持続可能な魂の利用第9回

 ドーム型の会場に轟く歓声に敬子は圧倒される。
 大きな音のうねりに飲み込まれそうだ。
 地鳴りのような響きは個々の言葉としては識別できないが、観客たちが発しているグループ名や推しの名前、腹の底から溢れ出る高揚感、一万七千人分のこのバリエーションで構成されているのだろうと察せられた。
 どの瞳もステージをただ一心に見つめている。観客が手に手に握りしめたペンライトが場内の瞳の数を何倍にも膨れ上がらせる。それぐらいに、ペンライトと同じぐらいに、彼らの瞳は一様に輝いていた。
 その空間の意外な居心地の良さに、敬子は最初肩透かしをくらった気持ちだったが、じきに慣れた。
 同系列の先輩グループの客層がほとんど中高年以上の男性であり、ライブ会場にはむっとした匂いが立ち込めていると、それが理由で足が遠ざかる女性ファンもいると、アイドルのライブにおけるマナーを事前にネットで調べていたらいくつか書き込まれており、そんな中に混じって大丈夫だろうか、浮かないだろうか、という敬子の危惧はまったくの杞憂に終わった。
 会場に入る前から、想像していた客層と違うことは明らかだった。
 駅前から続く長い歩道橋には、期待に胸を膨らませ、わいわいと仲間で会場に向かっている若い世代の姿でいっぱいだった。
 確かに男性が多かったが、彼らは十代、二十代がメインの層であり、三十代以降が柿の種におけるピーナッツぐらいの割合でそこに混ざっているような状態だった。男性の一人客もざらにいる。敬子と同じ年代で一人で来ているらしい女性の姿もめずらしくなく、敬子は安堵した。
 驚いたのは、思いのほか、女性が多いことだった。
 男性のメイン層と同じく、十代や二十代の彼女たちは、おしゃれをしてきたことがちゃんとわかる格好で、連れ立って歩いていた。頭に花飾りをつけ、お揃いの服でキメている二人組もいた。通っている学校のものかはわからなかったが、制服を着てきた子たちも。
 この系列のアイドルは脈々と、学校の制服を衣装として取り入れてきた。
 もともと、この国の男たちは、女性の制服姿に異常に敏感だった。プロデューサーであるあの男は、何十年も前からそれを熟知していた。
 学校生活を送っている間は、同級生の女の子たちの制服姿を意識して過ごし、卒業後も、成人後も、制服の女の子を機会があれば消費することに躊躇しない。それが日本の男たちの日常だった。
 その欲望に応えるべく、文化やメディアや政府やあらゆる団体はまるであの男に倣うように、ことあるごとに「制服の女の子」をつくり出し、使用し続けてきた。構成人員がほとんど男なのだからそうなるだろう。なにしろ彼ら自身の欲望でもあるからだ。彼らに罪の意識は皆無だった。
 長年にわたり、普通の女の子も、つくられた女の子も、多くの男たちにとって、存在価値は、役割は一緒だったのだ。
 その結果、普通の女子中学生、女子高生が、テレビの中のアイドルと同じように消費の目で見られるのが当たり前の現代社会が定着した。
 でも、それでも、好きなアイドルと同じになれるからと、制服を身につけてライブにやって来た彼女たちのことを否定する気持ちは敬子にはまったく湧かなかった。むしろ、わかった。
 アイドルの女の子たちと普通の学校生活を送る女の子たちの共通点が制服だった。
「制服」がただ「制服」だった頃は、本当にあるんだろうか。いつから「制服」は「制服」ではなくなったのか。男たちに意味づけされる前の「制服」を想像することは今ではとてつもなく難しい。
 そう考えながらも、気づけば敬子の瞳も、ステージの上で制服を着て歌い踊っているメンバーたちに釘付けになっている。
 二階席の敬子から彼女たちの姿は遠く、表情はよくわからない。ステージ正面の左右に用意された大きなスクリーンに次々に映し出されていく彼女たちのアップを見て、本当にそうなんだ、とようやく納得ができるレベルだ。
 ××に至っては、長い前髪で顔が隠れがちで、スクリーン上でも表情がわからない。あの鋭い眼差しもよく見えない。
 それでも、開演し、観客の期待が充満したステージに××が最初に現れた瞬間、会場にはひときわ大きい歓声が上がった。各々違う推しの名前がプリントされたタオルを首に巻き、うちわやグッズを振っているのに、本物の××がここにいる、という事実に、皆思わず反応したようだった。
 ライブが進むにつれて、××を中央に据えた彼女たちがいかに不思議なグループか、敬子はしみじみと感じ入った。楽曲やテレビ出演時の新曲パフォーマンスをネットで漁るだけでは見えなかったことだ。
 もともと新曲としてシングルカットされるのは尖ったクールな曲がほとんどで、テレビの視聴者にとっては、そのイメージが強い。でも、アルバム全体を通して聴けば、アイドルらしいかわいらしい曲もそれなりにあり、メンバーそれぞれのソロ曲もある。こんな平凡な歌を彼女たちが歌う必要はあるのか、などと物足りなく感じたりもするが、ライブではこれらの曲のおかげで××以外のメンバーの魅力がよくわかる。
 テレビでは、どうしても××がピンポイントで抜かれがちだが、ライブだと、彼女たち一人一人にスポットが当たる。
 ××以外は脇役でしかないという心ない言葉もネットには散見されるが、こうして全体を通して彼女たちを見る機会に恵まれてみると、そういう言葉が心底馬鹿馬鹿しくなってくる。
 アイドルらしくない曲、アイドルらしい曲、そんな分類など野暮だとでもいうように、彼女たちは二つの世界観を器用に行き来し、会場を二分する五十メートルもの花道を満面の笑みを浮かべ、何度も走り抜けた。
 ころころと変わる彼女たちの表情と動きは、自由で、不敵だった。
 その中でただ一人、××だけが始終一度も笑みを見せなかった。
 笑顔のほうがむしろ自然に見える歌でも、MVでは白い歯を見せていた歌でも固い表情を崩さず、その頑なな様子は、ほかのメンバーの器用さの中だと、不器用、という言葉に敬子の頭の中で変換された。
 ××は長い花道を行き帰りする時も、ファンサービスをしなかった。ただ長い道のりを手持ち無沙汰で移動している。照れ隠しなのか、髪をしきりにかき上げながら。その分、彼女の個性に合った尖った曲にのめり込んでいるようで、そういう時は彼女という人に無理なくピントがあい、そのパフォーマンスは鬼気迫った。
 今、彼女はこっち側の世界にいたいのだ。こっちにチャンネルが合ってるんだ。
 敬子にはそう伝わってきた。それは会場にも伝わっていた。
 激しいパフォーマンスが終わり、休憩タイムに入ると、MCを担当しているメンバーが、「はーい、みなさーん、楽しんでますかー?」と声を張り上げ、観客がうおーと応える。
 彼女はMCに入る前、しばらくぜえぜえと荒い息を抑えられず、「すみません」と何度か小さな声で謝った。口パクのくせにと嘲笑うように批判する人たちに、彼女の今の様子を敬子は見せたかった。彼女たちは覇気のない舌ったらずの話し方で、どうでも良さそうな言葉遊びのゲームをはじめたが、敬子は泣きそうになった。
 さっきまでのパフォーマンスが嘘のように、まるで憑き物が落ちたかのように、彼女たちはへらへらゲームをしているが、その一言一言に観客は沸き、声援を飛ばす。
 そして、××は案の定、会話にもゲームにも参加しなかった。横に一列に並んだメンバーたちの間に挟まり、ずっと下を向いたままだ。時々、左右にいるメンバーに小さな声で何事か話しかけているのはわかったが、マイクを通して客席に向かって呼びかけることはない。MCの間、××は一度もスクリーンに映らなかった。
 アイドルグループの中心人物、いわゆるセンターが一言も話さず、悪くいえば、楽曲の選り好みをしている。
 端的にいえば、そういう事態だった。
 面白いのは、それでも悪い雰囲気ではなかったことだ。
 メンバーの間には、適材適所というような、わかったわかった、こっちは任せろ、という割り切った感じがあった。その感じが、女子校みたいで、敬子は女子校出身ではなかったが、女子校みたいだと思った。
 こんな学校が本当にあったらいいのに。
 敬子はうっとりした。
 アイドルの構造の中の彼女たちではなくて、そこから切り離された、純粋に目の前に立っている彼女たちだけの学校が。
 合わせない××を、異物、にしないメンバーたちの態度は今っぽくて、淡々としていて、穏やかだった。それよりそれぞれが自分のするべきことに集中していた。
 その雰囲気は、観客にも共有されていた。会場中が××の振る舞いに納得していたし、そういう××の魅力をわかっていた。グループのいびつさを、いびつなまま愛していた。
 これが今の日本で絶大な人気を誇るアイドルグループの姿であることに、敬子は感銘を受けた。あんなにも気になっていた、プロデューサーであるあの男の存在を、ライブの間に思い出すこともなかった。そこには女の子たちの楽園があるだけだった。

 駅構内のレストラン街にあるチェーン店のうどん屋で夕飯を食べて時間調節をし、ライブ終わりの電車の混雑を避けた敬子は、ほどよく混んだ電車に揺られた。外はもうすっかり暮れている。
 ライブ帰りの人たちの服装のおかげで、いつもより少し華やかな車内では、同じように時間をずらした女の子たちが、ライブ会場で手に入れたグッズを抱え、かわいかったね、楽しかったね、と感動冷めやらぬ様子で感想を語り合っている。小さな声で。
 その様子を見て敬子はライブ中に気づいたあることを思い出した。
 会場には女性たちの姿がたくさん見えたのに、いざライブがはじまると、聞こえてくる歓声が男性一色だったのだ。
 大きな、太い声にかき消されたのか、もともと小さな声しか出していなかったのか。
 後者のような気がした。
 二階席の敬子の並びの端には、高校生くらいの女の子が二人座っていた。
 ライブがはじまると、その二人は感極まったように両手のペンライトをぶんぶん振り、ステージに向けて一心に目を凝らした。大きな歓声を上げることはなかったが、時々、歌に合わせて唇をわかるかわからないかくらいに動かしていた。その静かで思いつめた様子は心に残った。
 敬子たちのブロックの一列目には大学生だろうと思われる青年がいたが、彼は気がはやるらしく一度も席に座らず、はじめから終わりまで立ちっぱなしで、盛大な歓声を飛ばしまくり、メンバーたちのおしゃべりやゲームに一つ一つ大きな声でツッコんでいた。一人で来ていた彼は、終演後、リュックを背負うと、任務終了とでもいうような迷いない、清々しい足取りで去っていった。
 あの女の子たちとあの青年は、同じくらい楽しんでいた。それは確かだった。ただ、アウトプットの仕方がまるで違った。そのことが敬子にはとても印象的だった。もちろんライブの種類や場所によっては、女性たちも思う存分声を出すだろうし、今日のライブも別にそれは可能ではあるように敬子には思えた。でも、彼女たちにはそうじゃなかった。
 もしかしたら、普段の彼女たちの声の小ささは、防御壁のようなものなのかもしれなかった。大人たちに、男たちに見つからないように、付け入る隙を与えないように、小さな声で自分自身を、自分たちの世界を守っているのだ。女性が大きな声を出すと、必要以上に周囲の目に留まり、苦々しい表情で注意されることも少なくない。そんなこと、女なら誰でも知っている。女性が楽しんでいると、釘を刺されることを。
 小さな声の彼女たちは、大きな声の人たちと同じくらい楽しんでいる。生きている。もしくは、大きな声を出しても、自分を発散させても安全な場所を熟知しているのだ。
 隠れて楽しむ。
 それは女性たちがはるか昔からやっていたことだ。
 電車が停車し、グッズを抱えた女の子たちが降りた。
 人が減るごとに、車内の祭りの雰囲気が少しずつ薄まっていく。敬子の駅まではあと三駅だ。
 これまで退屈だと思っていた曲も、実際に彼女たちのパフォーマンスを見た後だと、思い入れが全然違う。さっきライブで体感したばかりの××たちの楽曲をイヤフォンで聴きながら、敬子はSNSを開き、ライブの感想を検索してみる。
 ハイテンションな感想コメントたちの合間に、何食わぬ顔をしてシミ取り化粧品の広告が流れていく。
 シミが目立つ老いた女性の顔が、〝before〟として表示される。ホラー漫画のおどろおどろしいセリフのような、劇的な字体付きで。〝after〟はすっかり別人の、年齢も若い真っ白な顔をした女性だ。将来シミやしわができることばかり、老化することばかり、まるでホラーのように女性たちに教えて怯えさせるけれど、ほかに教えることはないのだろうか。もっと大切なことが、もっとホラーなことが、この社会にはたくさんあるだろうに。
 このストレスを、この抑圧を感じていない状況が敬子にはもう想像できない。この社会の中で生きすぎたから。
 でもそうじゃない状態、もっと社会整備が整った環境で暮らしている違う国の女性たちもたくさんいる。そのことも想像できない。あまりにも遠いから。実感がないから。
 いい世界を、少しも自分と結びつけて考えることができない。日本の女性たちはずっとそういう状態なんじゃないか。
 美穂子とエマの生活が頭に浮かぶ。美穂子は日本にいた時が嘘のように伸び伸びとして、外で人種差別にあっても、いきいきと怒っていた。
 台湾人のオーナーが経営している二人のいきつけのカフェで働く日本人女性はこう言っていた。
 ワーキングビザでここに来た。なんとしても恋人か、長期で雇用してくれる仕事を見つけてみせる。絶対に日本に帰りたくないから。
 もし日本がもっと違ったら、もっと対策がちゃんと取られていたら、今のように耐えたり、ストレスを感じたり、声を上げたり上げなかったり、戦っている時間を、日本の女性たちはどう過ごしていただろう。ストレスや悲しみや怒りや諦めのかわりに何を感じていただろう。それが本当に想像できない。
 魂は減る。
 敬子がそう気づいたのはいつの頃だったか。
 魂は疲れるし、魂は減る。
 魂は永遠にチャージされているものじゃない。理不尽なことや、うまくいかないことがあるたびに、魂は減る。魂は生きていると減る。だから私たちは、魂を持続させて、長持ちさせて生きていかなくてはいけない。そのために趣味や推しをつくるのだ。
 敬子はもう自分の魂は、どれだけ満タンにチャージしても、残り「82%」ぐらいなんじゃないかと感じる。さっきの××たちのライブでだいぶ充電されたけれど、それでももう「100%」には戻れない。一体人生のどの段階まで、敬子の充電は「100%」だったのか。
 そう考えるとあまりにも希望がなくて、敬子はこんな風に想像してきた。
 私は私の魂が死なないように、どこかに預けたんじゃないか。
 そう考えると、失われた「18%」のことが恐ろしくなくなる。
 敬子は本当にしゃれにならない事態になる前に、残量メーターが赤く表示される前に、「18%」をある場所に預けた。
 その場所は、敬子の魂が、日本の女性たちの魂が少女となって、自由に生きることのできる楽園だ。そこで少女たちが生きている限り、敬子たちの魂は死なない。その「18%」の保険があるから、現実を生き抜くことができる。
 ××たちの存在を知ってから、敬子の想像の楽園の少女たちは、××たちと重なるようになった。今では敬子の魂は、××たちの姿をしている。
 だから、見届けなくてはならない。彼女たちに何も問題が起こっていないか。健やかに暮らしているか。ちゃんとキャッチしなければならない。昔読んだ小説の中の青年が、ライ麦畑でそうしたかったように。なにしろ、彼女たちは自分の魂なのだから。
 ステージ上で適当なゲームに興じるだけではなく、経験者数名で突然バレーボールをはじめたり、五十メートルの花道で短距離走をしたりしていたさっきの彼女たちは、ライブ会場を本当に女子校に変えてしまったみたいだった。反芻して、敬子はおかしくなる。イヤフォンから、彼女たちの歌声が途絶えることなく聴こえている。
 次は、香川さんを誘ってみよう。
 敬子は思い、目を閉じる。

持続可能な魂の利用

写真:岩倉しおり

Synopsisあらすじ

ある日、カナダから帰ってきた敬子は気づいてしまった。日本の女の子たちが〝最弱な生き物〟であることに――!「アンデル 小さな文芸誌」にて連載された、松田青子による「持続可能な魂の利用」がWebBOCにお引っ越し&再スタート。日本にはびこる悪しき因習に切り込み、世界を呼吸のしやすい場所にする。人生を楽しくパワフルに変身させる物語の誕生です。

Profile著者紹介

松田青子(まつだ・あおこ)

1979年、兵庫県生まれ。同志社大学文学部英文学科卒業。著書に『スタッキング可能』『英子の森』『ワイルドフラワーの見えない一年』(以上、河出書房新社)、『おばちゃんたちのいるところ』(中央公論新社)、翻訳書に『狼少女たちの聖ルーシー寮』『レモン畑の吸血鬼』(以上、カレン・ラッセル/河出書房新社)、『AM/PM』(アメリア・グレイ/河出書房新社)『問題だらけの女性たち』(ジャッキー・フレミング/河出書房新社)、エッセイ集に『読めよ、さらば憂いなし』(河出書房新社)、『ロマンティックあげない』(新潮社)などがある。

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