北条氏康第四回

 広間の中央に勝千代、弁千代、志乃の三人が並んで坐っている。その後ろに笑右衛門が控える。
 乳母のお国は控えの間にいる。
「殿であられる」
 氏綱の小姓が広間に入ってきて告げる。
「頭を下げなされ」
 小声で笑右衛門が言うと、三人の子供たちは慌てて平伏する。
 氏綱が上座に腰を下ろす。
 十兵衛は、氏綱と子供たちの間、壁を背にして坐る。
「手紙を読んだ。随分と古い手紙を持ってきたものよのう。その方らは福島殿のお身内なのだな?」
 氏綱が子供たちに目を向ける。
「僭越ではございますが、わたくしが代わって話をしてよろしいでしょうか?」
「汝は?」
「大黒笑右衛門と申します。わが大黒家は、代々、福島家に仕えてきました。主・上総介に命じられ、ご嫡男・勝千代さまの傅役を務めております」
「勝千代殿は、いくつだ?」
「はい......」
 笑右衛門が答えようとすると、
「九歳にございます」
 勝千代が顔を上げ、大きな声で答える。
「ほう、九歳か。わしの倅(せがれ)と同い年ではないか」
「わたしは四歳にございます。弁千代と申します」
 兄に負けじと弁千代も大きな声を出す。
「志乃でございます。三歳です」
 志乃も顔を真っ赤にして挨拶する。
「元気な子供たちよのう」
 氏綱が目を細める。
「福島殿が亡くなられたことは聞いておる。わからぬのは、福島殿の子供たちが、なぜ、ここにいるのかということでな。わかるように話してもらおう」
 二年前の永正十八年(一五二一)二月、今川の大軍が甲斐に侵攻した。その中に福島上総介正成もいた。
 八月の河内の合戦、九月の大島の合戦と、今川軍は武田軍を続けざまに撃破し、甲斐の支配者・武田信虎を窮地に追い込んだ。
 しかし、十一月二十三日、背水の陣で臨んだ信虎は上条河原の合戦で激戦の末に今川軍を破った。この合戦で福島正成は戦死した。
 死んだとはいえ、福島正成は名前の知れ渡った猛将である。遺族の立場は安泰のはずであった。
 にもかかわらず、なぜ、正成の遺児たちが小田原にやって来たのか、それが氏綱には不可解なのだ。
「決して誰かを誹謗するわけではございませんが......」
 と前置きして笑右衛門は、次のようなことを説明する。
 正成の死後、福島家の主の座に納まったのは、正成の弟・重成(しげなり)である。正成には勝千代という後継ぎがいたものの、まだ七歳の幼児に過ぎなかった。
 太平の世であれば、幼子が家督を継ぐことも珍しくないが、戦乱の世では、そうはいかない。当主は郎党を引き連れて合戦に出なければならない。その役目は幼児には務まらない。
 それ故、当主が死んだとき、その兄弟や叔父が家督を継ぐというのは、よくあることであった。
 福島の家も、そうなった。重成の嫡男が無事に成長すれば、福島の家督は、その子が継ぐことになるし、勝千代や弁千代は、その子に仕えなければならない。それがこの時代の一般的なやり方なのである。
 問題がひとつ起こった。
 正成の妻・佐枝は美しいので評判だった。子供を三人産んでも、その容色は少しも衰えなかった。かねて佐枝に想いを寄せていた重成は、佐枝をわがものにしようとした。
 重成が独り身で、佐枝を妻に迎え、子供たちをわが子として育てるというのであれば、それもまた、この時代には不自然ではないから佐枝も承知したであろう。それが家を守っていくやり方だからだ。
 だが、重成には妻がおり、子供もいた。重成が佐枝をわがものにしようとしたのは、福島家を守るためではなく、己の欲望を満たすためであった。
 佐枝は断固として拒んだ。
 怒った重成は佐枝と子供たちへの支援を止めた。
 一家は困窮した。
 佐枝一人であれば、福島家と縁を切って実家に戻ることもできるが、正成の子供たちは福島家から離れることはできない。実家に頼ることもできなかった。そんなことをすれば、福島家の当主である重成のやり方に異を唱えることになるからだ。
 生活を切り詰め、奉公人たちに暇を出した。残したのは、笑右衛門、お国、弥助だけである。この三人は頑として佐枝のそばを離れることを拒んだのである。もちろん、無給である。
 結婚前はお姫様と呼ばれていた佐枝が野良仕事や針仕事に励んだ。その無理が祟ったのか、佐枝は体調を崩して寝込んでしまい、とうとう今年の春、亡くなった。臨終の場で、子供たちを連れて小田原に行くように、佐枝は笑右衛門に命じた。このまま駿府に残っても、重成が当主でいる限り、勝千代や弁千代が冷や飯を食わされ続けるのは間違いないからだ。今川で立身出世することは不可能なのである。
 それなら、思い切って主家を替える方がいい、と佐枝は考えたのであろう。
 こういう発想も、この時代だからこそで、封建制度の確立した江戸時代ではあり得ないことだ。
「つまり、駿河に残っても、この先、立身出世する見込みがないから小田原に来たということか?」
 氏綱が訊くと、
「さようでございます。それが奥方さまの遺言でございましたので」
 笑右衛門がうなずく。
「この手紙に書いてあることは本当だ。わしも覚えている......」
 氏綱は懐から手紙を取り出し、膝の前に置く。
 その手紙の内容は、宗瑞が福島正成に宛てた感謝状と言っていい。
 駿河の主・今川氏親(うじちか)と宗瑞は、甥と叔父という間柄で、血の繋がりがあるというだけでなく、互いに深く信頼し合う同盟者でもあった。
 宗瑞が大名となる足掛かりとなった伊豆討ち入りの際、氏親は宗瑞に今川兵を貸してくれたほどである。宗瑞が困っているときは氏親が力を貸し、氏親が困っているときには宗瑞が力を貸した。
 宗瑞の目は東に向き、三浦氏を始め、扇谷上杉氏や山内上杉氏と激戦を繰り広げたが、氏親の目は宗瑞の目とは逆に西に向けられていた。
 氏親は、頻繁に西に兵を出し、三河の松平氏、遠江(とおとうみ)の斯波(しば)氏と戦った。しばしば宗瑞に援軍を要請した。
 永正五年(一五○八)の秋、氏親の要請を受けて宗瑞は三河に出陣した。そのとき、宗瑞にしては珍しいことだったが、敵の罠にはまり、二十人ほどの兵と共に敵地で孤立した。十倍もの敵に包囲され、脱出する術もなく、絶体絶命の危機に陥った。
 そこに駆けつけたのが、わずか三十人の兵を率いた福島正成だった。兵の数はわずかだったが、不意に敵の背後を衝いたので、敵は混乱した。それを見て、宗瑞も出撃し、敵を退却させることに成功した。
 宗瑞は正成に感謝し、何かお礼をしたいと申し出たが、
「味方のために戦うのは当たり前のことでございますれば」
 と、正成は何もほしがらなかった。
 その正成の毅然とした爽やかな態度によほど感心したのか、韮山に帰ってからも、周囲の者たちに、
「上総介殿は武士の鑑(かがみ)よ」
 と、宗瑞は言い、ついには感謝の言葉を連ねた手紙を書き、その中に、いつなりとも何か望むことがあれば申し出てほしい、と認めた。
 十五年も昔の話だが、氏綱は宗瑞が正成を賞賛していたことを、よく覚えている。
 だから、手紙が本物であることを疑わなかったし、宗瑞が亡くなった今、宗瑞に代わって、宗瑞の約束を果たさなければならないと思った。生前、正成は宗瑞に何も望まなかったから、もし正成の遺児が何かを望むのなら、その望みをかなえてやるつもりだった。
「父が約束したことなので、わしが望みをかなえてやろう。何を望むのか?」
 氏綱が訊くと、
「北条さまの家来にしていただきとうございます」
 勝千代が大きな声を出す。すかさず、
「わたしも家来になりとうございます」
 弁千代が声を張り上げる。
「わたしもでございます」
 志乃まで兄たちを真似する。
「わしの家来にのう......」
 ふうむ、と氏綱が腕組みして思案する。
 やがて、
「学問は好きか?」
 と、勝千代に訊く。
「好きでございます」
「何を学んだ?」
「四書五経を学び終え、この春から『孫子』を学んでおります」
「何、『孫子』とな」
 氏綱の口許がぎゅっと引き締まる。
「はい」
「剣術は、どうだ?」
「好きでございます」
「わたしも好きでございます」
 弁千代が言い、学問はあまり好みませぬが、と小さな声で付け加える。
「十兵衛」
 氏綱が十兵衛に顔を向ける。
「この者たちに住むところを探してやれ。扶持米も与える。暮らしに困ることがないように計らってやるがよい」
「承知しました」
 十兵衛がうなずく。
「うっ......」
 広間に嗚咽の声が響く。笑右衛門が床に両手をつき、こらえきれない様子で泣いているのだ。
「ご無礼をお許し下さいませ。しかし、嬉しくて涙が止まりませぬ......」

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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