四神の旗第十六回

        * * *

「皇太子の様子はどうなのですか」
 太上天皇に問われ、房前は唇を舐めた。
「あまり芳しくはありません。しかし、首様の命により、諸国の寺はもとより、諸司百官、民草にいたるまで、皇太子様の平癒を願って祈祷をいたしております。いずれ、病状も回復されるでしょう」
「ならばよいのだが......長屋王はいかがいたしておる」
「お会いになってはいないのですか」
 太上天皇は寂しそうに微笑んだ。
「このところ、顔を見せてはくれぬ。あの者も変わってしまった。昔は聡明で優しい若者だったのだ。だが、あの頃は持統天皇(じとうてんのう)と不比等が力をふるっていた。長屋王はそれを間近で見てきたのだ。それゆえ、わたしたちが歯痒(はがゆ)くてならぬのだろう。母上と、わたし、それに首は、持統天皇や不比等にはとても及ばぬ」
「そのようなことはありません」
 房前は首を振った。
「よいのだ。自分たちの至らなさはよくわかっている。とにかく、心配だ」
「わたしも皇太子様のことが心配でなりません」
「そうではない。心配なのは、そなたたち藤原の兄弟と長屋王のことだ」
 太上天皇が正面から房前を見つめた。房前は頭を垂れた。
「母上の願いは、そなたたちと長屋王が手を取り合って首を支えることだった。よもや、忘れてはいまいな。そのために、そなたを内臣に任じたのだ」
「忘れるわけがございません。あの日の阿閇(あへ)様のお言葉は、この胸に深く刻み込んであります」
「そうであろう。そなたは誠実な男だ。だが、そなたの兄は違う。母上は武智麻呂を太政官から追い出すべきだったのだ」
「氷高(ひだか)様......」
「首を玉座に就けるためには、まだ藤原の力がいる。そうお考えだったのだろう。だが、首が天皇になった今、武智麻呂は目障りでしかない。こうなることはわかっていたのだ」
 太上天皇は溜息を漏らした。
「まこと、政というのは難しいものだ。皇太子が健やかであれば藤原と長屋王の対立など、些細な問題にすぎぬ。しかし、皇太子に万一のことがあれば、武智麻呂はいかがする」
「わたしにはわかりかねます」
 房前は唇を噛んだ。
「安宿媛がまた皇子を産めばいいのだが、だが、県犬養(あがたのいぬかい)の娘も皇子を産んでいる。そこが問題だな。皇太子がみまかれば、間違いなくもうひとりの皇子を皇太子にと言い出す輩(やから)が出てくる。生まれたばかりの皇子を皇太子にしたのだ。もうひとりの皇子を皇太子にと言われても、反対はできぬであろう」
「皇太子様は必ずや快癒なされます」
「万が一のときのことを考えておくのが政というものであろう、内臣」
 太上天皇の声が怒気を帯びた。
「失礼いたしました」
 房前は平伏した。
「武智麻呂はどう出るか。それに対して長屋王はどう対するか。わたしはすべてを知っておかねばならぬ。どのような細かいことでもよい。武智麻呂と長屋王の動きを逐一、わたしに知らせよ」
「かしこまりました」
「不比等の息子がそなたひとりなら、このように頭を悩ます必要もないのだがな」
 太上天皇は、また寂しそうな微笑みを浮かべた。

        * * *

 佐保の邸に客の姿はなかった。聞こえるのは庭で鳴く鳥の声と、廊下を行き来する家人たちの足音だけだった。
 皇太子が病を得ている間は、さすがに長屋王も宴席は控えていた。もっとも宴を開こうとしたところで訪れてくる者もない。
 宇合は手にした書物をめくった。唐の薬に関する書物だった。
 唐にいる間、医術についても学びたいと思っていたのだが、時間を作ることがかなわなかった。今となってはそれが恨めしい。
「式部卿様、主が戻って参りました」
 外から声がした。宇合は書物を脇に抱え、書庫を出た。
 長屋王は庭を見渡せる部屋の真ん中に座っていた。額に浮いた汗を拭おうともせず、目を宙にさまよわせている。
「その様子では、皇太子様のご様子は芳しくないようですね」
 宇合は長屋王の向かいに腰を下ろした。
「首様は眠りもせずに、経典を唱えておられる。政が滞ったままだ」
「それは致し方ないのではないですか。天皇と皇太子あってこその国なのです」
「それはそうなのですが......中納言の様子はどうですか」
「こちらも、一睡もせずに頭を悩ませております」
「皇太子がこの世を去れば、もっとも痛手を被るのは首様と中納言ですからね」
 宇合は首を振った。
「だれよりも心を痛めるのは安宿媛様にございましょう」
「それはそうですね」
 長屋王の言葉には誠がなかった。長屋王はいつもそうだ。人の痛みには関心がない。
「皇太子様に万一のことがあれば、次は県犬養の娘が産んだ皇子を皇太子に推すおつもりですか」
 長屋王が腕を組んだ。
「わたしは皇太子様の立太子にも反対したのです。もうひとりの皇子を皇太子にするにしても、それは皇子が成長なされてからのこと。その間に、また安宿媛様が皇子をお産みになれば、首様はその皇子を皇太子にと望まれるでしょうし」
 宇合はうなずいた。人の痛みには関心がない。とはいえ、武智麻呂たちが考えているほどには私心もない。
 長屋王の望みは、ただ、自分の信じる理想に向かって突き進んでいくことなのだ。
「房前殿は、氷高様に呼ばれたようですが、なにを話し合ったのか、宇合殿の耳には入っておりますか?」
「残念ながら。ここしばらく、房前とは会っておりませんので」
「なんとかして話を聞き出せませんか」
「長屋王様が氷高様にお訊きになられた方が早いのでは」
「氷高様はわたしを疎んじておられます。自業自得なのですが」
 長屋王は苦笑した。
 理想に向かってできるだけ早く突き進もうとするあまり、人の心の機微を軽んじてしまう。だから、太上天皇にも天皇にも疎まれるのだが、それがわかっていてもやめられない。
 長屋王の傲慢(ごうまん)と慢心だ。
 たとえ疎んじられたとしても、自分は正しいのだから問題はない。そう考えているのだ。
「訊くだけは訊いてみますが、あまり期待はしないでください」
「このようなときに、中衛府を創設するというのは、皇太子様に万一があった場合、事を起こすためではないかと不安に思っている者たちがおります」
 長屋王が話題を変えた。
「事を起こす......なにを起こすというのですか。もし亡くなるのだとしても、皇太子様は病を得て亡くなるのです」
「ただの根拠のない不安です。その者たちには、中衛府の要職はわたしの信頼できる者たちに就かせていると話してありますが、それでだいじょうぶですね」
「はい。いざとなれば、中衛府は我々の思うとおりに動きます」
「それはよかった」
 長屋王は微笑んだ。
「その書物はなんですか」
「唐の医術を記したものです。微力ながら、皇太子様のお力になれぬものかと思いまして。わたしも、忠実な臣下ですから」
「わたしとて、皇太子様には早く快癒なさってもらいたい。先ほどあなたが言ったとおり、天皇と皇太子あってのこの国ですから」
 宇合はうなずいた。
「さて、わたしは大般若経の写経の支度をしなければなりません」
「ええ。わたしはこれで失礼します」
「そもそもは、わたしの父の功績をたたえ、また、首様と皇室の繁栄を願うためにはじめた写経ですが、こうなってくると、皇太子様の快癒の力添えになればと思うのです」
 宇合は立ち上がり、長屋王を見下ろした。
「長屋王様のお心は、みなに伝わると思います」
 長屋王が嬉しそうに微笑んだ。宇合は一礼し、長屋王に背を向けた。

        * * *

 三千代は一心不乱に読経(どきょう)していた。衣も髪の毛も乱れているが、気にする様子はまったくない。ただひたすらに仏に縋(すが)り、皇太子の快癒を祈っている。
「もう三日もああしているのです」
 葛城王が嘆息した。
「わたしがなにを言っても聞く耳を持たない。わたし以外の人間ならもしやと思って麻呂殿をお呼びした次第」
 経典を睨む三千代の目には狂気に似た光が宿っていた。
「母上」
 葛城王が声をかけたが、三千代は読経を続けるだけだった。
「母上、麻呂殿がお見えです。左右京大夫(さうきょうのだいぶ)、藤原麻呂殿ですぞ」
 三千代の声が揺らいだ。読経する声は次第に小さくなり、やがて消えていった。
「これは麻呂殿、ご無沙汰しております」
 三千代は麻呂に向き直り、ときおり咳き込みながら頭を下げた。目が赤らみ、声もかすれている。
「こちらこそご無沙汰いたしております」
 麻呂は頭を下げ、葛城王と共に三千代の向かいに腰を下ろした。
「顔色がすぐれません。少しは休んでおられるのですか。体を労(いたわ)らなければ――」
「皇太子様が生死の境をさまよっておいでなのです。わたしの体など、どうなろうとかまいません」
「三千代殿......」
「麻呂殿、今日はどういったご用でしょうか」
「特にこれといった用事はないのですが」
「では、わたしは読経を続けたいので、これで失礼いたします」
 三千代の態度は素っ気なかった。
「仏に縋るより先に、やるべきことがあるのではありませんか」
 経典に向き直ろうとしていた三千代の動きが止まった。
「皇太子様に万一のことがあったとき、もうひとりの皇子を皇太子にしようという動きを阻止しなければなりません。それとも、あの皇子は県犬養の血を引いているゆえ、かまわないと思っているのですか」
 三千代が唇を舐めた。血の気を失っていた唇が赤みを取り戻していく。
「次の玉座に就くのは、安宿媛の産んだ皇子でなければなりません」
 三千代の言葉に麻呂はうなずいた。
「県犬養の血を引く皇子は、立場が弱すぎるのです。藤原の血、いえ、不比等殿の血を引く皇子が皇太子、そして次の天皇になってこそ意味がある。わたしは断じて、県犬養の皇子を皇太子にしたいとは思いません」
「ならば、橘(たちばなの)三千代の力をふるわねば」
 麻呂は静かに言った。
「わたしの力を......」
「そうです。宮から出たとはいえ、橘三千代の力が消えたわけではない。今こそ、その力を思う存分発揮するときではありませんか。少なくとも、不比等ならば、嘆き、祈るよりも前に、あらゆる手を打とうとするはずです」
「そうですね。不比等殿ならば、間違いなくそうするでしょう」
 三千代の顔が鬼にも思えたそれから穏やかなものへと変貌していった。 
 憑(つ)きものが落ちたのだ。
「わたしとしたことが、女はだめですね、麻呂殿。自分の腹を痛めた娘と、その娘が産んだ子と思うだけで取り乱してしまいます」
「三千代殿はそれでよいのだと思います。この世に、藤原不比等はふたりもいりません」
 三千代が微笑んだ。
「昔、まだ幼かったあなたに言われたことがあります。三千代殿は父上にそっくりだ。覚えておられますか」
「ええ。覚えておりますとも」
 三千代は何度もうなずいた。
「それでは、わたしは出かける支度をせねばなりません」
「では、失礼いたします」
 麻呂は三千代に挨拶をし、葛城王に誘われて別の部屋に移った。
「いや、驚きました。家人やわたしが諫(いさ)めても、まったく聞く耳を持たなかったというのに、麻呂殿が話しかけただけでああも変わるとは」
 葛城王は家の者に酒の支度を命じた。
「わたしの後ろに父を見ているのです。三千代殿を正気に戻らせたのはわたしではなく、父なのですよ」
「それにしてもです」
 葛城王は腕を組み、首を振った。
「三千代殿のあのような顔は初めて見ました。母であり、祖母なのですね」
「わたしも初めて見ましたよ」
 葛城王が苦笑した。
「もし、まだ宮中に残っていたとしたら、あそこまでにはならなかったと思うのですがね」
「それが人というものかもしれませんね。ときおり、思います。父が長生きして、年を取って政から身を引いたら、どうやって生きていくのだろうとね。政がすべての人でした」
 酒膳が運ばれてきた。麻呂は葛城王と酒を酌み交わした。
「中納言や内臣はどうなさっているのですか」
 葛城王が水を向けてきた。
「忙しく立ち働いているようです。ふたりとも、夜もろくに寝ていないようで、げっそりと痩(こ)けておりますよ」
「中納言にとっては、母以上に辛い日々でしょうな。長屋王を追い落とすには、皇太子様の存在が必定。もし皇太子様がいなくなれば、すべての目論見は霧のように立ち消えになる」
「たださえ待ち望んでいた皇太子だったのです」
 麻呂は酒を啜(すす)った。
「その皇太子が死んだら、中納言はどう動きますか。わたしは先日の麻呂殿の言葉から夢を見ていたのですが」
「どんな夢です」
「県犬養の血を引く者が玉座に就く夢です。そのお方が天皇になられれば、わたしは政を補佐することができるようになるのではないかと」
「三千代殿も同じ夢を少しは見たかもしれませんね。しかし、藤原の血を引く天皇と、県犬養の血を引く天皇では話が違ってきます」
「承知しています。県犬養には、悲しいかな、藤原のような力はない。皇太子にはなれたとしても、玉座に就けるかどうかは運次第ということになりましょう。だれからも後ろ指さされることなく玉座に就けるのは、その身に皇親の血しか流れていない者か、藤原の血を引く者。首様が玉座に就いたとき、そういうしきたりができてしまったのです。不比等殿は恐ろしいことを成し遂げました」
「武智麻呂は、そのしきたりを確固たるものにしようと躍起になっているのです」
「そうそう、武智麻呂殿です。話を戻しましょう。武智麻呂殿はどういたしますかな。別の皇子の誕生を待つのか、それとも......」
「安宿媛の立后です。皇太子がこの世からいなくなるのなら、真っ先にやらねばならぬのはそれでしょう」
「しかし、立后(りつごう)は、皇太子様がいてこそ可能になるのでは。次の天皇の母が夫人のままではなにかと都合が悪い、そこで立后をという話に持っていくのでしょう」
「皇太子様がいなくなれば、武智麻呂が頼れるのは安宿媛様しかいなくなるのです」
 麻呂は盃を膳に戻した。
「なにがなんでも安宿媛様の立后を目指すでしょう。皇后になれば、将来、首様に万一のことがあった場合でも、次の天皇を決めるのは安宿媛様ということになりますから」
「しかし、長屋王がいる限り、立后はたやすいことではない」
「首様も安宿媛様の立后を望むはず。長屋王もいずれは認めざるをえなくなると踏んでいるのではないでしょうか」
 葛城王がうなずき、酒を口にした。
「しかし、男と女の情など、脆(もろ)いものですぞ。今は首様も安宿媛様をご寵愛されているが、別の愛おしい女が現れたらどうなります」
 麻呂は微笑んだ。
「わたしはあのおふたりを幼いときから見ているのです。他の女人に心を動かされることはあるかもしれませんが、それでも首様は決して安宿媛様を見捨てたりはしません。あのおふたりの間にあるのは、そういう絆なのです」
「なるほど。幼子の頃より、一緒に育っておられましたからな」
 葛城王が顔をしかめた。
「我々の出番はどこかにありますかな」
「ただ出番を待つのではなく、作るのです」
「待つというのは辛いものです。わたしはこれまで、ひたすらに待ってまいったのですよ」
「わたしもです」
 麻呂は盃を握り、中の酒を一息に飲み干した。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー