四神の旗第十一回

 天皇はもとより、武智麻呂(むちまろ)が喜びの感情を露(あら)わにするのは珍しいことだった。不比等(ふひと)が死んで以来、目にしたことはなかったのではないか。
 幼い頃はよく笑っていた男が笑わなくなった。
 政(まつりごと)の場では、心の様を表に出してはならぬ――不比等の口癖だったが、武智麻呂は頑なにその教えを守っているのだ。
 房前(ふささき)は女官たちに酒宴の支度を命じた。その間も、天皇と安宿媛(あすかべひめ)、そして武智麻呂の声が途絶えることはない。
 だれもが待ち望んでいた懐妊なのだ。
 房前は三人、中でも武智麻呂の表情を盗み見ながら歓談の輪に加わった。
 安宿媛が皇子を生めば、武智麻呂は長屋王(ながやのおう)への攻勢を強めていくだろう。長屋王はそれにどう応じるのか。
 そして、自分はどうすべきなのか。
 長屋王と共に、首(おびと)を支えよ――元明(げんめい)天皇の言葉が耳にこびりついている。
 病に伏した太上天皇が下した命なのだ。逆らうことはとてもできない。
 武智麻呂との血の絆を断つこともできない。
 どうすればいいのか。
 どれだけ考えても答えは見つからず、悩みは増すばかりだった。
 自分は水面に浮かぶ木の葉だ――房前は思う。水の流れに身を任すことしかできない。
「なにを難しい顔をしているのだ、房前」
 武智麻呂に肩を叩かれて我に返った。すでに酒肴(しゅこう)は運ばれ、武智麻呂の頬は酒に淡く染まっていた。
「今日はめでたき日ぞ。そなたも飲め」
「そうだ、内臣(うちつおみ)。今日はなにもかもを忘れて飲むのだ」
 天皇が盃を呷(あお)った。その隣で、安宿媛が微笑んでいる。
「いただきます」
 房前が手にした盃に、武智麻呂が酒を注いだ。房前はその酒を飲み、無理矢理笑みを浮かべた。

        * * *

 書庫で書物を見繕っていると、長屋王が姿を現した。
 佐保(さほ)の邸だ。
 宇合(うまかい)が訪れたときは長屋王はいなかった。書物に夢中になっている間に、かなりの時が流れたのだろう。
「相変わらずですね、式部卿(しきぶきょう)」
 長屋王が微笑みながら近づいてくる。
「難波宮(なにわのみや)を造営するのに、少しばかり知りたいことが出てまいりまして」
 宇合は笑顔で応じた。
「曹司で世間でも、安宿媛のご懐妊で浮かれているのに、あなただけは変わらない。この邸も、ここ数日は訪れる者もいないというのに」
「わたしは難波宮造営の責任者ですから、仕事をおろそかにするわけにはいきません。首様は難波宮が完成するのを待ち望んでいるのです。そして、この国で一番、唐の書物があるのはここですから。人の姿がないとは思いましたが」
 佐保の邸はいつ訪れてもだれかが酒宴を開いているか、歌の詠み比べを行っている。だが、安宿媛の懐妊が発表された辺りから、めっきりと人の姿が減っていた。
「みな浮かれているのです。生まれるのは皇子(みこ)か、皇女(ひめみこ)か。だれもが皇子の誕生を願っていますが、皇子が生まれれば生まれたで、困った事態が生じるかもしれない」
「困った事態ですか」
 宇合はわざと首を傾げた。
「わかっているくせにとぼけるのは、やはりその体にも藤原(ふじわら)の血が流れているのですね」
 長屋王が首を振った。
「生まれる皇子にも藤原の血が流れています。武智麻呂殿の力が強まるのです。これまではわたしに愛想笑いを見せていた者たちは、どうすべきか迷っていることでしょう」
 宇合は手にしていた書物を元の場所に戻した。
「首様は長屋王様を寵愛なさっておいでです。それに、長屋王様には他にも頼もしい者がついておりますよ」
「だれのことですか」
 今度は長屋王が首を傾げた。
「内臣です。血の絆より阿閇(あへ)様が下された命の方を大事に思う男ですから。実の兄であっても、阿閇様の命に逆らうような事態になれば、全力でそれを阻止しようとするでしょう」
「血の絆よりそちらを重んじますか」
「ご存じでしょう。房前兄は、そういう男なのです」
「内臣殿はそうだとして、式部卿や左右京大夫(さうきょうのだいぶ)はどうなのですか。やはり、血の絆が大事でしょう」
 宇合は微笑んだ。
「麻呂(まろ)のことはわかりません。しかし、わたしのことでよければお答えしましょう」
「是非、お聞きしたい」
「わたしがなにより重んじるのは、わたし自身の内なる声です」
「あなたの内なる声......」
 長屋王の目が細くなった。
「その声は、夢を果たせとわたしに語りかけてくるのです」
「唐を手本にした国造りですか......では、式部卿はその夢の実現に手を添えてくれる者であれば、血の絆に背を向けてもかまわないとおっしゃるのですね」
「好きなようにお考えください。そろそろ、わたしは失礼いたします」
 宇合は長屋王に一礼し、書庫を後にした。呼び止める声はない。
 表に出て、邸を振り返った。しんと静まりかえった邸は巨大な墓のようにも思えた。
「さて、どうするのです、長屋王。わたしを取り込もうと見え透いた嘘をつきますか。それとも、真のあなたを見せてくれますか」
 宇合の声は、突然吹いてきた風に運ばれていった。

        * * *

 麻呂は久しぶりに安宿媛の邸を訪れた。
 最近、安宿媛が塞ぎがちだと葛城王(かつらぎおう)から聞かされていたからだ。懐妊がわかった頃には笑顔の絶えなかった安宿媛になにが起きたのか、麻呂は心配でならなかった。
「安宿媛様、麻呂が参りましたぞ」
 安宿媛の居室に案内された麻呂は、女官に取り次ぎを求めると、安宿媛の返事も待たずに部屋の戸を開けた。
「兄上」
 麻呂を認めた安宿媛の顔に笑みが浮かんだ。だが、その笑顔にはいつもの闊達(かったつ)さがなかった。
「最近、元気がないと聞き及んで駆けつけたのですが、いかがなさいました。気が塞いでいると、お腹の皇子に障(さわ)りますよ」
 麻呂は安宿媛の向かいに腰を下ろした。安宿媛は皇子という言葉に眉をひそめた。
「まだ皇子かどうかはわかりません」
 刺々(とげとげ)しいその言葉で、麻呂は安宿媛が気落ちしているわけを悟った。
「周りの声がうるさすぎますか」
 女官が箏(そう)を運んできて、麻呂は口を閉じた。不比等が大切にしていた箏は手入れが行き届き、主を失った今でも爪弾くことに問題はなさそうだった。
「首様も、武智麻呂兄上も、皇子を、皇子をと同じ言葉を繰り返します。他の者たちもです。生まれてくるのが皇女だったらどうするのですか。そのことを考えると、夜も眠れないのです」
 女官が去ると、安宿媛が口を開いた。
「みな、男ですからね。女人の、とくに懐妊した女人の気持ちなどわからないのです」
 麻呂は箏を軽くつま弾いた。指先が弦に触れるか触れないかの、微妙な指さばきで音色を奏でていく。
「もし生まれてくるのが皇女なら、首様はさぞ失望されるでしょう。武智麻呂兄上もです。そうなったら、わたしは......」
「確かに、首様は失望されるでしょうね」麻呂は箏を弾きながら言った。「しかし、それは一時のこと。首様の安宿媛様に対するお心が変わるわけではありません」
「それはわかっています。でも、首様が悲しむだろうと思うと......」
「この音曲を耳にしたことはありますか?」
 麻呂は弦をつま弾く指先に力を加えた。箏が奏でる音が大きくなる。
 安宿媛が首を振った。
「いいえ。初めて聞きます」
「これは唐の曲で、彼の地の人々は、懐妊した女人にこの曲を聴かせるのだそうです」
「なぜですか」
「この音色には、お腹の子を男子にする力があると信じられているのだそうですよ」
 安宿媛の目が丸くなった。
「本当ですか」
「本当かどうかはわかりません。酒の席で聞いた話ですので。ただ、箏の音を聞くだけのこと。お腹の子に害はありますまい。それで本当に皇子がお生まれになったら儲けものです」
 安宿媛が口に手を当て、くすりと笑った。
「兄上ったら。昔から、兄上が一番、わたしを上手に笑わせてくれました」
「今一度、奏でます。よく耳を傾けていてください」
「そういたします」
 麻呂は肺に息を溜めた。箏をつま弾く。心を込めて、精一杯に。
 唐の音曲が部屋に満ちていく。
 皇子よ、生まれよ。邪気のない円(つぶ)らな瞳で母を見つめよ。安宿媛を安らかにせよ、笑わせよ。藤原の血を受け継ぐ者たちをその光で照らせ。
 曲を奏で終えても、麻呂は両の手を弦に添えたまま動かなかった。すべてを音曲に込めたのだ。息が上がり、心は虚ろだった。
「素敵でした」
 安宿媛の声に我に返った。
 安宿媛は胸の前で両手を合わせ、感に堪えぬという表情を浮かべていた。
「兄上の箏がお上手だということは知っていましたが、ここまでとは。目を閉じて音色に耳を傾けていると、御仏のお心に触れたような気がしました」
「それほどのものではありません。ただ、安宿媛様とお腹の子のために。精一杯つま弾いただけでございます」
「その優しい心が、御仏に通じたのだと思いますよ」
 安宿媛はそっと息を吐き出した。
「ありがとうございます、兄上。わたし、もう、自分ではどうにもできないことで思い悩むのはやめにいたします」
「それが一番です」
「御仏にすべてを任せればいいのです。御仏は間違ったことはなさいませんから」
 麻呂はようやく箏から手を離した。指先が痛む。それほどの力で箏をつま弾いたのは初めてのことだった。
「我ら兄弟にとっては、安宿媛様こそが御仏ですよ」
 安宿媛が麻呂を睨んだ。
「わたしが皇子を産めば、藤原の家が栄華を極めるからですか」
「そうではありません」麻呂は首を振った。「安宿媛様の笑顔を見ていると、心が安らぐからです。ご覧なさい、武智麻呂兄や房前兄を。政に没頭すると、だれもが笑顔を失います。父上がよく言われていた。政をする者は心の動きを表に出してはならんと」
「覚えております」
「喜びや怒り、悲しみを押し隠しているうちに、心が冷えていくのです。だから、武智麻呂兄も房前兄も滅多に顔をほころばせることがない」
 安宿媛がうなずいた。
「ですが、安宿媛様と一緒にいるときは、あのふたりも笑顔を見せます」
「そうでしょうか。武智麻呂兄上がわたしに笑顔を見せてくださるようになったのは、懐妊してからだと思います。それ以前は、いつも仏頂面をなさっておいででした」
 麻呂は苦笑した。
「武智麻呂兄は、だれよりも気苦労が多いからでしょう」
「政など、やめてしまえばいいのに」
「そうはまいりません。首様をお支えしなければ」
「そうですね。兄上、もう一曲、奏でてもらえませんか。今度は、春を思わせる音色がいいです。春が来て温かくなれば、お腹の子にもいいでしょうし」
「承知いたしました」
 麻呂は息を整え、箏に手を伸ばした。再び、心を込めて弦をつま弾く。
 自分が太政官(だいじょうかん)に席を得るのはまだ先のことだろう。それまでは、安宿媛の、この愛おしい妹の心を安らげてやるために力を尽くせばいいのだ。
 微笑みながら目を閉じ、箏の音色に耳を傾けている安宿媛の姿は、実際、仏のような慈しみに満ちていた。

        * * *

「舎人(とねり)様」
 武智麻呂は曹司から邸へ戻ろうとする舎人親王の背中に声をかけた。舎人親王が振り返った。
「中納言(ちゅうなごん)殿。そなたも帰るところか」
 武智麻呂はうなずき、舎人親王と肩を並べた。
「安宿媛様の様子はどうかね」
「お腹もかなり膨れております。中にいるのは元気な皇子にございましょう」
「なんとしてでも皇子を産んでもらわねばな。最近、変なことを吹聴する輩(やから)がいるが、皇子が生まれればそやつらも口を閉じよう」
「変な噂ですか」
「もし、首様に皇子が生まれなければ、次の玉座に就くのは長屋王かその子孫だというのだ。血筋的にはあり得ないことではないが、首様に対する不敬ではないか」
「さようにございます」
 武智麻呂は顎に指を当てた。
「舎人様はどう思われているのです。仮に、首様に世継ぎができなかった場合、だれが次の玉座に座るべきか」
「それを決めるのはわたしではない。氷高(ひだか)様だ」
 舎人親王は太上天皇の名を口にした。
「しかし、氷高様も最近は体の具合がすぐれない様子」
「氷高様がもしあちらの世に旅立たれたら、そのときは、首様が決めることになろう」
「まったく素晴らしいお方ですね、舎人様は」
「突然、なんだ。年寄りを褒めたところで、そなたの得になることはなにもないぞ」
 武智麻呂は微笑んだ。
「私心なきその心構えを、わたしも見習いたいものです」
「藤原の者が私心を捨てられるものか」
 口調はきついが、言葉に毒はない。舎人親王は機嫌がすこぶるいい様子だった。
「首様から舎人様に言づてがございます」
 武智麻呂は話題を変えた。
「首様から......内臣ではなく、そなたがことづかったのか」
「はい。おそらく、内臣には聞かせたくないのだと思います」
「なんだ。申してみよ」
「安宿媛様が皇子をお産みになったなら、できるだけ早く立太子を執り行いたい。その折には、是非とも、舎人様の力をお貸しいただきたいとおっしゃっておりました」
「待て。いくら待望の皇子だといっても、それは早すぎる。しきたりによれば、皇子の立太子は――」
「首様はそれをご承知の上で、無理なお願いをしているのです」
 舎人親王は立ち止まり、腕を組んだ。
「しかし、我ら皇族がそれを良しとしたとしても、長屋王は到底承服すまい」
「されど、左大臣とて、首様の意を無視することはできません。議政官の多くが立太子に賛同すれば、左大臣も承服せざるを得なくなるでしょう」
「まことに首様のご意向なのだな」
 武智麻呂はうなずいた。
 長屋王の政に対する不満はそこかしこで渦巻いている。掲げる理想は立派だが、人の心の機微を軽く見すぎるのだ。
 舎人親王を筆頭とする皇族たちも、不満をため込んでいるに違いなかった。
「口さがない連中も跡継ぎが決まっているとなれば、黙り込むしかあるまい。早くに立太子を済ませてしまうのは、首様にとってはよいことかもしれないな」
 天皇の母は不比等の娘、つまり、臣下の娘だ。臣下の血が流れている天皇はその座に相応しくない。
 口には出さずとも、そう考えている者は大勢いた。
「よいだろう。この件に関しては、そなたと足並みを揃えよう」
「ありがとうございます」
「そなたの望みは立太子、そして立后か。皇太子の母となれば、皇后に相応しいという名分も立つ」
「そのような大それたことは考えてもおりません」
「嘘をつく必要はない。ここは太政官ではないのだ。皇太子には母が必要だ。それも、それなりの位を持つ母がな......だが、道のりは険しいぞ、中納言」
「心得ておりますが、我が父も険しい道のりを歩んでまいりました」
「不比等殿には持統(じとう)天皇と県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)がおった。そなたにはだれがおる」
「弟たちがおります」
 舎人親王が笑った。
「果たして、内臣は本当にそなたの味方なのであろうかの」
 舎人親王は腕をほどき、歩きはじめた。武智麻呂はその背中をじっと見つめた。

 産声が聞こえた。
 落ち着きなく部屋の中を歩き回っていた天皇が足を止め、房前を見た。
「聞こえたか、内臣」
 声が上ずっている。
「はい。聞こえました。産声にございます」
 房前の言葉が終わる前に、天皇は部屋を飛び出していた。止めようとする侍従たちを振り切り、庭を横切って産室に向かって駆けていく。
 房前はその後を追った。
 産声が次第に大きくなる。
 皇子だ。皇子に違いない。
 声を聞くにつれ、確信が深まっていく。房前は胸が躍るのを覚えた。
 安宿媛が皇子を産んだのだ。
「どうであった。皇子か」
 天皇が肩を揺らしながら産室の前に侍っていた女官に尋ねた。
「おめでとうございます、首様。立派な皇子にございます」
 産室の中から三千代の声が響いた。出産に際し、三千代は安宿媛の邸に寝泊まりしていたのだ。
「内臣」
 天皇が房前を見た。その目は欲しくてたまらなかった玩具を手に入れた幼子のように輝いている。
「皇子ぞ。安宿媛が皇子を産んだ」
「おめでとうございます、首様」
 房前は地面に膝をつき、叩首(こうしゅ)した。
「会わせよ。我が皇子に会わせよ」
 天皇が叫ぶ。女官たちが慌てて止めに入った。
「お待ちくださいませ、首様。安宿媛様は皇子様をお産みになられたばかり。今しばし、お待ちを」
「待てぬ。通せ」
「首様」
 房前は産室に入ろうとする天皇の前に立った。
「お気持ちはわかりますが、お待ちを」
「どかぬか、内臣。皇子だぞ。待ちかねていた皇子が生まれたのだぞ」
「お待ちくださいませ」
 房前は膝をついた。
「首様、どうぞ、お入りになられませ」
 三千代の声がした。天皇は房前を一睨みし、産室に駆け込んでいった。
 戸が開いた瞬間、皇子の産声が途絶えた。
「よくやった、安宿媛」
 天皇の声が一層高くなる。
 房前は立ち上がり、耳を澄ました。天皇が安宿媛をねぎらう言葉が続いた。内臣といえども、産室に立ち入ることはゆるされない。声から中の様子をうかがうことしかできなかった。
「皇子の顔を見せてくれ、三千代殿」
「元気な皇子にございます」
 また産声が聞こえてきた。
「おお、よく泣く皇子じゃ。ほれ、父ぞ。そなたの父がそばにおるぞ」
 いつもとは違う天皇の声の響きに、女官たちの顔がほころんでいた。
「内臣様、左大臣様たちがお越しです」
 女官のひとりが房前の耳に囁いた。房前は産室の前を離れ、庭の真ん中に陣取った。
「内臣殿、皇子がお生まれになったと聞いたが」
 長屋王を先頭に、議政官たちがぞろぞろとやって来る。だれもが喜びを露わにしていたが、武智麻呂だけが仏頂面だった。だれよりも嬉しいくせに、その感情を押し殺している。
「はい。皇子がお生まれになりました」
「なんとめでたい」
 長屋王が感に堪えぬという声を出した。
「首様、おめでとうございます」
 だれかが声を発し、地面に膝をついた。他の者たちもそれに倣(なら)った。
「首様、おめでとうございます」
 一斉に和する。その声に応じるように、産室から天皇が姿を見せた。
「そなたたち、もう、皇子が生まれたことを聞きつけたのか」
「だれもが待ち望んでいた皇子にございます。当然でございましょう」
 長屋王が腰を上げた。
「心よりお祝い申し上げます、首様。皇子はお元気にございますか」
「もちろんだ。安宿媛が腹を痛めた皇子ぞ。元気いっぱい泣いておる」
 天皇は言葉を切り、口と目を閉じた。その目尻が濡れて光っている。
「左大臣、祝いの酒を飲みたいのだ。付き合ってくれるか」
「もちろんです」
「中納言、内臣、そなたたちもだ」
「喜んでお付き合いさせていただきます」
 武智麻呂が声を張り上げた。顔は仏頂面のままだが、声が震えている。
 この世で、だれよりも安宿媛が皇子を産むことを望んでいたのは武智麻呂だ。
「後ほど参る。我が居室で待っておれ」
 天皇はそう言い残すと、また産室の中に消えた。
「それでは、我々も参りましょう。安宿媛様はお疲れのはず。ここで騒いでいては休まるものも休まりません」
 長屋王が他の議政官たちを促し、庭を後にした。残ったのは房前と武智麻呂だけだった。
「とうとう、安宿媛がやってくれたぞ」
 武智麻呂が言った。
「はい」
「我が祈りが天に通じた」
「はい」
「雌伏(しふく)の時は終わりだ。父上が手にしていたものを取り返すときが来たのだ、房前」
 父の望みは、天皇と藤原の者が共に支え合うことですぞ、兄上。決して藤原だけの栄華を望んでいたわけではありません――房前は言葉を飲み込んだ。
「長屋王の顔を見たか。青ざめていたぞ」
「もう参りましょう、兄上。ここでする話ではありません」
「そうだな。つい、我を忘れてしまった。行こう。今日は思う存分飲むとしようではないか」
 武智麻呂が踵(きびす)を返した。いつも以上に力強い足取りで庭を後にした。

四神の旗

Synopsisあらすじ

「そなたらはこの国の四神となれ」

自らの一族を「神」にしようとした男、藤原不比等は没した。

遺された四人の子ーー武智麻呂、房前、宇合、麻呂は父の意志を受け継ぎ、この国の中枢に立つことを決意する。その野望を阻むのは類い稀なる政の才覚を持つ皇族、長屋王。そして父・不比等の妻にして最大の協力者、橘三千代であった。陰謀渦巻く宮中で巻き起こる、古代史上最大の事件とは……。

Profile著者紹介

はせせいしゅう

1965年北海道生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。96年『不夜城』で小説家としてデビュー。翌年に同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年に『鎮魂歌(レクイエム)――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。著書に『比ぶ者なき』『パーフェクトワールド』『雨降る森の犬』など多数。

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