呂を見ようともせずに答えた。
「皇太子の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うため、諸国の寺に、大般若経(だいはんにゃきょう)の写経をさせようと思うのです。まずは手始めにわたしから」
「それはよいお考えです。わたしもはじめることにいたしましょう」
「本当でございますか」
 安宿媛は筆を置き、麻呂に向き直った。
 麻呂は息を呑んだ。
 安宿媛はすっかり痩せ衰え、眼窩(がんか)まで落ちくぼんでいた。
 ろくに食べず、眠りもしていないのだろう。それほどの喪失感に襲われたのだ。
「安宿媛、食べねばならん。寝なければだめだ」
 麻呂は思わず兄の口調で言った。
「わかっております。母上にも房前兄上にも叱られておりますから。これからは食べ、眠るようにいたします」
 安宿媛は微笑んだ。だが、その笑みはすぐに崩れ、目に涙が溢れはじめた。
「安宿媛」
 麻呂は箏を放り出し、安宿媛のそばに駆け寄った。
「ごめんなさい、兄上。もう泣くのはよそうと心に決めたのに、涙が止まらないのです」
「よいのだ。泣けばよい。涙が涸(か)れるまで泣き続ければよい」
 麻呂は安宿媛を抱きしめた。安宿媛は麻呂の肩に額を当て、泣き続けた。
「いらしていたのですか、麻呂殿」
 突然の声に顔を上げると、三千代が戸口に立っていた。
 いくら血の繋がった兄とはいえ、天皇の夫人と抱き合っているのだ。麻呂は狼狽した。
「これは三千代殿」
 慌てて立ち上がろうとした麻呂を、三千代が手で制した。
「そのままで」
 麻呂はうなずいた。安宿媛はまだ泣いている。
「安宿媛と麻呂殿は本当に仲がいい。房前殿がいても、肩を借りて泣くことなどないというのに」
「年が近いからでございましょう」
 三千代が微笑んだ。その頬も、安宿媛と同様に痩けている。不比等(ふひと)と共に見た夢が潰(つい)えようとしているのだ。その心の内は穏やかではあるまい。
「安宿媛、だれかに見られたらどうするのです。いいかげん、泣くのはおやめなさい」
「はい、母上」
 安宿媛は涙に潤んだ声で言い、麻呂から体を離した。
「兄上、ありがとう」
「よいのです。辛いとき、苦しいときはいつでも呼んでください。喜んでこの肩を貸しましょう。我ら兄弟は四神なのです。首様と安宿媛様を守り、支える四神です」
「四神ですか」
 三千代が訊いてきた。
「はい。昔、父にそう言われました」
「不比等殿が......」
「まだわたしが幼い頃のことですが」
「安宿媛。写経はどうしたのですか」
 三千代は安宿媛に顔を向けた。
「わたしが写経の邪魔をしたのです」
 麻呂は言った。
「これから続けます」
 安宿媛は机に向かい直した。
「それなら、わたしは麻呂殿と少し話したいことがあります。よろしいですか、麻呂殿」
「わたしはかまいませんが」
「では、こちらへ」
 三千代が部屋を出た。麻呂は安宿媛に一礼し、その後を追った。
 三千代は東宮がまるで自分の邸であるかのように歩き、とある部屋の中に入っていった。麻呂もその部屋に入り、戸を閉めた。
 三千代が部屋の真ん中に座った。麻呂はその向かいに腰を下ろした。
「話とはなんでしょう?」
「葛城王(かつらぎおう)に、わたしの力を受け継ぐべきだと言ったそうですね」
 予想していた問いだった。麻呂はうなずいた。
「はい。宮中における三千代殿の力は大変なものでした。それを子が受け継がずにいるというのはもったいないことです」
「あなたも不比等殿の力を受け継ぎたいのですか」
「こう見えても、わたしも男ですから、人並みの野心はあります。四男だからというただそれだけのことで、いつまでも兄たちの後ろを歩かねばならぬという道理はないでしょう」
「やはり、あなたにも不比等殿の血が流れているのですね」
 三千代は視線を宙にさまよわせた。不比等の幻影を見ているのかもしれない。
「不比等殿とわたしの夢が結実したのが皇太子でした。不比等殿とわたしの血の流れる者が玉座に就き、次の玉座も、またその次の玉座も、わたしたちの血を引く子孫が継いでいくのです」
 三千代は視線をさまよわせたまま口を開いた。
「ですが、その夢は潰えました」
「そう断じるのは早計です。安宿媛がまた皇子を産めば――」
「次に生まれるのは皇女かもしれません」
 麻呂の言葉は三千代の強い声にかき消された。
「もう、安宿媛は皇子を産まないかもしれない」
「三千代殿――」
「わたしにはもうあまり時が残されてはおりません。生まれてくるかどうかもわからぬ子を待っている余裕はないのです」
 三千代が麻呂を見た。その目は血走り、痩けた頬とあいまって、三千代を悪鬼のように見せた。
「不比等殿と共に見た夢は潰えても、わたしがひとりで見た夢はまだ続いています」
「もうひとりの皇子ですね」
 皇子の母である県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)は三千代に連なる一族の出身だった。
「わたしはわたしの力を使ってあの皇子を皇太子にしようと思います」
「つまり、それは――」
「そう。それは、藤原との縁を断ち切るということです。武智麻呂殿は藤原の血を引かぬ皇太子を決して認めようとはしないでしょう。ですから、これからは藤原とわたしの戦いになるのです」
「わたしも藤原の人間だということをお忘れですか」
 麻呂は言った。三千代が笑った。
「不比等殿の力を得たいのなら、あなたは武智麻呂殿と袂(たもと)を分かつ必要があります」
「そうですね」
「県犬養の皇子が皇太子になれば、葛城王は臣下に下って政(まつりごと)に加わりましょう。そして、いずれは左大臣にまで登るはずです。あなたも葛城王と共に上を目指すべきです」
「橘(たちばなの)三千代の力と、藤原不比等の力を合わせるのですね」
 三千代がうなずいた。
「しかし、長屋王が皇子の立太子を認めるでしょうか」
「難しいでしょうね。ですから、長屋王は必ず政の中心から退いてもらわねばなりません」
「それには武智麻呂の力が必要です」
「承知しています。長屋王を倒すまでは、武智麻呂殿と手を組む必要がありますね」
 麻呂は笑った。
「そこまで考えておられるのですね。さすがは三千代殿です」
「どうします、麻呂殿」
「県犬養の皇子にこの身を捧げようと思います」
 麻呂は身を正し、三千代に向かって深く頭を下げた。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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